忍ぶ恋
それはぼんやりとした考え事に過ぎなかったが、いつの間にかシリオンがヴァレンドリエンに相談し、ヴァレンドリエンはそれを教母に伝えて、彼女が伯爵に口添えしてくれたようだ。おかげでアラリスは若くして自分の店なんて大層なものを持つことができたのだ。
店とはいっても、できたばかりでまともな商売にはなっていないのだが。
「あなたがお客さま第一号、ってわけだな」
「それは光栄だ」
周囲は誰も似たり寄ったり貧乏人が暮らす異民族区で店を開くのだから、賑わうはずがないのは最初から分かっていたし、そもそも利益をあげるつもりはなかった。
実際的な商売をしたいのなら市場に出て人間相手に吹っ掛けてやれば済むことだ。この店はエルフたちが助け合うために作ったものであり、儲けようと始めたのではなかった。つまるところ店を建ててもらったというよりは独り立ちの御祝いに家を贈られたようなものだった。
アラリスはこの恩をどう返せばよいのか悩んだが、シリオンは自分の行為を恩だとさえ思っていないらしい。彼はどうも自分をアラリスの父親代わりのように考えている節がある。世話を焼くのは当たり前で、礼は気持ちだけしか受け取ってくれない。金銭や物品で返そうとしてもさらりとかわされてしまう。
そんな性格だから老け込むのが早いんじゃないかと呆れるやら困るやら。
シリオンの親心に乗ったヴァレンドリエンや教母、ほか近しい人々、異民族区全体からの贈り物としてこの店をもらってほしいと言われ、アラリスはこの大きな贈り物をありがたく頂戴するほかなかった。
客らしい客も来ず、暇をもて余してカウンターに肘をついたアラリスの行儀の悪さを咎めるでもなし、シリオンは新米と思えない落ち着きぶりの店主を見て嬉しそうに頷いた。
「やっぱり似合ってるよ、アラリス。君は商いに向いてるとずっと思っていたんだ」
本当に、我が子の成長を喜ぶ父親のようだと思う。そこまで年が離れているわけでもないのだが、彼はやけに老けて……いや、落ち着きがありすぎるのだ。シリオンの穏やかな性格と達観した風情は彼を実年齢よりも上に見せていた。
「きっとうまくやっていけるな。君には才能があるから」
「何です、急に誉めたりして? 最初のお客さまにいきなり値切られるのかな俺は」
冗談で言い放った一言を窘めるでも反論するでもなくシリオンは驚いて口ごもり、頬は赤くなり、汗をかいて、やがて黙りこくってしまった。妙な反応にアラリスは首を傾げる。
「すみません。変なこと言いました?」
「い、いや、大丈夫だ。そういえば私は買い物に来たんだったなと、思って……」
「まあ、買い物するための店ですからね。何をお求めでしょうか」
小さな声で囁かれる答えに耳をすましてみるが、ゴニョゴニョと口中に消えて聞こえない。こんな態度は珍しかった。シリオンはいつでも落ち着いてどっしり構えているのに。
しかし挙動不審になっている今の彼は焦り緊張して普段の年寄り臭さがなく、年相応に見えた。なんだかなあと苦笑いがこぼれる。
「何でもご用意しますよ。店頭になくても、“裏”にいろいろありますし」
「うん。えーと実は、その……指輪を、買おうと」
「あー! そっか結婚。相手はアダイアですよね」
「し、知ってたのか?」
自分でも意外だけれどアラリスが一番に感じたのは安堵だった。シリオンの結婚は他よりも少し遅れ気味だったから、余計なお世話とは思いつつ心配していたのだ。
ヴァレンドリエンの秘蔵っ子だったシリオンは成人前から見合いの話に事欠かなかった。しかし古老が出し惜しみして結婚できずにいたのだ。今になって彼の相手を考えれば、古老の意図もなんとなく分かる気がした。
シリオンの妻となる女性。良くも悪くも有名なアダイアは、マリク王によって徴兵を許されるようになったグレイ・ウォーデンに目をつけられたという話だ。
それを知る者は概ね「あのトラブルメーカーを連れていってくれるならありがたい」と薄情な反応を示したが、古老は徴兵を避けるためアダイアを結婚させようとしている。
彼女を家庭に留めおき、落ち着かせるとしたら確かにシリオン以上の適材はいないだろう。ヴァレンドリエンは始めからこの結婚を待っていたのに違いない。
「いいねぇ若くて美人な奥さん。ちょっとばかりやんちゃだけど、あなたには丁度いいと思いますよ」
「ああもう、からかうのはやめてくれ」
戸惑っているけれど嫌がる素振りはない。満更でもないシリオンの様子にアラリスも微笑んだ。
ある種の政略結婚といえた。しかしアダイアは明らかな好意をシリオンに寄せているし、彼の方もそれに応える気持ちがあることをアラリスは知っている。グレイ・ウォーデンの件はきっかけに過ぎず、遅かれ早かれ二人は愛情によって結ばれたはずだ。
シリオンもアダイアも、どちらもアラリスにとってかけがえのない存在だった。どうか幸せになってほしいと願っていた二人が揃って祝福を授かるのだ。これ以上の喜びがあるだろうか。
「喜んでくれるんだな、アラリス」
「もちろんですよ」
僅かに寂しげな笑みを見せたシリオンが気にかかる。
「問題でもあるんですか。俺にできることなら」
「いや違う、そういうわけじゃなくて……」
歯切れの悪い言葉に焦れったさが募る。
アラリスの脳裏にいくつかの顔が浮かんだ。シリオンはともかく、アダイアはやっかみを受けやすい存在だ。もしかしたらこの結婚を快く思っていない輩でもいて困っているのでは?
そんな予想はある意味では外れ、どこか当たってもいた。シリオンはそっぽを向いたままぽつりと呟く。
「君が嫉妬するかと思ったんだけどな」
思わずぽかんと口を開けたアラリスを見て、彼は恥ずかしそうに微笑んだ。
恋い焦がれる想いを知っているかと問われれば頷ける。相手は誰かと問われれば、そのひとは目の前にいた。
アラリスは幼い頃からシリオンが大好きだった。ちょっと年上の彼を始めは兄のように慕い、成長するにつれ確かに一時は、その想いが欲を孕んだこともあった。
ちょうどそれに気づいた頃だ。デイルズを探しに行こうと思ったのはなぜだろう。異民族区での暮らしに不満はなかったのに、何かが足りない気がしてアラリスは一度ここを出て行った。
そしてまた戻ってきたのはなぜだろう。旅の道中、果てしなく広がる自由な空。そのどこにも自分の居場所はないと確信できた。
他の誰か、他の何かを求めはしない。シリオンのところに戻りたいと心から思った。彼が自分を迎えてくれるあたたかな場所こそを家と呼ぶのだ。彼の隣だけがアラリスの帰る場所なのだった。
恋を打ち明けたり、彼を手に入れようとは、最初から最後までしなかった。
「君は商売上手だ。欲しいものを存続させるために、手に取らず諦めることができる、冷静で優しい人だ。尊敬している。でも少し寂しいなと思ったんだよ」
「シリオン……」
欲しているかどうかだけで手にするものを選んではいけない。それでは利益を生み出せない。
自分が本当に望むものが何かをしっかりと見極めて思い描き、そこに向かって進むのだ。時には、どうしても欲しくて堪らないものから手を引かなければならないこともある。
恋が叶えば別れも来よう。手に入れたら失うのが必定だ。アラリスは今このままを求めていた。近づかず遠ざかることもなく、彼のそばで彼の幸せをともに噛み締める位置を。
その存在に触れていられるなら、恋など叶わなくても構わなかった。
それにしてもシリオンに好意を見透かされているとは思わなかった。あらぬ噂でもたてられれば彼にも自分にも迷惑だから、ひた隠しにしていたつもりなのに。己の失態を知ってアラリスの頬が朱に染まる。
いずれにせよ彼の結婚を祝福する気持ちは本心だった。シリオンへの想いは身勝手な欲によるものではない。だからアラリスは満足していた。この道を選んだことを誇りに思う。
「……ああそうだ、指輪、買うんでしたね。でもどうして必要なんです、古老が用意してくれたでしょうに」
「うん、式用に作ってくれるとは言われたんだけど。家族がいれば母親の指輪を受け継ぐんだろう?」
だがシリオンは天涯孤独だった。彼の花嫁に指輪を贈ってくれる母はいない。そして彼はアラリスの家を訪ねてきたのだ。
「ほんと、反則なんだからなあ、この人」
「え、何が?」
「べつに!」
未だ赤いままの顔で奥に引っ込むと、アラリスは慌てて寝室を引っ掻き回した。目的のものを見つけると手持ち無沙汰に立ち尽くすシリオンのもとへ駆け戻る。
「ほら、これ。俺の母さんの」
「それは……形見の品じゃないか」
「だからあなたにやるんだよ」
おそらくシリオンは本当に母親の指輪を渡されるとは思っていなかったのだろう。ただ家族の代わりにアラリスに指輪を用意してほしかっただけなのだから。
だが規定のものなど使う必要はない。大切な人を繋ぐ架け橋になれるチャンスをアラリスが逃すはずもなかった。
「あなたが使ってくれたら嬉しい。俺はたぶん、渡す相手を作らないんで」
「結婚しないのか? そんな」
「先のことは分かんないけど予定はないな」
きっと永遠にそうだろう。もしもアダイアが現れなければシリオンを欲しただろうし、シリオンがいなければアダイアを口説いたかもしれない。しかし、だからこそ、とうの二人の結びつきが嬉しくなるのだ。
彼らに決別の時でも訪れない限りアラリスが自身の恋心に手を伸ばすことはなく、そんな日は絶対に来ないと信じている。だからアラリスは、誰とも結婚しない。
守るべき家族ならすでに持っている。他の誰かを好きになり、新たな家庭を築いて、そのために今の関係を変えてしまうのはアラリスにとってちっとも魅力的ではなかった。
戸惑いながら受け取ったそれをシリオンがじっと見つめる。彼の家族としてアラリスが贈った指輪をアダイアは死ぬまで外さないだろう。
「結婚おめでとう、シリオン。最高の贈り物ができて俺も嬉しい」
「……ありがとう、アラリス。必ず幸せになるよ」
この恋は叶わない。だが忍び続けた先にもっとあたたかな愛がある。だからアラリスは、はにかむシリオンに無上の笑みを浮かべたのだった。