花運ぶ使者の足音を聞きながら
頭の上で誰かが話してる声が聞こえた。耳鳴りがひどくて何を言ってるのかよく分からない。どうでもよかった。どうせ俺には関係のないことだ。いつも俺には関係ないんだ。
すごく寒い。骨が錆びついたような疲労も、脳みそを揺さぶる吐き気も、こめかみの辺りにこびりついた血の気持ち悪さも全部、寒さに凍りついてしまえばいいのに。もうすぐ春が来るなんて絶対に嘘だ。きっとこの国は雪に埋もれてみんな死ぬんだ。でもその方がいい。痛みなんか感じたくないから。
怒りすらどっかに消えて、今はもうただひたすら眠っていたかった。体が訴えかけてくる望み通りに石畳にうつ伏せになって目を閉じたままじっとしていたら、誰かが顔に水を浴びせた。それでも俺は、またあいつらが戻ってきたんだと思って死んだふりを続けていた。
しばらく静かだった。うっすら目を開けてみる。視界がぼんやりしてよく見えないけど、世界が揺れてるような気がした。全身の感覚が鈍くなっていた。胸の辺りに激痛が走ったとき、誰かが俺の体を揺すってるのに気がついた。
「い……」
「あ、生きてた」
「いた、い……」
引き攣れる喉からなんとかして「やめろ」って声を絞り出したら、その誰かは「ごめん」なんて言いつつ無理やり俺を引っ張り起こした。めちゃくちゃ痛かったけど、起きて座ってしまうと意外に楽だった。胸のなかに血がつっかえてるみたいな不快感に咳き込んだ。フェイドの景色みたいにぐにゃぐにゃだった視界が少しずつはっきりして、俺を覗き込んでる緑の瞳が見えた。
「どうして無抵抗でやられてたの? 逃げるとかすればよかったのに」
……知らないやつだ。俺と同じくらいの子供。俺が質問を無視して俯いてたら、そいつは冷たく濡れた何かで俺の頬をぬぐった。フェレルデンの象徴、バラの印章が刺繍された、簡素だけど高そうなシルクのハンカチだ。さっき水をぶっかけられたと思ったのはこれの感触だったのか。
どうでもいいのに。城から追い出されるのも、教会へ押し込まれるのも、なりたくもないテンプル騎士にされるのも、あいつらの憂さ晴らしのために殴られるのも、どうだっていいのに。俺には関係ないんだ。まわりのやつらが勝手にやってるだけのことじゃないか。
訓練はつらい。家に帰りたい、こんなことやめてしまいたい。捌け口がほしいんだ。そして俺が一人ぼっちだから、守ってくれる家族もないからちょうどよかった。レッドクリフに帰って教母の目が届くようになったらあいつらなんか何もできない。……伯爵夫人の計らいで俺は、あいつらと一緒にデネリムで暮らすことになるかもしれないけど。春になったら。春になったら……。最低だ。
俺に無視されてるのも構わず、そいつは自分のハンカチで血を拭き続けていた。もうあんまり痛くない。やわらかな手つきから俺を気遣ってるのが分かる。でも、なんのために?
「……さっき石投げたの、お前?」
「気づいてたのか」
羽交い締めにされて腹を殴られてるとき、俺の右腕を押さえてたやつの頭に小さな石がぶつけられた。呆気にとられたあいつらの顔に次々と礫が飛んできた。俺を突き飛ばして激怒しながら辺りを探したけど、あいつらは犯人を見つけられなかった。その犯人は不敵な笑みを浮かべて俺を見る。
「せっかく来たデネリムで不愉快なクソ野郎どもを見たって思い出を残すより、よってたかって虐められてる可哀想な貧乏人を助けてやったって思う方が気分いいもんね」
「誰が貧乏人だよ……俺よりずっと安そうな服を着てるくせに」
「人を外見で判断しちゃ痛い目に合うぞ。実は私はマリク王の隠し子なんだ。ローアン女王が亡くなって落ち込んでいた陛下を慰めるためにロゲイン・マク・ティアがデネリムを訪ねたとき、グワーレンから伴って来た侍従である私の母をマリクが見初めたんだ」
「……はあ」
なんか、いかにも頑張って辻褄を合わせましたって感じだ。練り込みすぎた細かい設定が逆に嘘くさい。それにロゲイン公爵がデネリムに使用人を連れてくることはほとんどない。まして王宮であれ貴族の家であれ、奥方以外の女性を伴うなんてあり得ないんだ。……誰かと違って。愛妻家ぶりはマク・ティアかクーズランドか、なんてイーモン伯爵が前に言ってた。
「そんなわけで、高貴な身分なんだぞ!」
「ふぅん、奇遇だな。俺もマリクの隠し子だよ」
「えぇー? 自分で何か考えつかないのか? オリジナリティがないな!」
仕方ないだろ、本当なんだから。お前と違って、嘘に逃げ場がないんだから。くだらない夢物語よりも、もっと最低な現実に押し潰されそうだ。
どうでもいい話を聞いてる間は痛みを忘れられた。感謝なんてしないけど、俺が目眩に頭をふらふらさせてたらそいつは自分の肩に俺を凭れかからせてくれた。
「おしゃべりなやつ……」
「人と話すのは好きだよ。会話して、親しくなるのは相手の弱味を握る第一歩だ!」
「なんだそれ。怖いし」
「……あと、口が動いてる間は手が止まる。誰かを殴りながらぺちゃくちゃ話してたら舌を噛むからな」
話の通じる相手なら。俺が人間だと知ってるやつとなら。俺だってほんとは誰かと話すのが好きだ。でも、お前なんかいらないって言われるのが怖くて黙ってるんだ。きっと気絶するまで殴られる方がマシだ。
「あのさ、あんたがいなくなって悲しくなる人いるの?」
「え……」
「あいつらは集まらなきゃ暴力をふるえない臆病者だけど、気が大きくなったら、うっかり殺されるかもしれないよ」
真剣な声音に動揺した。言われなくてもそんなこと、何度も考えた。あいつらは俺を知らない。単なるメイドの息子だと思ってる。高貴な自分たちとは住む世界も違う、虫けらみたいに踏み殺しても構わない相手だと思ってる。そのくせイーモン伯爵に目をかけられてすばらしいテンプル騎士にさせてもらったんだと、勘違いして勝手に腹を立ててるんだ。
俺を恵まれたやつだと思って嫉妬してる。バカみたいだ。
「大人に助けを求めるべきだ。権力は弱い人を守るためにあるんだから」
「世間知らずなやつ。そんなきれいごと、教母だってなかなか言わないぜ」
「本当だもん」
国で一番の権力者が弱いやつを踏みにじってるじゃないか。俺を痛めつけてるのは、俺に血を流させてるのは、みんな俺より偉いやつらだ。
守ってくれる人なんているわけがない。大人はみんな俺の扱いに困っていた。このデネリムの裏路地でひっそり殴り殺されたら、名もない貧民の子供として転がっていてやれば、あいつらみんな喜ぶに決まってる。
「……いないなら、誰も守ってくれないなら、自分でやらなきゃダメだ」
真面目な顔して俺を見つめ、ちょっとばかしの心配をくれるのは、こいつみたいな知らないやつだけだった。
俺の身体中を触って骨が折れてないか確認したあと、神妙な顔で「細い」と文句を言われた。教会に送られてから、あんまり食べてないや、そういえば。
「あんなのがまわりにいるなら体を鍛えた方がいい。うちのお兄さまなんて頑丈だからボコボコにされてもケロッとしてる」
お兄さまって、急に似合わない上品な言葉があまりにも自然に出てきて驚いた。ごく当たり前に普段からそう呼んでるんだろう、自分では違和感なんてないみたいだ。高貴な身分っていうのは案外ほんとなのかもしれない。言われてみれば苦労したことなさそうな、お幸せな顔してるじゃないか。
腹の底で何か、汚いものがどろりと流れた。痛みに顔をしかめながらそいつの肩から頭を退ける。
「俺、お前みたいなやつ嫌いなんだよね」
「そういうこと口に出しちゃうから殴られるんだよ。思っても好きなふりしとけば相手も愛想よくしてくれるのに」
「……ちょっとは傷つけよ」
「べつに平気だもん」
平気なのは、俺なんかに嫌われても傷つかないくらいたくさんのやつに愛されてるからだろう。
幸せそうなやつが嫌いだ。腹が立つ。こいつが悪いんじゃないって分かってるのに、差し出された手がきれいな白い色をしてることさえ妬ましくて、俺がつらいのは全部こいつのせいに思えてきて、まるで……俺を殴って安心してるやつと同じくらい、醜くなる。すごくみじめだ。
「自分を憐れむのって楽しいの? あいつらはクズだけど、引き寄せてるのはあんただよ」
「……うるせぇ」
だって自分でくらい憐れんでやらなきゃ誰もそうしてくれないじゃないか。お前に何が分かるんだよ。お前なんかに。何も知らないくせに。……俺が、何も知らせようとしないから。
頭も首も肩も胸も背中も肋骨も腹も腰も足も腕も、どこもかしこも痛くて堪らない。一歩も動きたくない。何もしたくない、考えたくない。どうして俺はここにいるのか、思い出そうとするたび記憶を氷漬けにする。助けてくれなんて言える相手も思いつかない。
そいつはしなやかな指を伸ばして俺の頬っぺたを摘まんで引っ張った。
「えいえいえい!」
「いひぇえよ! ひゃめろっへ!」
「笑えー。へらへら笑ってバカになればいいよ。不幸せなときはそうするんだって。何でもない、どうでもいいって顔で楽しそうにして、見下されて軽蔑されて嫌われて、そしたらみんな放っといてくれる。ふりでもいいから傷ついてない顔しとけば、いつか幸せになったとき今を思い出しても腹が立たないって、知り合いのおじさんが言ってたよ」
大人の経験談は大事に聞いとくべきだ、なんて真面目くさって説教たれる。相当ささくれたこと言ってるわりに表情は明るかった。でもそのおじさんってやつ、かなり性格ひねくれてると思う。
「弱いなら弱さを武器にするんだ。大人を味方につけとくんだよ。権力のあるのを選んで。みんなそれをひけらかしたがってる。自分より可哀想なやつを見つけて助けるのは気持ちいいんだ」
お前が俺を助けたみたいに? 権力は弱い人を守るためにあるって……そういう意味? 俺を持て余してるやつらを逆に利用してやれ、ってこと?
なんだか頭がボーッとして、夢の世界を覗いてるような変な気分だった。すぐに冷やしたお陰で今日は頬が腫れてない。殴られた痛みを感じてないみたいにへらへら笑ってやったら、あいつらは不気味に思うだろうか。
寒くなってきたからもう行くといって立ち上がり、「凍死しちゃうからあんたも夜になる前に帰りなよ」と笑う、その表情で今ごろ気がついた。こいつ……女の子だったのか。
「あ、……ハンカチ」
「え? もうちょっと冷やしといた方がいいよ、あげる」
血と泥で汚れたシルクは、もう洗っても使えそうになかった。見ず知らずの俺なんかのために簡単に物を捨ててしまえる彼女は、やっぱり金持ちの子供なんだろうな。なんてどうでもいいことを考えてる間に、彼女はじゃあねと走り去ってしまった。あまりにもあっけなく。
触れられた頬に熱が残って、急に寒さを実感した。早く教会に戻らないと本当に凍え死ぬかもしれない。遅くなったことを教母に咎められたら体の痣を見せてあいつらのことを言いつけてやればいい。イーモン伯爵は自分に仕える者の息子がこんな仕打ちを受けてどう感じるでしょう、って。本当は彼と連絡なんかとれないけど余裕で笑ってやればみんなそうは思わないだろう。少なくとも嫌ではない。あいつらの顔を青褪めさせられるなら。
少し前、イーモン伯爵に息子が生まれた。イゾルデ夫人はとても喜んでいた。俺はたぶん、レッドクリフの教会にもいられなくなるだろう。もし本当にテンプル騎士を目指すならデネリム教会に行った方がいい。春が来たら、この町で……もしかしたら、また会えるかもしれないし。
春なんか来るなと願っても俺の望みは叶わない。だったら、せめて今日とは違う明日を楽しみにして、例えふりでも良いことを期待して春を待つ方が、いつか思い出すとき今が幸せだったと感じられるだろう。