まるで鏡のような
ちょうどレオナスが店に入ろうとしたところだった。どちらかが少し遅れていれば会わずに済んだろうに、あまりにもタイミングがいい、いや悪いのか。
目が合った瞬間お互いの顔が歪む。苦手な人間を見てレオナスが憂鬱になったのと同じだけ、彼……レンドン・ハウ伯爵も不快げに眉をひそめた。
「まったく酒が不味くなる」
「はあ……」
誰のせいとは言わないレンドンの呟きに同意の溜め息を吐き出しつつも、二人は揃って悩める貴族の宴の扉をくぐった。こういう偶然からは逃げても無駄なのだ。きっと無理に避けたところでまた別の災難が起きる。諦めて苦手な相手と飲む酒を享受するしかない。
どちらも無言で店の奥へと進む。レオナスは軽く食事をと思って来たのだが、同席する相手が相手なので楽しく酒を飲む気分にもなれないだろう。安さだけが救いのエールを注文したレンドンに倣う。
美食で満たされれば幸せだけれど、そうでなくとも夕食までの時間が誤魔化せるならそれで構わないのだ。
普段であれば南方地方とアマランシン、フェレルデンの北と南に別れて滅多に会うこともないはずの二人の貴族が、デネリムを訪れるたび顔を突き合わせるのはどうしてだろうかと首を傾げた。
もっと理解しがたいのは、彼に会いたくなくてこんなに敬遠しているにもかかわらず彼を「嫌いだ」とは思えぬ自身の心の不思議だ。
レンドンは友達だった。一応、戦争の頃までは。彼はいまや外見も内面もレオナスの知る少年とは違ってしまっていたが、それでも嫌いになりきれなかった。会えば時の流れを痛感してつらいのに、まだ思い出を捨てられずにいる。
昔はよかったなんて年寄りだけの感傷であるべきだ。実際を思い返せばそうそう今より良かったわけでもないのに過ぎた時間は際限なく美化されていく。変わってしまった彼を見たくないからこそ、今こうして会うのが厭わしいのだろうか。
「私も歳だな……」
力無いレオナスの嘆きを聞きつけ、向かいで飲み始めていたレンドンが不審そうに眉を上げた。
悩める貴族の宴は今日も盛況だ。話の中身は醜い策謀や口汚い愚痴に過ぎないのかもしれないが、ひとつひとつを聞き取ることはできず言葉から意味が失せていくのに耳を傾けるのは心地好い。適度なざわめきとなって店を包むこの空気はレオナスに安堵を与えた。
一人になれる。しかし孤独ではない。ふと記憶が蘇った。オーレイ帝国との戦時下、野蛮人の謗りにも頷きたくなるような性格を持つ兵士連中に囲まれて過ごした軍の天幕。
レオナスはレンドンの隣にいるのが好きだった。彼は昔から口を開けば嫌味ばかりの非常によく出来た性格だったが、他の輩と違ってあちらから強いて絡んではこなかった。
放っておいてくれる。黙ってそばにいる分には居心地がいい。ちょうどここの空気のように。
レオナスには束の間レンドンが懐かしい友人に戻ったように思えたのだが。
「そちらのお嬢さんはいくつになった? もう十歳くらいに?」
「ハブレンは、まだ八歳だよ。……どうせ噂を聞いてるんだろ」
「さて何のことやら。何か御祝いを差し上げましょうか」
「いらない」
もしかしたらレンドンに他意はなかったのかもしれない。だが娘の話はレオナスにとって憂鬱の種だった。
いずれ南方地方伯爵となる娘、それを考えると憂鬱になってくる。物心つき始めた頃からハブレンのわがままぶりは度を越しており、成長した今や誰にも手がつけられない。
市場で漏れ聞いたところによると、彼女の暴走に唯々諾々と従う情けない両親の話も添えてブライランド家ご令嬢の噂はデネリムまで届いているようだった。
「トーマスも同じ年頃だったんじゃないか」
「ああそうか。八歳なら同じだな」
「君の息子は好かれてるようだ。君と違って」
「余計なお世話だよ、閣下」
貴族の子供はそこかしこで品定めの噂が囁かれるものだが、ハウ家の末っ子には悪い話を聞いたことがない。親に対して従順で大人しい男の子。レオナスにとっては羨ましい限りだが、レンドンは我が子に不満を抱いているようだった。
彼は後継ぎに威厳と行動力を求めている。確かにそういった美点はトーマスにないものだが、だったらいっそハブレンと交換してくれとも思う。誰しも望みは違うということだ。
年の頃、当人の気質、親の望み。南方地方とアマランシンを繋ぐために、ハブレンとトーマスは婚約すべきかもしれない。たぶん二人とも同じことを考えたが、どちらも口には出さなかった。
苦々しげな顔で酒を流し込み、レンドンは少し声をひそめて囁いた。
「クーズランドの長男が結婚したって聞いたか」
「ああ、奥方は異国の人間らしいね」
「アンティヴァ人だとさ。娼婦あがりの女じゃないのかね」
不躾な言い様に顔をしかめつつ、レオナスは無言でエールをあおった。それにしても不味い酒だ。あまりにも薄い。
レンドンは自分の娘をファーガス・クーズランドに嫁がせたいと目論んでいた。だから彼の結婚が気に入らないのだろう。その妻が平民だということも。
子供の結婚にはいつでも誰でも悩まされる。娘が生まれ、レオナスも考えたことはあった。クーズランド家は例え嫁が娼婦の出であっても問題なく受け入れるだろう、貴族らしからぬ許容力のある家柄だ。娘を差し出すには良いところと言える。
しかしハイエヴァーの隣に住んでいるレンドンとは違い、レオナスの南方地方は北部から遠すぎた。そんなにも離れた土地にハブレンを送りつけてしまいたいのは山々だけれど、目の届かないところで娘が何をやらかすかと考えるとできなかったのだ。
ファーガスの結婚によってレンドンの思惑は無に帰した。もしもクーズランド家に娘が生まれていたらトーマスをも宛がうつもりだったのだろうかと考え、やはりレオナスには彼の気持ちがよく分からなかった。
ハブレンは問題の多い娘だが、政略の道具にしたいとまでは思えない。不出来であっても肉親なのだ。
ではレンドンは、彼は家族を愛していないのだろうか。その利用価値の他に求めるものはないのか。家族の幸せを祈る気持ちは?
「クーズランドの次男は十四歳だったかな……」
「エイデン・クーズランド? 彼は評判がいいね」
しかし反抗盛りの難しい時期だ、ブライス公爵もさぞや手を焼いているに違いない。とでも言えたらよかったのだが、生憎とクーズランド家の仲睦まじさは遠く南方にまで噂が聞こえてくるほどだった。
ファーガスもエイデンもあの年頃の男の子には珍しく兄弟揃って両親が大好きで、その気持ちを躊躇いなく表に出してくる。恐ろしいことに、彼らには親への反抗心というものがなかった。
両親を愛し、武勇に優れた実直な兄、それを支える才を持つ冷静沈着な若い弟。
さらにクーズランド家は周囲の貴族や民衆にも好かれている。後に公爵位を継ぐであろう長男が異国人を妻にしたことを咎め立てする者もいないだろう。順風満帆を絵に描いた家族。ブライス公爵には未来に不安などあるのだろうか。
「なんだか、ずるいな……すごく理不尽な気がするよ」
「“人生はひどく不公平で、茶番劇の裁判だ”?」
「そう、それ」
ブライス・クーズランドもまたレオナスとレンドンの戦友だ。ともにホワイト・リバーで苦い敗北を味わい、マリクのもとで勝利を掴み、そして――
そしてブライスはハイエヴァー公爵となり、快活で愛らしい若い娘に惚れぬいて、周囲の反対を押し切って結婚を承諾させると、すぐに男の子が生まれた。
レオナスは首都より遠く離れた南方地方の田舎にひっそりと暮らし、何の変化も見込めない生活を見兼ねた友人に今の妻を紹介された。レンドンに到ってはアマランシンを支配する金を得るために大商人の不器量な娘を引き受けたのだった。
レオナスは妻と娘が人並みに大事だった。恋をして結ばれた婚姻ではなかったが、それにしては良い家庭を築いた方だといえる。
レンドンは、妻と子を愛さないことで片をつけた。望んで得たものでないのならば望み得る部分のみを徹底的に利用し尽くし、家庭に安らぎを求めず、また与えなかった。嫌いな相手に嫌われても痛みはない。
実際、二人とも自身を顧みるだけなら大した不満はないのだ。南方地方には平穏があり、アマランシンには富があった。
しかしハイエヴァーには愛と平穏があり、富と名誉があるのだった。己より多くを持つ者を見る。怒りにすら昇華できない虚しさが募る。満足していたはずが、己の身の上がやけに不遇に思えてくる。
かつては同じ道を歩いていた。誰も生きることに手抜きなどしなかった。強いて言えばブライスには幸運を惹きつける魅力があった。戦争に加わっていた頃から、ブライスに比べれば彼らは何程の者でもなかった。
レオナスと、同時にレンドンも、改めて互いの顔を眺めてみる。不幸ではないのに、決して幸せでもないのだと分かってしまう。他人を見上げるのは気分のいいものではなかった。
「……飲むか」
「奢るよ」
「じゃあ君の分を私が奢ろう」
レオナスは彼のことが嫌いなわけではない。けれどまるで磨き抜かれた鏡でも覗いたように、自分がいかに疲れた顔をしているか思い知らされる。それが嫌だからレンドンと顔を合わせたくないのだ。