きみは五月雨使い
明け方まで雨が降っていた。泥濘と湿気と寒さは皆に不評だった。無理もないとは思う。旅の身に雨、まして森の中を歩いている今、足場の悪さ寝床の不快感が歓迎されるわけもない。でも根を張って生きるものからすれば雨はまさしく命の恵みだ。
深い緑の匂いをいっぱいに吸い込んで、しっとりした木の幹に手を触れる。彼らの生命が脈打っていた。そのままじっとしていれば思考はゆるりと蕩けて少しずつ木と解け合ってゆく。
始めは手のひらの触れたところから樹の全体に、それから空へと広がる枝葉の隅々にマナを行き渡らせる。葉の上に残る雨粒、枝をそよがせる風、あたたかな陽光を感じて、肉体の境がなくなる。魂が解放され拡散する。あらゆるものに自分を感じられる。
サークルに入ってから身につけたリラックスするための術だった。塔を牢獄だとか揶揄するメジャイもいるけど、僕には分からない。外の世界、僕にとっては異民族区がそうなのだろうけど、そこも塔の中とそんなに変わりはしなかった。
エルフを閉じ込めている人間たちだってそんなに自由には見えなかったし、塔を見張るテンプル騎士もある意味では囚人だ。誰しも己という枠組みに囚われている。メジャイが特別不幸なわけじゃない。
塔の石壁もカレンハド湖の重たい水も僕の魂を隔離する牢にはなり得ず、思考を閉ざし感覚を研ぎ澄ませて自分を取り巻く空気に身を委ねたら、そこには無限の世界が広がっている。
壁の中にいれば魔法を忌み嫌い、無知ゆえに恐れるものたちの視線から逃れられる。それなら塔はむしろ僕らの楽園を守る城壁じゃないか。
あと少しで風に乗ってセダスの外へも行けそうだった。静者になるのもこんな感じならそう悪くはないんじゃないか、なんて思った瞬間、僕の心を肉体に繋ぎ止める声がした。
「アリム!!」
「……」
それは僕の名前、だったかなあ。あちこちに意識が散っていたせいでカリアンの大音声が全身に響き渡るようだった。
衝撃で我に返らざるを得ない。漂っていた意識が体に戻ったのと同時、急に繋がりを遮断されて驚いた木は大いに震えて水滴がどしゃ降り。
頭からずぶ濡れになって振り向くと、光を弾く雨雫みたいにキラキラした瞳で彼女がこっちを見ていた。
あのまま木に融けてしまいそうだったのに、ばっちり戻ってきてしまった。まあ、その方がよかったんだろうけど。僕の集中を乱したカリアンは「びしょびしょだな!」なんて言って笑っている。誰のせいだと思ってるんだ。
「朝っぱらから声が大きいよ」
がさつの塊みたいなやつだなあ。しなやかさのかけらもなくて、とてもエルフとは思えない。でもアリスターなんかは彼女に繊細な美しさを見出だしてるようだから他人の価値観って分からないものだ。
「さっきの、すごくキレイだった! アリムも木も風も光ってて……すごいな!」
「うん、話すのが上手になったねー」
「ありがとう!」
やれやれ。髪や服が水を吸って重たい。なんだか本当に雨上がりの木になってしまった気分だ。カリアンは驚かせたことを謝るでもなく笑ってバックパックからきれいな布を取り出した。それでガシガシと乱暴に僕の頭を拭くこの娘とは、もうわりと長い付き合いだった。
ハーレンお気に入りだった彼女の父親について、よく覚えている。彼にはすごくお世話になった。シリオンは他人と距離をとるのがうまかった。濃密で不愉快な臭いの漂う狭い社会で、シリオンと話しているときは穏やかでいられたんだ。体躯は小柄なのに大樹みたいな男だったなあ。
カリアンは、とても彼の血を引いてるとは思えない。トラブルメーカーだったアダイアの娘っていうのはすごく納得だけど。
すごいすごいとはしゃぐ彼女が喧しすぎて、もう自分の世界に耽溺するのは難しい。もう一回魔法が見たいとせびられたから仕方なく、衣類に染み込んだ水を自然魔法でふわりと浮かせる。
サークルを出て良かったと思うことがあるとしたら、生活を便利にする魔法を遠慮なく使えることかな。
一瞬で乾いたローブを触りたくってはまた歓声をあげる彼女を鬱陶しく感じないのはきっと、単純に慣れだと思う。
彼女は嵐の中心だった。本人は動ぜず騒がず周囲に大きな影響をばらまいて揺さぶる。小さいときからずっとそうだった。いちいち不快に思うのも面倒なほど慣れてしまったんだ。
「さっきのは、葉っぱを光らせる魔法か?」
「そんな意味の分かんない魔法はないよ」
あれはむしろ準備運動みたいなものだ。ひたすら自分の内に潜り、感覚としてマナを肌で感じ、実際的な現象として世界に送り出すための深い瞑想。
フェイドと僕を繋げる、というのは魔法を知らない相手に言ってもほとんど意味が通じない。寝ぼけてると思われるだけだった。朝方こうして精神集中に励んでいると、カリアンでなくても「立ったまま寝るな、起きろ!」とかなんとか邪魔しにくる無神経なやつばかりだ。
でも、キャンプでは勝手に魔法を使って怒られることがない。便利だって喜ばれるのも初めての体験だ。
そういえばカリアンも、小さいときから僕が魔法みたいなものを使うのをよく見てたのに、誰にも言わなかったなあ。どうしてだろう? きっと何も考えてなかっただけだろうけど。
サークル・タワーでも僕は自由だった。魔法があれば誰と関わらなくても世界を感じることができた。だから今でもあの鳥籠を疎ましく思う気持ちはないけれど、それでもこうして他人に揺さぶられて気づいてみれば、塔の外の世界っていうのは意外なほど優しくて寛容だったんだと気づく。