どこへ落ちて行くのだろうか



 フェレルデンにたった二つ残された公爵領の一方、ハイエヴァーは今、ゆっくりと死に逝こうとしていた。ブライス・クーズランドは戦士としてならば無能ではないが施政者には温厚すぎた。彼は領民や貴族に愛されながらも決して敬われてはいない。その情け深さゆえにクーズランドは泥沼に沈んでいった。
 公爵の甘やかな政策は領民に歓迎され、緩い税政と温情に依る刑法に惹かれて人は集まったが、彼らは次第に堕落した。納めるべき税の少なさゆえに農民は働くことを放棄した。そうして法に触れても裁判で少し情に訴えれば容易く減刑されるのだ。刑罰が生易しいために小さな犯罪が増加の一途を辿る。
 職人や商人は稼ぎのほとんどを己の懐に入れ、領主の倉は空になった。収入が減って公爵の兵が力をなくしたので下民は支配者を侮るようになり、威厳を失った騎士たちは領主を恨んだ。鎮圧する者のないまま治安は乱れてゆく。貴族たちは主に背を向け、自分のための兵力を蓄え始めた。
 早々に見切りをつけ財産を抱えて逃げ出した者たちがアマランシンに移ろうと街道に列をなし、それを狙って盗賊が集まる。付近を治める貴族は兵を遣わす財力のある方へ……つまり我がアマランシンに擦り寄りはじめ、地図の境界はじわじわと変化していた。
 地位を顧みず気さくなブライスは下民に親しみ、彼らと同じ目線に立って生きたが、それが災いしたのだ。彼はあくまでも公爵であるべきだったのに。民衆からの愛情と引き換えに畏敬を手放した。もはやクーズランドに支配者の威厳は無い――。
 だがハイエヴァーは辛うじて生きている。領主の権威がギリギリのところで保たれているのは、ひとえにエリッサ・クーズランドの力によるものだった。
 たかだか十二歳の少女を侮るものはハイエヴァーにいない。あの娘は立てるようになった日からもう馬を駈り剣を振り回していたと噂され、既にその力を周囲に知らしめていた。
 彼女は兄を焚き付け若者を集めると、領内をまわって“狩猟”に励んだ。偶然に出くわした“外敵”を打ち倒し領民から感謝と畏敬を勝ち得て、また彼女はそうして奪った戦利品でさらに騎士を集め、農民が流れ出るのを食い止め賊の侵入を防ぎ、あらゆるところで血を流してクーズランドの威を叫んでいた。彼女の振るう力はまさに蛮勇だ。そのうえ彼女は父親に忠義を捧げている。
 かの反乱女王を思わせる赤毛を靡かせながら馬を乗り回して鷹を飛ばす少女がハイエヴァーの要だった。父の牙を奪って生まれてきたかのごとく血気盛んな彼女が、皆の瞳に朽ちかけたクーズランドの紋章がまだ燃えているという証を焼きつけた。もしも貴族が表立って背信をあらわにしたなら、暴動など起きようものなら憤怒の獣と化した娘がすぐさまやってきて賊徒を皆殺しにするだろう。
 当主は侮られていても、次代のクーズランドを担うのはあの猛火のごとく慈悲のないエリッサなのだと皆が知っている。
 しかしそれとて、彼女に譲るまでハイエヴァーが残されていれば、の話だ。

 城塞を訪れ、居館への宿泊を辞退して兵には野営をさせると告げたとき、ブライスの顔には確かに安堵が浮かべられた。その内心が透けて見えるようだった。財政難は限界まで来ている。客人を迎えるに相応しい祝宴を催すことがもう難しくなっているのだ。
「このまま行けば、エリッサも身動きがとれなくなるだろうな……」
 ブライスの嘆きが寒々しい部屋の床に落ちた。城のどこも人気がなく、じきに冬だというのに主君の居館にさえ火が灯されていない。私は、まだ猶予があると思っていたが、春までもたないのかもしれない。
 エリッサとファーガスは躍起になって食糧を集めているが、日に日に手勢が減ってゆくなか直面するのは武勇で解決できる問題ばかりではない。エリッサは確かに優れた力を持っているが、所詮その力は戦争のためのもの。彼女を使うのにさえ金が必要なのだ。
 アマランシンはハイエヴァーの困窮と反比例して潤っていた。大商人や有力者、公爵に見切りをつけた男爵たちはこぞって私の庇護を求めたし、まったく不思議なことに、隣に野盗が出るたび我が家の悪党が減るのだから笑いが止まらない。厄介事は押しつけてこちらは旨味だけを啜ることができるのだ。
 ハイエヴァーからの金の無心は日を追うごとに増えていた。もはや友人としての私に縋るほかないほど、ブライスは追いつめられている。
 クーズランドの人間はそもそも数が少なかった。領地のほとんどは血を分けた一族のものではなく男爵の忠誠を得て治めている。彼らはすでに、ほとんどが私の手にあった。子供たちの力もあってよく踏みとどまってはいるが、公爵にはもう大した実権はない。城塞に残る一族の維持すら私に頼らねばままならない当主は、支配者の座を降りるときを待つばかりだ。
「ブライス。私はアマランシンを治めているが、得た財産は私のものではなく領地に還すべき恩恵だ。助けたいと思っているよ、本当だ。それはもちろん友人として。だが私の負った責任を鑑みれば、君のためにできることは少ない」
「分かっているよ、レンドン……。ただ、兵を少し……それから糧食を分けてもらえれば」
「それと、金か? 分け与えたものは返されるのだろうか? それはいつだ? 確かに今は、助けることができる。だがいつまで続くのか? こちらも無尽蔵ではないんだよ。……私はアマランシン伯だ。友人のために助力は惜しまないが、アマランシンを犠牲にはできない」
 端的に「ハイエヴァーをよこせ」と言うことはできない。互いにその腹は分かっているが。クーズランドが生きている限り、それを言葉にした瞬間に私についた者たちも反旗を翻すだろうと知っている。旗はブライスに持たせたまま、動かすのは私、そういう流れが一番よい。
「どうすればいい? 正直なところ私は、もう君に頭を下げるしか、できることがない」
「何の約束もなくハイエヴァーに奉仕を続けては、私が皆に恨まれる」
「だが、私に差し出せるものなど……」

 やがて降る雪に家族もろとも埋もれたくないならば、私が何を求めようともブライスに選択肢はない。実際のところ彼の領地のほとんどは手に入れた。あとは名前だ。クーズランドの名を、塗りかえてやるだけだ。
「まだあるだろう、ブライス? エリッサだ。彼女を私にくれ」
「な、……何だって?」
「彼女を我が妻に。アマランシンとハイエヴァーの絆はより磐石なものとなるだろう」
 さあどうするんだ、友よ。家のために愛しい娘を売るのか? 確かお前は、彼女には自由な人生を歩ませると言ってなかったかな! 尤も、もう他人に情けをかける余裕もないのだろうが。例えそれが己の大事な娘であっても。
「エリッサは……、まだ、十二歳だぞ」
「それが何か? もう子作りはできるだろう。ならば君の貴重な財産だ。まあ、友情に免じてあと一年くらいは待っても構わないが、それまでハイエヴァーが持つのかな」
 あからさまな言葉でブライスの瞳にようやく憎悪の兆しが見えた。選べはしないのだ。どうせなら私からより良い条件を引き出したい、そんな計算さえも自身の心を汚していく。ああ友よ……どんな気分だ? 私はとても愉快だよ。
「私の妻になれば彼女は伯爵夫人だ。アマランシンで地位に相応しい領地を得る。それをどう使おうと、誰に金を流そうと彼女の自由だな。私もまた、ハイエヴァーの領地を携えた公爵の娘を手に入れる。互いに損はしないだろ?」
「私は、娘を損得のために売り払ったりしない!」
「ああ、そんなことを言っていられる立場かね。エリッサは素晴らしい商品だよ。私がその気でいるうちに売るべきだ」
 蒼白になりながらもブライスの脳裏では娘の値段が計られていた。善良なる親友が堕ちてゆくのを見るのは、やけに愉しい気分だ。
「よくお考えを、閣下。結局のところ、心を砕き身を粉にしてまで助けてくれるのは家族だけなのですから」
 助けて欲しいのならそれに釣り合うものを差し出さなければな? ブライスは決断するだろう。そして我々は互いに求めたものを手に入れる。冬が来るより早く、エリッサは父親ほどの歳の男に嫁ぐよう運命づけられた。そこに当人の意思はない。まったくもって、反吐が出るほどに公爵家の娘らしい人生ではないか。



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