ぼくの居ない明日
年が明けてアリスターは気が抜けているようだ。私だって何もこんな時期を選んで告げたくはないけれど、そうやって先送りにし続けて今に到るのだ。本当はもっと早く言い出さなければいけなかったのに。
「私はフェレルデンを離れようと思う」
「…………」
ベッドに寝転がったまま聞こえないふりをしてるのかと思ったら、どうも意味を理解しかねているらしい。言葉の反芻に結構な時間を費やし、やがてのっそり起き上がると彼は冗談を捻り出そうとして失敗したような無理のある笑顔を浮かべた。
「またいきなりな話だな。いつから? どれくらい?」
「明日から無期限」
ここへ帰ってくる保証はない。正直にそう言うとアリスターは引き攣った笑みを真顔に変えた。
「……何をしに、どこへ行くんだ?」
「ブライトの秘密を探しに。手がかりのある場所ならどこへでも」
もうずっと前から決めていた。フェレルデンの救世主の陰に隠れて国王がグレイ・ウォーデンであることは忘れられつつあるけれど、彼の体は依然として汚れに冒されている。いつか彼にも呼び声が聞こえるだろう。私はそれを止めたい。どうしても。今さらブライトの汚染によって彼を喪うなんて受け入れられなかった。
「何もかも決めてしまう前に言ってほしかったよ。やめろなんて言葉は聞いてくれないんだよな、どうせ」
「汚れを克服する術を見つけ出したいんだ。呼び声に追いつかれる前に」
「そんな方法、見つかる以前に存在するのかも分からない。アンダーフェルスのウォーデンに協力を要請しても……誰も知らないだろう」
「困難は承知のうえだ。最初のブライトから今まで誰も調べなかったはずがない、それでもまだ見つかってないんだから」
最も詳しいであろうウォーデンは沈黙している。長い年月で正しい知識を持つ者が死に絶えてしまったのでなければ、真実を隠しているのは彼ら自身だ。たぶん知られると都合が悪いんだろう。他の多くの秘密と同様に。
「アリスター、私が去ったらウォーデンを誰も信用しないでほしい。彼らがどんな言葉をかけてきたとしても私とは無関係だ」
「お前が徴兵したやつらもか?」
「誰も。彼らは今のところウォーデンに縛られていないが、今後は分からないし」
第五次ブライトの終わりに彼らは私が生きている理由を執拗に問いつめてきた。でもアンダーフェルスが本当に何も知らないとは思えないんだ。モリガンの行った儀式は邪悪なものかもしれないが、それは洗礼の儀だって同じじゃないか。ウォーデンは最初からブラッドマジックを許容している。抜け道があることは知ってたんじゃないのか? 彼らが私に問うたのは生き延びる方法ではなく、私が“何を知ったのか”あるいは“それを世界に明かすつもりがあるか”?
誰かが洗礼の儀を思いついた時、それを試そうと決意するまでに何か信じるに足る根拠があったはずだ。ただグールとなって死ぬのではなく汚れに耐性を得られるという確信。この儀式によって作り出された存在がアーチデーモンの魂を引き寄せて破壊できるという確証。世界にまだグレイ・ウォーデンの名が生まれていなかった時代に、それを作った者たちは知っていたに違いない。
鍵は魔法だ。結びつけられるなら解けるだろう。汚れを拭い去り、呼び声を封じる方法は必ずあると信じている。最初のブライトを止めたウォーデンの誕生、洗礼の儀の秘密を知れば、私たちと汚れとの結びつきを打ち消すこともきっとできる。
「ウォーデンの秘密主義にはうんざりだ。ブライトを終わらせるため犠牲を払う、グレイ・ウォーデンなんてものは本当に必要なのか? 今こそ根本から疑ってみるべきだ」
「秘密主義の理由は分かってるだろ。保身のためだ。秘密を明らかにしたら誰もウォーデンになりたがらない。いずれ起こるブライトに対抗するために、犠牲を払って存続しているんだ」
「でもアーチデーモンを倒すのに犠牲は必要不可欠ではなかった」
「いや、たった一人でもグレイ・ウォーデンは必要だ。それは、お前とモリガンが証明したじゃないか」
違う、私たちが証明したのは語り継がれてきた物語が真実とは限らないということだ。ブライトの起源なんて教会学者の管轄だと思ってたけど、伝説を鵜呑みにする愚かさを私はもう知っている。この脅威に対していつまでも無知でいて良いわけがない。誰よりもアリスターを……そして私自身を犠牲にしないために。
「洗礼の儀で飲み干したものを覚えてる?」
「え? そりゃ覚えてるけど。古代の魔法については分からないが、杯に入ってるのはダークスポーンの血、と……」
そしてウォーデンによって厳重に保管されてきたアーチデーモンの血が一滴。それが邪竜の魂を誘引する糸となる。私とアリスターが飲まされた杯にも第四次ブライトの親玉たる奴隷竜アンドラルの血が混じっていたはずだ。デネリムでの決戦後、ユーサミエルの血も採取して拠点に保管した。いくらかはアンダーフェルスに送り、残りは独自に研究するため隠してある。アリスターもまた思い至ったようだ。
ブライトを終わらせるにはアーチデーモンを倒さねばならない。アーチデーモンを倒すにはグレイ・ウォーデンの汚れた肉体を利用する。グレイ・ウォーデンになるためには、アーチデーモンの血が必要だ。
「……本当にウォーデンが必要なら、デュマトは一体どうやって倒されたんだ?」
ダークスポーンもアーチデーモンも、ブライトのすべてが未知であったその時代に、最初のグレイ・ウォーデンとなった者たちは、どうやって最初のアーチデーモンを殺したのか。
アリスターが苦悶の声をあげる。彼が私を止められないのは分かっていた。彼は私がまだ悪夢を見ていることに気づいている。呼び声を癒し、汚れから解放される手段を探したいと言って、反対するはずがないんだ。
「それで、当然だが長く留守にする。一年や二年では戻れないし、その先も帰れるかは分からない。私は女王としての義務を果たせない。だから、」
「婚姻関係を解消して他の女を探せ、なんて言ったら俺は全裸で玉座を担いでデネリム市場を踊り歩いてやるからな」
「……それはあなたが恥ずかしいだけだろう」
「俺は恥を晒したって平気だが、耐えられないのはお前だ。クーズランド家の名にも傷がつくぞ。いいか、俺は、離婚もしない、愛人も作らない、そんなに子供がほしけりゃ孤児を拾ってきて適当にでっちあげろとイーモンにも散々言ってきた。お前にも同じことを言っとく。それを帰ってこない理由にはするな、絶対に」
「どんな脅し方だ。……理由にしてるわけじゃない。気がかりを残したくないだけだよ」
かつてケイランがそうであったように、それ以上の熱意で以てアリスターは世継ぎを望まれている。この五年間ずっと二人で試してきたけれど汚れに冒された私が新たな命を宿す気配はない。気づけばアノーラとケイランが夫婦として過ごしたのと同じ年月が経っていた。ケイランはアノーラを手離さなかったが、それは彼にアリスターという最後の一手が残されていたからだ。
「私とでは難しいと分かっていたはずだ。きっとあなたも覚悟は、」
「ダメだ、嫌だ、断る、ノーサンキュー!」
「アリスター、聞いて」
「い、や、だ!!」
「……いい歳して駄々をこねるな」
彼には後がない。アリスターが子を成さなければセイリンの血は本当に断たれてしまう。フェレルデンの血脈が、だ。それに……私はアリスターの子供がほしい。彼はもう私と離れても一人ではないけれど、未だ知らぬ血の繋がりの愛しさをその腕で感じてほしいんだ。何の理由も根拠もなくただ愛だけが繋ぐ絆を、両親に、兄に、甥に、私と似たところを見つける感動を。自分のルーツを見つける喜びを。受け継がれてゆく血の尊さを。
私はアリスターに、彼自身の子を抱き締めてほしい。
どう攻めるべきか悩む私に「無駄な努力はやめとけ」なんて慰めるようにアリスターが笑う。
「説得するだけ無駄だぜ。お前がどんなに論理的に話をしても俺は絶対に頷かない。答えはすべて同じ、『嫌』だ!」
「あなたを誰にも渡したくない。私が戻るまで他の誰も愛さずに待っていてくれ」
「嫌、っなーんて言うわけないだろ!?」
「今言ったことをもう覆すのか、嘘つき」
「あ、あのな……いい歳してセコいことするなよ。とにかく、行くのは構わない。呼び声を癒せたら世継ぎについてゆっくり考える時間もできる。何も問題ないな? じゃあさっさと目的を果たして戻ってこい。俺からの命令は以上だ」
「……まあ、その時になってみなければどうするかあなたにも分からないだろうから。後のことはイーモンに頼んでおく」
「おい、命令だぞ。分かったって言え」
戻ってくると言え、約束しろ、できないのなら行かせない。そう言われるほど言葉が喉につかえて出てこなくなった。もし離れても、永遠に会えなくても、他の誰かを愛しても、アリスターは私の大切な家族だ。それが私にできる約束のすべてなんだ。
「最初から諦めてるのか? 必ず見つけて、すぐに帰ってくると約束しろよ。簡単なことだろうが!」
「できない」
「……えっ」
探し物が見つかるまでは戻れない。私が一人の人間として彼を愛し抜くために、汚れのせいで狂って死ぬわけにはいかないんだ。だけどウォーデンを宿命から解き放つ方法を、必ず見つけると言い張れるほど楽観的にはなれない。絶対に戻ってくると、彼の望む嘘をついたら、きっとアリスターは私を待ち続けるだろう。
「な、俺は、お前、そっ、そんな顔したって……、どうせ誤魔化してるだけだよな? いつもここで引っかかるんだ。それで俺が折れたらお前は、笑って……そして……」
彼がなぜ急に弱腰になったのか不思議だった。そのまま諦めてくれればいいのにと思う。それでアリスターが折れたら私は、笑って、為すべきことに集中できる。
俯いた目の先から雫が落ちて、無意識に握り締めていた拳に当たって弾けた。
「くそっ、泣くなよ! ……ちくしょう。ずるいだろそれは」
悪態をつきながらアリスターは私を力一杯抱き寄せた。
いつでも強く優しく誰かに差し伸べられる、この腕がとても愛しい。どんなに多くのものを救えるのか知っている。彼を失いたくない。彼を一人にしたくない。彼が愛を失うことのないよう、それだけを願っている。ずっと、いつまでも。
アリスターが待っている限り、私は旅立てない。そうして少しずつおかしくなっていく。
「必ず戻るなんて軽々しく言えない」
戻ってきたいんだ。あなたのもとに……。私が行くのはアリスターを守るためだ。もし時間が足りずに自分を失い、戻れなくなったとしても、彼だけは救ってみせる。だから、
「お願いだから、私がいなくても平気だと言って……」
残された時間はただでさえ少なく、きっと死ぬ前に戻ることはない旅だけど、守れるかも分からない約束をして縛りたくない。私を待つために彼がまた孤独になるなんて嫌だ。耐えられない。でも、そばにいたい。最後まで一緒にいたい。その瞬間まで自分自身でいられたなら。
矛盾した想いに引き裂かれた心の隙間から悪夢が忍び寄ってくるのを感じた。震えだす私の体を押さえるように、アリスターは抱き締める腕に一層の力を籠める。このままずっと抱かれていたかった。どうすれば幸せになれるのか、ずっと前から知っているのに、一滴の血が未来をどす黒く汚してしまった。
深い溜め息を吐いてしばらくの沈黙の後、アリスターは私の肩に顔を埋めて囁いた。
「俺が決断するとしても、手遅れになる寸前だ。本当にそうするしかなくなったら望み通りにしてやる。フェレルデンのために、お前のためなら、やるべきことをやるよ。……安心しろ。その代わり、お前も絶対に諦めるな」
「ありがとう、アリスター。どんなに絶望しても……諦めないと、あなたに誓う」
「俺のところに戻ってこいよ」
少なくとも、そう願っている。例え戻ることが不可能になっても、戻りたいと願い続ける。世界の果てで呼び声を聞いても、私を抱き締めるこの腕をきっと思い出せるだろう。
行かなければ。探さなければ。この温かさがこんなにも離れ難いからこそ、アリスターを失わないために。