糖化するものたち
寝起きの呆けた頭で見慣れない天井を見つけて硬直する。しかも隣を見るとエリッサがいない。仰天して飛び起きたところで、ここがハイエヴァーの城塞だってことを思い出した。引っ張られるように蘇ってきた記憶が顔の筋肉をゆるめていく。
昨日のちょっとした夜更かしのせいで体中を倦怠感が支配していたが、内側にはかえって気力が漲ってるようだ。むしろ有り余る活力をどうにか抑えるために全身が疲れてるって感じがする。生まれて初めてじゃないかというくらいにとても気分がよかった。
起き上がって部屋を見渡すと、探し回るまでもなくエリッサはベッドのすぐそばにいた。すでにきちんと服を着た彼女は壁際にある浴槽の縁に手をつき、その中をじっと覗き込んでいる。
放り出してあったズボンに足を通してシャツを被りながら、心なしかぐったりした彼女の背中に声をかけた。
「おはよう」
「……」
首の軋む音がしそうなほどゆっくりと振り向いたエリッサは、目一杯に怒りを込めた視線を投げつけてきた。反射的に謝ろうとした口を慌てて閉じる。ここで謝るのは、夫として男として国王として駄目だろう、うん。
威圧に失敗した彼女はふんと鼻を鳴らしてまた浴槽に視線を戻す。どうやら相当ご機嫌ななめのご様子だ。
昨夜のことは、確かにちょっと無茶をしたけどダークスポーンとの戦いに比べればそこまでとは思わない。いや、比較対象がおかしいか。エリッサは全身から疲労を滲ませていた。そのくせ肌は艶がかって草臥れた雰囲気なんて少しも感じない。疲れ顔が余計に色っぽいくらいだった。
彼女を苛んでいる倦怠感は俺の比じゃないだろうとは思う。が、それにさえ同情や申し訳なさよりも充足感が溢れてくるんだからどうしようもなかった。
蹲ったまま動けずにいるエリッサに大丈夫かと声をかける。自分で思った以上に幸せいっぱいの腹立たしくなるような声音でビックリした。案の定、彼女は仏頂面を浮かべて無視を決め込んでいた。
俺が隣にしゃがむと彼女は顔を背ける。顔を覗き込めば体ごとそっぽを向く。顎を掴んでこっち向かせたら牙を剥いて威嚇する。
ただ一夜の情事で疲れきってることが、消耗しきるまでやめられなかったことが、俺に主導権を握られていたってことが、俺が起きる前に本調子を取り戻しておきたかったのに失敗したのが、悔しくて不貞腐れてるんだろう。そんな子供っぽさまでもが俺を笑顔にする。
「お前って可愛いなぁ」
言った瞬間エリッサの表情が凍りついた。シャツから覗く胸元が赤くなり、瞬く間に額まで血がのぼっていく。何がそんなに悔しいのかよく分からないが、彼女は可愛いと言われると相当ムカつくらしい。可愛いと言われて怒ってるのがまたかわいいってのに。
「あー、かわいいほんとかわいい」
「うぐぐ……!!」
「怒った顔もかわいい」
堪らなくなって抱き締めた。怒りと羞恥に震えながら俺の腕を振りほどこうと暴れたところでエリッサは小さく悲鳴をあげた。急な動きで腰が痛んだらしい。それが俺のせいだと思うと腹の底から凄まじい喜びが込み上げてきて、彼女を抱く腕に力を籠める。エリッサは両腕で俺を押し退けようともがいていた。
「離せこの体力馬鹿! どうしてそんなに元気なんだ!」
「鍛えてるからかな? お前もちょっと体力つけた方がいいんじゃない?」
無茶するのは昨夜で終わりってわけでもないんだしと付け加えたらエリッサは言葉にならない呻き声を漏らして項垂れた。
許されるなら彼女を抱き上げてベッドに戻り、体をくっつけたままもう少し眠っていたかった。ずっとそうしていたかった。エリッサを抱いて寝転がり、彼女の体温を感じて眠り、目覚めて一番に彼女の寝顔を見たい。そんな一生を過ごしたかった。
さすがにずっとそうしてるわけにはいかないが、好きな時に彼女を抱き締められる、好きな時に触れてもいいんだということをようやく理解できた気がする。
ここが俺の故郷だと強く思う。王としてデネリムで玉座に腰かけていても、俺の心が帰る場所はここだ。根無し草のようにふらふらと一生を彷徨って消えていく運命だと思っていたが、ここに俺の家がある。俺の家族がいる。
これを守るためなら何だってできるだろう。彼女のためなら。彼女の大切なもののためなら。
幸せだって実感は、なかなか味わえないもんだ。自分が特別に不幸だとも思わず生きてきたが、満たされない気持ちは常にあった。いつも何かが足りなかった。ずっと心が欠けていた。
エリッサを好きになり、こいつを手に入れなければ空虚さは埋まらないだろうと感じた。夜を共にして、告白を受け入れられ、結婚してさえまだ足りなかった。だけど今この瞬間、信じられないほど幸せだった。
今にして思えば、ファーガスが遠慮するなと言ったのは全くもって正しい。さすがエリッサが生まれて以来ずっと彼女の兄をやってるだけのことはある。エリッサは強い男が好きなんだ。それは文字通りに、彼女と、そして彼女が背負っている者たちを養えるだけの能力がある男って意味だ。
後ろに付き従うだけの男に振り向いてくれる女じゃない。エリッサは一人でも自由に生きていける力を持っている。だからこそ彼女に求められたいなら、完璧に勝ってみせなきゃいけないんだ。彼女にとって必要な存在にならなければいけない。
両腕に熱い体を抱いて昨夜の余韻に浸っていた。少なくとも寝床では俺が絶対的な強者でいられた。とにかく一つは勝てる勝負がある。その勝負の内容はさておき、これは大進歩だ。
昨夜、彼女は間違いなく俺に屈伏していた。そのことをきっちり自覚しているからこそ今こうして不貞腐れてるわけだ。
誰かを、愛した女を自分のものにしてしまうなんて俺の主義に反することだと思い込んでいたが、実際そうでもなかった。彼女を組み敷くのはえもいわれぬ快楽を呼び起こした。抗い難い征服欲が沸きあがり、何としてでもこいつを支配下におさめたいって気分になる。そしてそれを実行したんだ。
勝手に顔がニヤニヤしてしまうのを抑えられなくて彼女の肩に口を押しつけた。微かに身震いしただけで抵抗はされなかった。
怠くて逃げるのも億劫なんだろう、もう勝手にしろとばかりに俺に体を預けてきたエリッサが、しばらくしてぽつりと呟いた。
「……入浴したい」
顔を洗うつもりでここにいたんだと思ってたが、違ったのか。朝から風呂とは豪勢だ。でもほとんど明け方まで運動してたことを考えれば当然かもしれない。もう、そりゃあもう、中も外もいろいろと……汚れているだろうし。そう思い至ってさすがに顔が熱くなる。
「お湯の支度しようか。ど、どうすりゃいい?」
確か中庭には井戸があったけど、風呂に入る時ここではどうしてるんだろう。貯水槽の場所までは教わってない。するとエリッサは、心外だって顔で俺を押し退けて……立ち上がろうとして転んだ。
「……自分で準備できる。いつもそうしてたんだから」
「でもお前一人じゃ立てないだろ?」
「うるさい黙れこっち見るな笑うな」
注文が多いやつだなと笑ってしまって脛を殴りつけられた。痛いのにまた笑ってしまう。俺はどうも、エリッサが俺のせいで怒るのがどうしようもなく嬉しいらしい。
かつて俺は怒るほどの価値もない存在だった。だが今は、彼女が警戒すべき相手になれたんだ。
「じゃ、一緒に行こう。俺も体を拭きたいし、準備を手伝うからさ」
手を離すとふらついてしまう体を抱き起こしてやると、エリッサはさりげなく俺に寄りかかりながら何とか立ち上がった。腰に腕を回したらつねられた。それじゃあと手を握ってみる。彼女は特に気にした様子もなく当然のように握り返してきた。
しかしちょうど部屋を出たところでファーガスと顔を合わせ、エリッサは回れ右で部屋に戻ろうとした。
「おいおい、愛しのお兄様の顔見て逃げ出すやつがあるか」
ファーガスの瞳に悪戯っぽい輝きが灯り、エリッサが焦りまくっているのを見た。……ああ、こうやって日常的にからかわれてたんだな。
ハイエヴァーに来てリラックスしてるのは俺だけじゃないんだ。昨日からエリッサは、なんていうか心の覆いが一切なくなっていた。そして妹の襟首つかんで満面の笑みを浮かべる彼はたぶんウィンやオグレンといい友達になれるだろうなぁ。
「昨夜はお楽しみだったようだな」
「うっさい何も言うな!」
「いいじゃないか、おめでとうくらい言わせろよ」
「めでたくない! 大体ファーガスが妙なこと吹き込むから、」
「俺のお陰で悩みスッキリってわけだ。心も体もな」
「んなっ……そんな簡単なわけないでしょうが!」
「だってお前、怒ってるってことは悔しくなるくらい気持ちよかっ」
「ハァッ!」
「ぐほあ!!」
口を挟む隙のないやりとりからそれは見事な流れ技だった。まず呼吸を合わせて腹に渾身のパンチ、痛みに呻いて前のめりになったファーガスの顎に膝蹴りをかまし、脳が揺さぶられよろめいたところへ肺を狙っての肘鉄砲、彼が上体を仰け反らせる暇もなく足払いをかけて体勢を崩したところに踵落としを決め床に叩きつけた。実の兄を殺す気か。
仰向けに倒れたファーガスは目を閉じたまま動かない。死んだふりだといいんだが。ふりじゃなかったらどうしようかと冷や汗が流れる俺の手を引いて部屋に戻り、エリッサは乱暴に扉を閉めた。
「い、いいのか? ほっといて」
「すぐ起きるよ。そのまま朝食を作ってここまで運ばせればいい」
公爵にそんなことさせて俺の外聞がよろしくないんじゃないかなあと呟く俺に、彼女は怪訝そうな顔を向ける。
「……そういうあなたは国王じゃないか。まさか忘れてはいないだろうけど」
いや、忘れてた。というより、あれだけ煩わしかった玉座ってものの重圧がここでは些細なことに感じられた。
ごく自然に、生きたいように生きれば最善の結果を得られるような気がしてくる。どんな責務であれ彼らが一緒に背負ってくれると信じられるからだ。ここが俺の家で、二人とも俺の家族だからだ。自分が国王だなんて家族の前ではどうでもいいことだった。
俺の手を握ったままエリッサはベッドに倒れ込む。風呂はいいのかと聞いたらぶっきらぼうに朝食のあとにすると答えた。拗ねた子供みたいにありのままの感情を晒す彼女が愛しくて仕方なかった。こんなにずっとニヤニヤしてたら間違いなく頬が筋肉痛になるだろう。
うつ伏せになり顔をクッションに押しつけている彼女の隣で俺も寝転がる。手以外に触ったら怒るかなー、なんて考えてたら、彼女の方から寝返りをうって俺に抱きついてきた。
なぜだ。なんでここでは簡単に俺の願いが叶うんだ。慣れない幸せに腰が引けそうな自分を宥めてエリッサの手をぎゅっと握る。すぐに我慢が足りなくなって、彼女の脇腹の下から腕を差し入れて思い切り抱き締める。
「アリスター」
「うん?」
「もし服の中に手を入れたら我が家の地下牢を案内してやるからな」
「……はい」
中に手を入れちゃダメなら脱がせばいいんじゃないかと思ったんだが、まるで心の声を聞いたみたいに凄みのある笑顔を浮かべられて鳥肌が立った。
彼女の髪に顔を埋めて香りに酔いしれ、胸に彼女の呼吸を感じた。たぶん、ファーガスは朝食を作ってくれないだろう。昼というにも遅いくらいの時間にやってきて呆れ顔で「お前たちまだ寝てたのか、いい加減にしろ」ってエリッサを水風呂に放り込んで俺に昼食を用意させるだろう。
そう願っていれば、きっと実現するんじゃないかと思うんだ。