夜を焦がす体温



 城の書斎はほとんど空になっていた。焼け残った中で価値あるものはハウ伯爵が持ち去ったようだ。いくつか置き捨てられていた本は城に駐留していたハウの兵が持ち込んだのだろうか、見覚えのないタイトルばかりだった。
 アムシーンはそのうちの一冊を広げて、本棚の陰に隠れるようにして熱心に読み耽っている。私がいるのには気づいていないようだ。
 しばらく彼女の痩せ細った手足を眺めた。やがて話しかけようと近寄った私の足音に気づくと、彼女はびくりと肩を震わせて乱暴に本を閉じ、それを後ろ手に隠した。勝手に読んで叱られると思ったのかもしれない。
「それ面白い?」
 ちょっと泣きそうになりながらも私を見上げ、こくんと小さく頷いた。アムシーンはその本をおずおずと差し出してくる。ドラゴンハンターの記録だ。子供向けの冒険物語ではなくベビードラゴンの生態の研究書……年頃の少女が読むものではないと思うんだが、私の幼い頃を振り返る限り人のことは言えないな。
 それは君にあげるよと言って本を返したら、彼女は恥ずかしそうに微笑んだ。俯きがちに目を伏せると母親にそっくりだな。
「アムシーンは字が読めるのか?」
「うん。お母さんが教えてくれたの。読み書きができたら『食いっぱぐれないから』って」
 意外な言葉に思わず噴き出した。イオナ、上品な淑女だと思っていたら家族の前ではそういう人だったのか。

 娘にも自分と同じだけ、願わくはそれ以上の地位についてほしかっただろう。ランドラ夫人もそのつもりだったと思う。アムシーンはイオナに似て賢い子供だ。将来はダイレンの妻の侍女として、あるいは彼の子供たちに仕えてオズウィン城に来てくれることを期待していたに違いない。
 妻と跡継ぎを亡くした上に内乱で大きな痛手を被ったローレン男爵に、エルフの少女に手を差し伸べる余裕があるとも思えなかった。それに、こうもイオナの面影を宿すアムシーンをそばに置いたら、男爵は否応なしにランドラ夫人を思い出してしまうだろう。
 ハイエヴァーで引き取ればいい。そう言うのは簡単だ。しかし私の一存では決められない。私が「ここにいろ」と言えばそれは命令になってしまう。
「私はもうすぐデネリムに戻る。もし異民族区に帰りたければ、一緒に行こうか?」
「……」
 不安そうに、だがしっかりと彼女は首を振った。ではハイエヴァー城下のエルフ異民族区に行くかと尋ねたらアムシーンは強い眼差しで「ここにいる」と答えた。
 デネリムのエルフ異民族区では何人かハイエヴァーに移り住みたいという者がいて、ヴァレンドリエンとこちらの古老との話し合いの末に彼らは私たちと共に公爵領を訪れ、そのまま麓の異民族区に残っていた。
 この子を城に連れてくるかどうかとても迷ったのだが、結局は一緒に来てしまった。
「お母さん、ハイエヴァーに行くって言ったもん。だからわたし、ここにいるの。ここでお母さんをまってる」
「……そうか」
 知性の輝きを持つ瞳は涙で潤んでいた。彼女は分かっている。何の知らせもないまま長く留守にしている母親が、もう決して帰ってこないことを理解しているんだ。分かっているからこそ、イオナの死んだこの城塞で待つと言う。
 アムシーンは私に何も尋ねなかった。お母さんの知り合いなのか、ハイエヴァーに行けば会えるのか、お母さんに何があったのか、そういった当たり前の疑問をひとつも口にせず黙ってついてきて、自分の目で城を見て回り、すべてを悟ったんだ。

 細く艶やかな髪を撫で、くすぐったそうな彼女を見て私も微笑みが浮かぶ。ここに住む気があるならそうしてくれれば私も嬉しかった。アムシーンはもう自分のことを自分で決められる。イオナがそのように育てたから。
「アムシーンの目はとても美しいな」
「わたしの目はね、お母さんに似てるんだよ!」
「ああ、見間違えそうなくらいだ。大人になったらもっと似てくるだろう。実は私もよく母親似だと言われたんだよ。特に、この目が」
 真ん丸に見開かれたアムシーンの瞳に私の顔が映っていた。母さんと同じ鮮やかなグリーン。母親似だと言われて嬉しそうに目を輝かせる少女が、いつだったかの自分の姿に重なって見えた。
「私は普段デネリムにいるが、ここは私の生まれ育った家だ。だから新しい家族にプレゼントをあげよう。ひとつはその本」
 そしてもうひとつは、自室に残っていた母さんの遺品。初めてサロンに連れ出された時にもらった鏡。アムシーンの小さな手にそれを乗せると、彼女はびっくりして口を開けたまま硬直した。そんな顔をすると確かに子供っぽくて愛らしい。
「君の瞳を覗き込めばお母さんに会えるよ」
 弾かれたように顔を上げ、彼女は「お姉ちゃん、ありがとう!」と叫んだ。お姉ちゃんか。おばさんと呼ばれなくてよかった。私が「どういたしまして」と言うのを待たず、頬を紅潮させた彼女は「ファーガス公爵に見せてくる!」と書斎を駆け出していった。
 ……え? いつの間に会ってたんだ。私の紹介を待たず自力で公爵と知己を得るとは、さすがイオナの娘、抜け目ないというかなんというか……強いな。

 私の心配を鼻で笑い飛ばすようなエルフ少女のしぶとさに少々呆気にとられていたら、後ろから急に両肩を掴まれて飛び上がった。
「お前ってほんと美人に弱いよな。ま、俺も人のことは言えないけど」
「アリスター……入ってくる前に声くらいかけてくれ」
 私を驚かせたことが余程嬉しかったのか、少年染みた無邪気な笑みを浮かべてアリスターはそのまま抱きついてくる。気のせいでなければ、ここに来てからやけにスキンシップが多いな、彼は。リラックスできているということならいいんたが。
「どうしてそうやたらと触りたがるんだ?」
「そりゃ今まで我慢してた分を取り戻したいからだよ」
「我慢してたのか。そういうことに興味がないだけかと思ってた」
 テンプル騎士の修行をしていたからって絶対に処女童貞を貫かなければならないというわけじゃないし、まして彼は誓いの前に教会を出たのだから機会はいくらでもあったはずだ。それでも私以外の女には触れた経験すらないというなら、つまり性に興味がないのだと解釈していた。
「旅の間も今も、自分で慰めてる様子もないし、欲求が薄いんだとばかり」
「いや……ちょっと待て、なんで分かるんだよそんなこと」
「匂いで分かるだろう?」
「ふ、普通そこまでは分からないと思うぞ。犬じゃないんだから」
 そうだろうか。私は分かるけど。発情の匂いって誰でも嗅ぎ取れるものだと思っていた。あるいは私が犬並みに鼻が利くってだけの話かもしれないな。

 しかし、今まで我慢していたというのは聞き捨てならない。甘ったるい恋心をさらけ出してくれと言われたら困るけれど、欲求の解放については得意分野だ。その点に関しては妻としての責務をうまく果たせると自負している。
 何かと肉体的な負担の多かった旅の間ならまだしも、今になって彼が我慢する必要はない。
「政務に差し障りのない程度なら、王宮でも同じようにしてくれて構わないのに」
「うーん、我慢するのが苦痛ってわけでもないんだよ。教会でやらされたのはそんな欲求を含めた雑念を払うための訓練でもあったから、同年代の男ほどガッついてないのかもな。欲求がなけりゃ恋だってしないだろ? お前に出会うまでの話だけどさ」
 そんなことを言いながらアリスターは無遠慮にもたれかかってくる。立ったまま彼の体重を預けられると支えるのはつらい。仕方なく、抱きつかれたまま椅子を引き寄せて座った。……なんで同じ椅子に座るんだ、狭いのに。
 アリスターが性に対して欲求が薄いというのは何も不思議なことではない。終始自分の素性がつきまとうから、滅多なことでは誰かと夜を共にしたいと思えないのだろう。極端に慎重なんだ。
「じゃあ、なんであの時は我慢できなくなったんだ?」
「う……」
 途端にアリスターは耳まで真っ赤になった。どうも彼は未だに初めて私と寝た日のことを恥じているようだ。愛の言葉を告げるより先に体を重ねてしまったことを。無理強いしたわけでもなし、私がいいと言ったんだからなぜ気にするのかよく分からないけれど。

「他の誰にも我慢なんて必要なかったが、お前は特別だった。触れたくて、お前が欲しくてどうしようもなかった。それまでずっと我慢してたけど……ダメだったんだ」
「分からないな。あなたは忍耐強い人だ。私に対する欲求も他と同じく我慢できただろうに」
「だって、あの時はもう、恋をしてたんだ」
 女に親しんだ経験がないのはともかく、出会いなら多々あったはずだ。特にグレイ・ウォーデンとなってからは、テンプル騎士団の規律だって関係ない。ウォーデンの仲間にはいなくとも戦いに加わる女性はたくさんいたはずだ。オスタガーにだって女性兵士は溢れていた。
 アリスターが私を求めたきっかけは何だったのか……自分がそれを気にしていると自覚して、動揺した。
「あなたは……私のどこを好きになったんだ」
 その疑問は今まであえて避けていた。だが、その疑念が彼との間に一線を引かせている。ならば解き明かさなければいけない。
 外見ならまだいい。私は確かに美形だ。自分でも思う。なぜなら私の顔は母さんに似ているからだ。この容姿が両親に連なっている限り、自分の美しさについて謙遜する気は一切ない。
 だけどべつに、セダス随一の美女というほどではないのも確かだ。社交界を見れば傾城の美女などいくらでもいる。アリスターは奥手だが、綺麗な女を一度も見たことがないというほど世間知らずではなかった。
 ……外見じゃない。きっかけなんてない。アリスターが私に惹かれたのは、ダンカンが見出だした人間だからだ。そう言われるのが怖くて避けていたんだ。

 沈黙が続いた。私が焦れて振り向くと、間近にアリスターの顔がある。ひとつの椅子に二人で座って向かい合い、私は半ば彼の膝に乗って、彼は私の腰を抱いていた。お互い逃げ場を塞ぐように。
「答えないのか?」
「いや、えぇと、はっきり“いつ”って断定できるものでもないんだけどな。最初に惹かれたのはたぶん……コーカリ荒野で……あの悪魔、精霊だったか? 丘の上でひとつまみの灰を振りかけて、お前が精霊を召喚したことがあっただろ」
「ガザラスのことか?」
「そうそう。あの時お前はすごく、瞳を輝かせて、好奇心に満ちた表情だった」
 自分がどんな顔をしていたかなんてまったく覚えてないけれど、まあ確かにグレイ・ウォーデンと関わりのないことをするのに快さを感じていた気はする。元々あの類いの伝承は好きだし、人ならざるものとの戦いほど血の滾ることはないだろう。あれはいい気晴らしだった。
「一瞬見えた……顔が、とても素敵だった。俺に対する愛想の良さが嘘だってのは分かってたからな。本当の顔をもっと見たいと思ったよ」
「それで?」
「だから、お前に興味を持ったんだ」
「……もっと後じゃないか? あなたの視線に熱を感じるようになったのはイーモン伯爵が目覚めた頃だ」
 正確にはゴルダナに会ってからだ。彼の望みを叶えてやってから。それは理解できる。私のことを必要な人間だと無意識に感じていたんだろう。彼の助けになる存在だと。
「そうだな、指摘された通り、俺はまったく女に縁がなかったわけじゃない。ただ興味がなかっただけだ。お前にも最初はそうだった。そりゃこんな美人が視界に入ってれば気分はいいが、単なる仲間ってだけで、ダベスやジョリーと何も変わらなかったはずなんだ」
 じゃあ、どこで変わったんだ。単なる仲間じゃなくなったのは、私だけが生き残ったから? それともグレイ・ウォーデンの使命をこなすうちに、ダンカンの遺した仕事を肩代わりするうちに、私を彼の代わりにしてはいなかったか。
 それは勘違いだと胸の奥で叫んでいた。ダンカンを慕う気持ちが、彼の意志を継ぐかのごとく隣にいた私に重なってしまっただけだ。錯覚だ。過ちだ。あなたは私を好きになったわけじゃない。……いつかと同じく、言葉は胸に留まり続けて遂に吐き出されなかった。

 私を膝に乗せたまま彼は慎重に言葉を探していた。
「実は、ダンカンに言われてお前が逃げないように見張ってたんだ。だから……ずっと前から見てたよ」
 監視されたのは知っている。ダンカンもアリスターもその態度を隠しはしなかった。実際、自棄になって一人で荒野に飛び出してやろうかと思った瞬間もないわけではないから、彼らの危惧は正しかった。
「お前は勇敢だった。初めてダークスポーンに会っても眉一つ動かさなかった。そんなやつ見たことないよ。凄惨な死体を見つけても恐怖に足を止めなかった。ただ周囲を見回し、それをやった者を探して警戒していた。冷静だった」
 ダークスポーンに関しては期待外れだと感じていたからな。そもそもグレイ・ウォーデンに抱いていた夢想が完膚なきまでに壊されたあとで、彼らの敵に畏怖と敬意を払えるはずもない。やつらは恐るるに足りないただの獣だった。
「冷静だが、冷酷ではなかった。こっそり遺体に祈りを捧げる慈悲深さもあった。……狼の群れに囲まれても血を流さず乗り切るほど腕が立つのも驚いたよ。荒野にいるってのに宝探しに励む余裕があったのも」
 それは……ガザラスの件と同じだ。クーズランド家が滅びようとしている時に名前を捨ててグレイ・ウォーデンに入団しようとしている自分が憎くて堪らなくて、必死にウォーデンとは関係ないことをして気を紛らせていたんだ。
「お前の後ろでジョリーが青褪めてたぜ。ダベスも段々しゃべる余裕がなくなってきてさ。あいつが『誰だってこんなおっかないとこからは早く逃げたがるもんだと思ってた』って呆然と呟いたのを覚えてる」
 アリスターは楽しそうに笑って語り続けた。ウォーデンになる前の、私の記憶を。

 呆然と彼の言葉を聞いていた。コーカリ荒野でどんな風に過ごしたかなんて、もうほとんど覚えていない。こうして彼の視点で自分の行動を振り返るのは奇妙な感じだ。彼がくだらないことまで細かく覚えているのが、なんだかすごく恥ずかしかった。
「普通の女じゃなかった。お前は誰とも違った。ダンカンに言われてなくても勝手に見てたよ。俺は……お前が仲間に加わるのが楽しみだった。でも本当は、逃げ出してほしくもあったんだ。洗礼の儀に失敗したらと思うと……」
 不意に強く抱き寄せられ、彼の顔が見えなくなった。耳元に呼吸を感じる。密着した胸が激しく脈打っていた。その鼓動がアリスターのものか私のものか、判別がつかなかった。
「俺はその頃からお前という存在に惚れてたんだと思う。始めはただ生きていてほしかった。そのうちもっと知りたくなった。お前に近づきたくなった。ずっと見ていたかった。失いたくなかった。それから、構ってほしくなった。俺を見てほしかった。俺を求めてほしかった。俺のものにしたくなった」
 息を呑む。自分が何に緊張しているのか分からなくなっていた。彼に愛されることが怖いのか? でなければ、愛されていることを自覚してしまったあとで、それを失うのが……。
「お前が好きだ、エリッサ。その気持ちに理由が必要か? 俺は、お前に出会ったから。そうとしか言い様がないよ」

 思考が霧散してまとまらない。アリスターの言葉がぐるぐると頭を巡り、麻薬のように脳を痺れさせていた。言うべきことを言い切った彼は満足げに溜め息を吐いた。
「考えてみれば、俺はお前に結婚の申し込みをする機会を逃しちまったんだよなぁ」
 もし、その必要がなくても私はアリスターと結婚しただろうか。そうは思えない。夫婦となった今でも彼のことを良い友人として見ているのは自覚している。私は彼に恋をしていない。だけど……。
 強く抱きしめていた腕を緩めて再び顔をつき合わせると、私の頬を両手で優しく包み、口づけの直前に彼は囁いた。
「俺の妻になってくれ」
「うん」
 反射的に頷いてしまって、彼だけでなく自分でも驚いていた。今の返事はあまりにも淡白に聞こえたかもしれない。
「……喜んで」
 わざわざ言い直したせいで妙な間があり、それが恥ずかしくて顔が赤くなる。彼の奥手が伝染したみたいだ。そしてアリスターは、至福の笑顔であたたかく柔らかな唇を押しつけてきた。
 この城で眠るのは身を切るようにつらいだろうと思っていた。また過去に縛られるかもしれないと。でも昨夜、私は夢さえ見なかった。
 アリスターのことしか頭になかった。目覚めて一番に、彼の幸せそうな寝顔が胸を満たした。彼の体温が私に安堵をもたらした。一瞬で私を壊した記憶を、彼が塗り替えたんだ。
 彼は私の好みじゃない。だけどこれから先も彼に恋をすることはないと、絶対の確信を持って言うのが難しくなっていた。だって私たちは、もう出会ってしまったんだ。何が起きても不思議はない。



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