はぐれ者の想い


 眼皮膚剥離症、先天性白皮症――通称アルビノ――は、常染色体劣勢遺伝子疾患の一つである。メラニン色素の合成が減少、あるいは欠損することにより起こる。出生時より皮膚、毛髪、眼の色が薄く、全体の皮膚は白色調、目の虹彩の色は青から灰色調を呈する。紫外線発癌に伴った皮膚癌の発症リスクが高いといわれており、紫外線防御対策を講じる必要性がある。
 医学書でしか見たことがないそれを、チョッパーはジェシカと出会い、初めて目の当たりにした。ドラム王国で見慣れた雪のように白い肌に、眩しくてしばらく目を瞬かせた。風に吹かれたら消えてしまいそうな印象であるのに、雪の結晶のような睫毛に縁取られた双眸は生命の色である赤だった。
「ウサギみたい……」
 ポロッと零れた誰かの言葉に、チョッパーは内心大きく頷いた。
 ひょんなことから麦わらの一味に加わったジェシカ・ヒューズは、しんしんと降り積もる雪のような静けさをはらんでいた。それは少しだけロビンにも似ていたが、ジェシカは何かが仲間とは違うと、チョッパーの野生の勘が働いていた。
 ジェシカはその生まれつきの白さから、日光に弱く、日中は常にサングラスをしている。服装は長袖に長ズボン、陽射しが酷い時はフードを被っていた。仲間はその格好だけで暑い暑いと口を揃えて話していたが、当の本人は静かな海面のように笑うだけだった。
 見かねたナミが自分の帽子を貸してやったり、フランキーが自身の身体で影をつくってあげたり、挙句の果てにはルフィが大事な麦わら帽子を頭に被せてやったりしていた。そのたびに、ジェシカは申し訳なさそうに感謝をする。
 なんだかしっくりこないような、ちょっと物足りないような反応に、チョッパーはいつもモヤモヤとしていた。けれど、直接それを伝える勇気も言葉も持ち合わせていない。チョッパーは『ジェシカはそういうヤツ』なんだと無理やり認識をして、疑問に蓋をした。
 ルフィがジェシカに大声を上げたのは、何回目かの戦闘を乗り越えた時だった。
「痛い時は、痛いって言え!」
 鬼のような形相のルフィは、怒っている時のナミに似ていた。チョッパーは身の毛がよだつ思いだった。しかし、ジェシカはいつものように、静かに笑うだけ。ルフィの眉間のシワがどんどん増えていくのを、チョッパーはウソップに抱きつきながら目撃した。
「ジェシカ! 痛いって言え!」
 ルフィの泣きそうな震えた声に、チョッパーは鼻の先がツンとした。ジェシカは先の戦闘で明らかに傷を負っており、医者としてはいち早く手当に移りたいところだ。しかし、船長の気迫にチョッパーの足は甲板に貼り付いてしまい動けなかった。
 海がザアザアと音を立てて、船がギシギシ揺れるのを何回か聞いたあと、ジェシカは小さく息を吐いた。ため息のようなそれは、何だか諦めたような色をしていて、チョッパーは背筋がぶるりと震えた。何か嫌なことが起きそうだと、本能で予感したのだ。
「痛みを感じないから、痛いって言えないの」
 まるで、ゾロが筋トレを始めるように、サンジが食事の時間だと告げるように、ルフィが腹が減ったと言い放つように、ジェシカはさらっと告げたのだ。
 痛みがない。チョッパーはすぐに医者としての脳をフル回転させて、思考をめぐらせる。痛みを感じないということは、痛覚の一時的な異常なのだろうか。それともただ感覚鈍麻なだけだろうか。
「痛みだけじゃない。皮膚感覚がないの。痛み、温度、重さ、硬さ……そういうものを全部感じない。感じないことを想像して、伝えることは出来ない。それは真実ではないから。だから、痛いって言えないの。ごめんね」
 夕陽に照らされた甲板は、さざ波の音が支配していて、仲間の息遣いですらかき消している。
 皮膚感覚がない。それがどれほどのことか、チョッパーは直ぐに想像がつかなかった。

 ジェシカの告白から数日経って、チョッパーは改めて彼女の状態の深刻さを目の当たりにした。
 服装について、紫外線対策の目的もあるだろうが、明らかに汗をかいていても気づかない。気温に合わせた服装の調節が難しく、ナミに口酸っぱく言われて、ジェシカはようやく重い腰を上げて服装の調節をする。
 最近では、ロビンまでもがナミに加担している。島に到着しては、二人でジェシカを引っ張って服屋に行き、紫外線対策もできてなおかつ可愛い服を見繕っているんだとか。
 ウソップとフランキーが「船に温度計でもつけるか?」と真剣に話し合ってたこともある。ブルックは体温調節の話に便乗して「ジェシカさん、パンツ見せて貰ってもいいですか? 今日は暑いので紐パンがオススメですヨホホホホ」とセクハラをしてナミのゲンコツを食らっていた。
 重さや硬さを感じないジェシカは、物を掴む時や持ち上げる時によく失敗する。洗濯物が風に吹かれてジェシカの手から逃げ出してしまい、ルフィに腕を伸ばして取ってもらうことはしょっちゅうだ。冒険と食べ物にしか興味のないルフィが、ジェシカが洗濯物を扱おうとすると、いつもどこからともなくやって来る。ルフィが手伝うことは無いけれど、いつでも洗濯物を取れるようにしながら、ジェシカにこれまでの冒険の話を聞かせていた。
 ジェシカは食器を割ってしまったことも数回ある。気を利かせて片付けをしようとしてくれたり、食器を持ち上げた際に、手から滑り落ちてしまうのだ。割れた皿やグラスを素手で回収しようとするものだから、さすがのサンジもすごい剣幕で止めていた。その後、サンジはジェシカが誤って怪我をしないよう、ジェシカ専用の食器には滑り止めをつけようかとウソップに相談していた。もちろん、フォークやスプーンで食べやすいよう、事前に一口の大きさにしておく気遣いは欠かしていない。
 皮膚感覚がないことからくる怪我の恐れを、仲間は皆気にしている。ゾロですら気にしている様子で、食事の時やジェシカが重いものを持ち上げようとしている時に、視線を送っている姿をよく見かける。サンジからは「エロい目でジェシカちゃんを見るんじゃねェ、クソマリモ!」と怒鳴られて、「それはてめぇのことだろエロコック!」と喧嘩になる始末だ。
 チョッパーは、皮膚感覚がないということの実態を目の当たりにして、自分はジェシカのために何ができるのかと連日考え続けた。みんな自分が出来ることをしている。
――おれが、ジェシカのためにできることは、なんだろう。
 医師であるが、彼女の皮膚感覚を『ない』状態から『ある』状態にするのは、原因を知らなくてはならない。原因によっては、『ある』状態に戻せる確証はない。しかし、もし皮膚感覚がなくなった出来事が、ジェシカにとって非常につらいことなら、思い出させたくない。
 ジェシカには笑っていてほしい。なにより、依然ジェシカが大きな口を開けて笑う様子を、チョッパーをはじめ麦わらの一味は一度も見たことがないのだ。

   *

 チョッパーの悩みはすぐに消えることになった。医療室にてチョッパーが薬を作ってると、扉がノックされる。ノックの音の大きさがバラバラなのは、ジェシカだ。
 チョッパーは手を離せなかったため、口頭で入室を許可する。
「ごめんね、チョッパーくん。いま忙しかったかな」
「大丈夫だぞ! すぐ終わらせるから、そこに座って待っててくれ!」
 いま手をつけている薬の調合を急いで終わらせようと、チョッパーはフンッと一回鼻から大きく息を吐く。終わってからでも大丈夫だというジェシカは、都合が合わなければ出直すとさえ言いかけてくる。
――ダメだ! ジェシカがせっかく来てくれたんだから!
 ドキドキする胸を落ち着けないと、薬を落としてしまうかも。しかし、深呼吸をして落ち着こうとしても、チョッパーの気分の高揚は治まらなかった。
 ジェシカの視線を一身に浴びながらの調合はとても緊張した。チョッパーは素早く調合を終わらせると、机の上をそのままにして、ジェシカに向き合った。
 ジェシカが言いづらそうに語ったのは、衝撃的な内容だった。
「――おれが……先生!?」
「うん。チョッパーくんに、医療についてを教えてほしくて」
 ジェシカの赤い瞳は燃えるように光っていて、うっかり見惚れそうになる。普段とは違い硬い声に、彼女の緊張が伝わってきた。
「でも、どうして急に? ジェシカはもう充分色んなこと知ってるだろう?」
 自分の専門分野に興味を持ってくれて、さらには学びを深めたいと考えてくれるのは、飛び上がるほど嬉しい。今も気をつけていないと、頬がにやけてしまいそうだ。足もぷらぷらと揺らしてしまいそう。けれど、理由が知りたい。ジェシカが自分からどうしたいのかを言うなんて、あまり見たことがないから。
「もともと、医療について勉強したいなって思ってたんだけど、なかなか機会が得られなくて。身につけておけば有事の際に役立つし、なによりチョッパーくんの手伝いがしたいなって」
「おれの手伝いを?」
「チョッパーくんがすごく集中して薬や病気の勉強をしてるの、楽しそうだなってずっと思ってたの。それに、迅速な判断で処置を施してくれる姿が、かっこいいなあって」
「そう、なんだ……」
「勉強したいだなんて、怪我してそれを放置しがちな私が言うのも、変な話だろうけど」
 自嘲するジェシカに、本当は否定すべきだった。しかし、チョッパーの口はぽかんと開いたままになってしまう。
――おれのことを、見ていてくれていた。
 ジェシカの言葉に、チョッパーは心が震えるのを感じた。医療室で勉強や調合をしていることがほとんどで、手当をする時は周囲の視線なんてそっちのけだった。
――そんなふうに、お前はおれのこと見ていてくれたのか。
 じわりと胸の奥からあたたかくて、うるうるしちゃいそうなものが込み上げる。
 他者から見た自分の姿がどう見えるか、しかもそれが肯定的なものだなんて、片手で数えるほどしか伝えてもらったことがない。
「……ジェシカは、おれが怖くないのか?」
「え? うん、怖くないよ」
「っ! ど、どう、して……?」
「どうして?」
「だって、おれはトナカイなのにヒトの言葉を話すし、身体だって変身する、し……」
「うーん……」
 顎に指を当てて、ジェシカは斜め上を見上げる。
 チョッパーは、自分の生い立ちを振り返る。トナカイの群れから追いやられ、『ヒトヒトの実』を食べて人間からも見放されたとき。心がひしゃげて、潰れて無くなってしまうのではないかと思うほど、胸が痛くて痛くて堪らなかった。ドクター・ヒルルクと出逢っていなければ、今の自分はいない。
 ルフィと海に出てからも、『化け物』と呼ばれ忌み嫌われた過去を思い出すことがある。そのたびに、仲間に迎え入れてくれて、楽しい日々を送れている今があることに、涙がこぼれそうになる。
 なにも知らない他者は、必ず自分の姿を見て声を上げるのだ。だから、ジェシカと出会った時も、その記憶がよみがえって不安でたまらなかった。しかし、ジェシカと初対面の時、彼女は目を丸くしたものの、すぐに受け入れていたように見えた。さらに仲間の一人となった今、『化け物』である自分に、医療について知りたいと教えを乞う。
 怖くないと即答してくれたジェシカに、チョッパーは驚きと同時に、じわじわ全身に喜びが広がっていくのを感じた。
――おれも、ジェシカのことを知りたい。
 彼女がなにをどのように見ていて、どう感じて、なにを考え思うのか。
 チョッパーはゴクリと生唾を飲み込む。逸る心拍は落ち着くどころか、ジェシカの唇がかすかに動くだけで、心臓が口からとび出そうだった。
「――可愛いから?」
「は!? 誰が!?」
「え? チョッパーくんが」
「お、おれが……!?」
「うん。可愛い。ものすごく可愛い。もふもふしたいくらい可愛い」
「そっ、そんなに褒めても! 何もでねぇぞコノヤロー!」
 もう頬っぺを引き締めることも、くねくね揺れてしまう体を抑えることもできなかった。
 真っ直ぐで凛とした、嘘ではなく本音なのだというジェシカの声と言葉。ルフィに似たようなそれは、チョッパーの心をくすぐった。くすぐられれば笑ってしまうし、体も動いてしまう。じゃあ仕方がない。今おれがにやにやくねくねしちゃうことは、ジェシカのせいなんだ。
「私、チョッパーくんと出逢えてよかった」
「っ! え……?」
 くすぐりが突然止まった。雷に撃たれたみたいだった。目玉も心臓も舌も、体から飛び出してしまいそう。
 こぼれ落ちそうな瞳は、ジェシカをまるっと映し出す。白い頬はチョッパーの帽子よりも、ほんの少しだけ薄い色に染まっていた。それはまるで、故郷と呼べる国で最後に見た、恩人の長年の研究である『冬に咲く奇跡の桜』みたいだった。脳裏でその光景と、ヒルルクの笑い声が蘇る。
 鼻がツンとして、唇はぶるぶる震えて、手足の蹄にキュッと力が入った。
「……おれは、『化け物』だぞ?」
 濡れたような震える声は、消えそうなくらい小さかった。ジェシカを見つめることが出来ず、視線は床の板目をなぞる。
 遠くで仲間の騒がしい声が響いている。甲板がいま夏のようならば、この部屋の中は一気に冬と化した。冬にしたのは、紛れもない自分自身。
 呪いの言葉にも似た、きっと一生自分を蝕み続ける『化け物』という呼び名。受け入れて生きていくことも、大声で否定し続けることも、勇気がいるし命が削られる痛みを伴う。
 自分らしく生きていく。麦わらの一味に入って、それが実現できていると確信しているのに、ふとした瞬間に変えられない事実を突きつけられる。
 チョッパーの瞳には涙がこみあげていた。頭を動かしただけで、涙がこぼれそうだ。泣き虫であることを自覚したくないけれど、いくつになっても自分はすぐに涙が浮かぶ。
 隠れられる場所があるのなら、今すぐにでも隠れてしまいたい。こんな、ジェシカの前で、泣きそうになるだなんて。それでも涙はこみあげてきて、チョッパーは息苦しくなる。
 医療室にいるのに、まるで溺れてしまいそうだった。おれは泳げないから、溺れれば誰かに助けてもらえないと死に直結する。床の板目はいつの間にかゆらゆら揺れていて、本当に水中に沈んでしまったようだった。
「仲間だね」
「ッ、へ……?」
 ゆらゆらした視界の中に、急に真っ白なものが現れた。それは、医療に必ず使用する白でもなければ、故郷の風景であった白でもない。桜の香りのような、甘くて胸の奥がギュッとなる香りが近づいた。
 白の中に赤。赤は生命の色。ジェシカが椅子から降りて、自分の目の前に跪いていたのだ。
 顔を覗き込まれていることに、チョッパーは数秒遅れて気がついた。息を呑んだと同時に瞬きした瞬間、両目からはぼろぼろと涙がこぼれていく。止まらないそれを早くなんとかしないと、おれは溺れてしまう。
 チョッパーは両手でゴシゴシと涙を拭う。それでも涙腺が壊れてしまったように、涙は流れ続ける。目の前にジェシカがいるはずなのに、景色はゆらゆら揺れてしまって、また水中にいる気分になった。
「チョッパーくん、私も、仲間だよ」
 両手にぬるいものが触れた。白い手、これはジェシカの手だ。ジェシカは、体温がぬるいんだ。
 ジェシカにそっと包まれた両手は、彼女によってそっと膝の上に戻される。不思議と涙の勢いは止まっていく。ジェシカの顔も、だんだんはっきり見えてきた。チョッパーは鼻水を啜って、これ以上涙が流れていかないように、眉間に皺を寄せた。
「そっ、それ、どうっ、いう、ことだ?」
 啜った鼻水が喉に流れてきて、気持ち悪さに咳き込みそうになった。ウッと我慢したら、今度は流暢に話せなかった。
 区切り区切りになった声を、ジェシカは最後まで聞き取った。両手で包み込んでくれたように、言葉の意味を掬いあげて、
「私も『化け物』なの。生まれた時から、ずっと、今も『化け物』。……だから、仲間だね。おそろい」
 ジェシカの言葉を耳にして、チョッパーの涙腺は再び壊れてしまう。
 今度こそ涙に溺れてしまいそうなほど、チョッパーは涙を流した。ジェシカは両手をずっと包み込んでくれた。チョッパーの泣く声に、仲間は駆け足で医療室に飛び込んでくる。
 この日、チョッパーは医療室で溺れかけてしまったが、大きな声で助けを呼んだことで、彼は心から救われたのだ。

22,02.28



All of Me
望楼