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そして現在、当人の言葉通り買い足された日用品を机の抽斗に一旦詰め込んで、初仕事への緊張を抑え込んでいる最中である。外国(とつくに)の人間と思しき怪しさ満点の浮浪者。悪を煮溶かして固め過ぎた様な兇悪極まりないマフィアの男。

「まあ、大丈夫大丈夫。何とかなるって」
「貴様の大丈夫は信用ならんからな」
「国木田君、酷くない……?」
「事実だ。……しかしまあ、此の程度の仕事、社の一員であれば出来て当然だ」
「まあたそうやって圧をかけるんだから、…………痛いッ!」
「そんな事より仕事をしろ、仕事を!!」

そして安心するには心許ない太宰さんの言葉。同行者がいる事だけが今唯一の救いだ。同行者の谷崎兄妹と今回の初仕事の依頼人である樋口さんに促されて、僕は慌てて探偵社の扉を潜り抜けた。



其れがほんの十五分、いやもう二十分は経つだろう。何が簡単な仕事だ、新人でも大丈夫だ!僕の足は恐怖に竦んでがたがたとみっともなく震えている。背後の薄暗いビルヂングの裏路地には、赤に塗れたナオミさんが横たわっている。呼吸は浅く、意識は無い。依頼人だと思っていた樋口さんは此れを罠と云った。僕等を処分すると云った。

細雪(ささめゆき)

谷崎さんの異能が、彼の姿を景色で塗り潰す。樋口さんの持つ二丁の銃から飛び出す弾丸が地面にぶつかっては無駄になる。僕はナオミさんの身体を隅に引き摺る。ほんの少しの血が付いただけで手まで震えてきて、いや、駄目だ。目の前で樋口さんの身体がびくりと、引き攣るように動きを止める。

「大外れだ」
「……、……ッぐ!」

雪の子が舞って現れたのは背後から樋口さんの首を掴み上げる、怒りに満ちた谷崎さんの姿。ぎりぎりと力を込めていくにつれて苦しむ樋口さんから目を逸らせずにいると。

−−其れはすっと耳に入ってきた。

ゴホ、ゴホ。

重みのある咳声。怒りに僅かな恐怖を滲ませ、ずるりと崩れ落ちた谷崎さんの背後から。

「−−−−死を惧れよ」
「あ、あっ……」

まるで形を得た「死」の様な。ぐり、と丸い黒目が僕を見た。樋口さんの安心した様な声が其れの名を呼ぶ。

芥川(あくたがわ)先輩!!」

芥川。嫌と云う程聞き覚えのある名前だった。国木田さんに見せられた写真の、男の名前。……真っ正面を見据えていた其の男も、確かに此の、泥沼の様な仄暗い目をしていたっけ。乾いた音がして、樋口さんが仰け反った。

自分の為にも地に伏した二人の為にも、僕は何とかして、此奴を退けなくてはならない。
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