誰しも大人になる

要が修行に出てから数ヶ月。私は存外、変わらずにやっていけている。椿に頑丈って言われるだけはあるなと笑った。

「名前ちゃん、なに笑ってるの?」
「んー、弥といるの楽しいなと思って」
「嘘だよ、かなかなのことでしょ?」

誤魔化しが一瞬で見破られて苦笑した。最近この子はとても鋭い。それに背も伸びた。でもあざといのは相変わらずだし、まだまだ可愛い弟だ。

「バレたか・・・それじゃあお詫びに何か奢ってあげよう。何がいい?肉まん?クレープ?」
「本当!?じゃあ、クレープ!いちごのやつ!」
「おし!じゃあ行こっか」

宣言通りいちごクレープを食べる様子は年相応だな。頬に付いたクリームを取ってあげると嬉しそうに笑うのが可愛い。それにしても大きくなったな。他の弟達もそうだけど、末っ子の弥の成長が一番著しい。

「あ、名前ちゃん。僕、お願いがあるんだ」
「お願いって・・・私に?」
「うん、これ見て」

ガサガサと鞄を漁ったかと思えば、一枚の紙を見せられる。二つ折りにされたそれを開く−−−模試の成績表らしい。学生時代の椿や侑介に比べたら全然いい成績だ。

「なるほど、数学か」
「そうなの、教えてください!僕、頑張って勉強して社長になりたいの!!」
「社長?なんでまた・・・そっか、弥も参加者だった」

頭に浮かんだのは、あのオッズ表。光の見立てでは弥にも数字が振られていた。配当率は一番高かったな。この分だと、それも当てにならない。きょとんとした顔をする弥の頭を撫でる。

「分かった、教えてあげる。都合がいいときにメールするね、私の家でやろう。おやつ用意しておくから」
「うん!!」

−−−−−

朝日奈家のリビングで、雅臣兄さんに差し出された便箋を見つめた。要から私宛ての手紙だと言う。ずっと近くにいたから手紙なんて貰ったのは初めてで、なんだか新鮮。その場で開くと整った文字が並んでいた。

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名前へ
元気にしてる?本音を言えば、元気じゃないと少し嬉しい。それは俺がいなくて寂しいってことだからね。俺も寂しいけど、まだ暫くこっちにいようと思う。でも浮気はしないから安心して。
あと、一つお願いがある。彼女のことだ。名前は鋭いから気づいてるだろうけど、兄弟の何人かが、彼女に本気で恋をしてる。本当は俺の役目なんだけど、今は傍にいないから、どうか導いてあげてほしい。何かあったら教えて。
それじゃあまた、手紙を出すよ。返事をくれると嬉しいけど、会いたくなっちゃうから可愛いことは書かないでね。
                      要
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顔を上げて、小さく息を吐いた。手紙を持つ指に力が入る。私宛の手紙に彼女のことを書かないで、なんて言えない。己の心の狭さに嫌気がさす。私だって絵麻ちゃんのことは、弟達と同じ様に大切に思っている。でもやっぱり相手が女の子だから、恋愛を切り離さずにはいられない。くしゃりと前髪を掻き上げた。そのとき、携帯が鳴る。

「兄さん、手紙ありがとう。返事が書けたら渡すね。ちょっと電話きちゃったから、また!」
「ああ、名前!訊きたいことが・・・行っちゃった」

表示された名前に、思わずリビングを出てしまった。誰かと鉢合わせしないか注意を払いながら、階段を下りる。踊り場で通話ボタンを押した。

「もしもし・・・祈織?」
「久しぶり、姉さん。元気そうでよかった」
「まあ身体は元気だよ。電話をかけてくるなんて思わなかった。何かあった?」
「・・・今夜、空いてるかな?会いたいんだ」

2階まで下りて来て、足を止めた。要の手紙でちょっぴり沈んだ心を、見透かしたようなタイミング。一瞬下りた沈黙を、祈織は悪い方に捉えたらしい。

「予定があるならいいよ。また後で、
「ないない!ちょっと驚いちゃって・・・いいよ、どこで待ち合わせする?」

慌てて否定すると、クスクスと祈織が笑うから恥ずかしくなった。この子は私に対してだけ、時々からかったりしてくる。それが少し嬉しい。

結局、駅前で待ち合わせをすることになった。一度家に戻って軽く身支度しながら、自然と笑みが溢れた。会うのは冬以来で心が躍る。指定された時間の5分前駅に着いた。祈織はまだいないらしい。ぼーっと人の波を見つめていると、肩を叩かれる。

「お待たせ」
「いお・・・・り?え、本物なの?」
「うん、どこかおかしい?」
「逆よ。立派になって、お姉ちゃん嬉しい」

祈織は、足の長さを強調するような黒のパンツに、白いシャツを着ていた。首にはあのクロスがかかっている。シンプルな装いはらしいなと思った。ここが日本だと忘れて抱き着いた私を、彼は難なく受け止めた。見た目は細いのに、触れた腕は小さな男の子のものではない。なんだか祈織が遠くに行ってしまったみたいで、少し切なくなった。

「行こう、お店を予約してあるから」

手を取る動作はあまりに自然。子どもの頃、私がこの子にしていたように。その手の温かさで、何故か要を思い出して涙が出そうになる。連れて来られたお店に口が半開きになってしまう。隣にいるのが要なんじゃないかと思った。そうか、祈織はもう大人なんだな。

「一度しか来たことないんだけど、とても美味しいんだ。今日は僕がご馳走するから、遠慮せず食べて」
「本当!?・・・・ごめん、はしゃぎ過ぎた。あと私が払うから。前に奢るって言ったし」
「ううん。僕がそうしたいんだ、お願い」

祈織が笑う度に思う−−−消えてしまいそうだって。堪らず腕を伸ばして頬を撫でると、安心させるように手を重ねられた。祈織はちゃんとここに在る。

「電話で言ってたね、身体は・・・元気だって・・・要兄さんは、一体何をしてるのかな?」

乾杯して口に含んだワインを吐き出しそうになる。こんなオシャレな店で失態は犯せない。なんとか飲み込んで息を整えた。

「要は今、修行に出ててマンションにいないから」
「それだけじゃないよね?姉さんは、その程度でそんな顔したりしない」
「祈織って・・・・他人と関わるの嫌なのかと思ってたんだけど、違った?どうして踏み込んでくるの?」
「姉さんは特別だから」

淀みのない声。特別ってなんだろう。一口に特別といっても色々あるからな。真意を探るように見つめると祈織は穏やかに微笑む。今日はよく笑うな。

「姉さんの言う通り、僕はあまり他人に関心がない。それこそ兄弟に対してですら、ね」
「私には関心があるの?」
「関心、とは違うかな。もっと深い感情だよ。誰よりも幸せになってほしい。今だから言うけど・・・もしも要兄さんがいなかったら、僕は姉さんをひとりの女性として愛していたと思う」

驚いた。でも、祈織が言うのだから本当なんだろう。それに"要がいなかったら"ということは、仮の話だ。私の心の一番深い所−−−そこには、要以外の誰かが住まう場所はない。これだけは変わることはない、言わば真理。波打った心がそれだけであっという間に凪いでいく。

「ふふ、やっぱり凄いな。もっと驚くと思ったのに。確かにさっきのは仮の話だけど、姉さんのことは本当に愛してるよ」
「私も貴方が大切・・・っ、ねえ、祈織」

私は弱くて醜悪な人間なのかもしれない。要が隣にいないだけで、心が揺れる。案外大丈夫とか、嘘。要があの子を、妹として大切に思うことにすら嫉妬を覚える。自分はこんな風に貴方と食事をしているのに、おかしい。

「真っ直ぐ立っていられないような女、要はきっと嫌いだよね。でもさ・・・・愛してもらうために自分を偽るなんて器用なこと、できない。私は、強くなんてない。すぐに嫉妬するし、余裕なんて少しもない」

そして、卑怯だ。『そんなことない』、『姉さんは強くて立派だ』だと言ってほしくて、いつも私を肯定してくれる祈織に縋った。今、絵麻ちゃんあのこより私の味方でいてくれる人間はどれくらい居るだろう。自棄になった心に思わず笑う。馬鹿じゃないの、そもそもスタートラインにすら立てやしない。

「姉さんはそのままでいい」
「・・・祈織って、私に甘いよね」
「そうかな?ただの好奇心だよ」

思ったより軽い口調は祈織らしくない。顔を上げて、優しい表情に戸惑う。ていうか、好奇心って何?祈織にも好奇心なんてあるのか、なんて失礼なことを考えながら見返せば、その口元は弧を描く。

「姉さんが嫉妬してるのを見て、要兄さんがどんな顔するのか興味がある」
「えー、私を餌に使うつもり?」
「怒った?」

何を言い出すかと思ったら、意外に怖いことを・・・。もし、この嫉妬心おもいを言葉にしたら、要はなんて言うだろう。期待と不安が3:7くらいってところかな。

「要兄さんって昔から目立っていたし、場も弁えず女の人に声をかけていたけど・・・姉さんが嫉妬を表に出すのって見たことないから、きっと喜ぶと思うよ」
「そうだといいけど・・・ねえ、泣かされたらまた怒ってくれる?」

笑って尋ねれば、少し目を見開いた珍しい顔。要のことを考えるときだけ、私の心は浮いたり沈んだり忙しい。普段は浮き沈みが少ない分、耐性がなくて酔いやすいのかもしれない。

「言ったはずだよ、味方だって。それに幸せになってくれないと、僕の道も暗くなるからね」
「うわ、それは卑怯じゃない?」

笑ったあと、口に入れた食後のケーキが甘い。私は、たったそれだけで前向きになれるような女。これって長所なのかな。でも悩んでたりしたら、また「らしくない」って椿達に言われそうだし。

「(ねえ、要。誰といても、どこにいても、貴方のことを思い出す。我儘で嫉妬ばかり、それでも傍にいたいよ。たまには素直に伝えてみようかな)」

心で尋ねてみたけど、もちろん返事はなかった。ケーキを食べ終わると、目の前にスッと封筒を置かれる。

「なに?」
「開けてみて」

言われるままに開けると、中から出てきたのは雑誌。しかも男性誌だ。意味が分からない。向かいから祈織の腕が伸びてきて、あるページを開く。声が漏れた。そこには私のよく知る顔がある、今目の前にいる弟の顔だ。

「ここ数年で一番の驚きなんだけど」
「大きく取り上げられたのは初めてなんだ。まだ手探りだけど、なんとかやっていけそう」
「これ、貰ってもいい?」

胸に抱き締めて尋ねると「もちろん」と返事がある。祈織は前に進んでいる。それを要に伝えてあげたいけど、やめよう。言いたくなったらきっと、この子は自分で言うだろうから。

「皆は、このこと知ってるの?」
「知らないと思う。それに僕から言うつもりもない」
「そっか、じゃあ内緒だね」

そう言うと、祈織は眩しそうに目を細めた。もう一度開くと、確かに数ページの特集が組まれている。マンションを出て数ヶ月しか経っていないのに、さすがだな。それにしても、嬉しいものだ。

「姉さんには僕のファンでいてほしい」
「私は、祈織が生まれたときから祈織のファンだよ」
「ふふ、そっか」

帰り道、祈織は家まで送ってくれた。今度いつ会えるのか分からないけど、そんなに先のことではない気がする。目の前に佇む弟に向かって、手を伸ばす。

「少し、しゃがんで」

不思議そうな顔で言う通りにしてくれる。優しく頭を抱き締めて、頭頂部にキスをした。身体を強張らせるから少し笑ってしまう。愛しい、私の弟。

「大好きよ、祈織。あと、ありがとう」
「・・・・どういたしまして。また連絡するよ。おやすみ、姉さん」

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とヒロインの関係が好き