しかし、私も社会人。就職して初めての誕生日が元彼の誕生日になってしまったのは苦い思い出。2年振りに再会してからは4度目の誕生日になる。1度目は欲しいと言っていた万年筆と栞を贈り、その栞が光の著書に挟まれているのを見て衝撃を受けた。2度目は要が修行に出ていたから手紙越しでしか祝えなくて、3度目は私の心に余裕がなかった。だから、今年こそは要に似合うものを贈りたい。そう思って5月初旬のある日、私は都内の時計店を訪れていた。物は決まったのに種類が多すぎて途方に暮れる。
「ご主人への贈り物ですか?」
自分にかけられた言葉だと認識するまで数秒。ショーウィンドウを挟んだ場所から動かない人影に、慌てて顔を上げる。営業スマイル全開だったら突っぱねていたかもしれないけれど、悔しいことに華やかな笑顔の美人がそこにいた。少し絵麻ちゃんに似ていて警戒心が緩む。恋人の期間が長すぎるからか"ご主人"という単語に狼狽えてしまう。しかし目の前の女性はそんな事情は知らないのだから、指輪を見て判断したに違いない。このまま悩んでいても決められそうにないし、第三者の意見も取り入れてみよう。
「実は来月に結婚するんです」
「わあ、そうなんですね。おめでとうございます!」
「ありがとうございます。今月末の彼の誕生日に腕時計をプレゼントしようと思うんですけど、私よりもお洒落な人なので、こういった物を贈ったことがないんです。それでどうにも迷ってしまって・・・」
朝日奈兄弟や父さん以外と要のことを話すのは、なんだか新鮮だ。年齢も仕事も違うから共通の友人はいない。まあ私自身あまり交友関係が広い方ではないから当然かもしれない。話を聞いた店員が私の前にいくつか並べて見せてくれた。その中にはさっき店内を見回って、いいなと思った時計もある。一方で、絶対これはないと思う物もあって笑いそうになった。その人のことを知らない人間が選ぶと、こうも面白い結果になるとは。
「まずは、形からお決めになってみてはいかがでしょう。レザーやメタルブレスなどのオーソドックスなタイプは大人の男性に人気です。スポーツをする方であればこちら、あとは・・・レザータイプでも穴に通さずに済むバックルタイプは便利ですよ」
文字盤はデジタルじゃない物がいい。Tシャツでさえほとんど着ない男にスポーツタイプはない。確か、レザータイプとメタルブレスは一つずつ持っていたはずだ。要が急いでいるところは滅多に見ないけれど、これからはサラリーマンになるのだから素早く着けられる物、尚且つ映える方がいい。
「これよりも落ち着いた色味の物ってありますか?黒とか茶色とか。ああでも、少し明るい色の方がいいかも……」
「ふふっ、きっと素敵な旦那さんなんですね」
「えっと・・・私、そんな顔してました?」
指を差し尋ねてから、手を引っ込める。そんな私を見て美人の店員さんがクスクスと笑う。綺麗な人は笑い方まで上品だ。たぶん顔に出ていたのだろう。微笑ましげにそう言われた。恥ずかしくなって口元を覆う。でも馬鹿にされた感じは全くせず、心が温かくなる言い方だった。こういう人だから接客業に向いているに違いない。
「ちなみに、普段はフォーマルな服装をなさることが多い方ですか?」
「その・・・予定です」
「予定?」
思わず言葉に詰まる。そうですと言えなかった。だって今はまだ僧侶だ。あくまでサラリーマンになる
「あー、えっとですね。転職みたいなもので・・・今とは別の仕事に就く予定なんです。それがアパレル関係で、色々な人と関わるのでスーツを着る場面は多いと思います」
「でしたら、先程お客様が仰ったように、少し明るめの色でもいいかもしれません。こちらとか、あとは逆に服装を明色にするなら紺系なんかもオススメですね」
まるで自分のことのように悩んでくれている。それを見て、この仕事が好きなんだなぁと微笑ましくなった。ずれそうになった思考を戻し、目の前に置かれた2つの腕時計に視線を落とす。キャメルと、もう一つは紺色だ。
「確かに割と派手な方ではあります・・・全体的に」
要はなんと言うか、何を着ていても目立つ。顔が良いから尚更。遠い目で返すと、店員さんも苦笑い。それにしても、成程なと関心する。明るめのコーディネートなら、紺色の腕時計はアクセントになるだろう。私はお洒落に興味がないわけではないけれど、疎くなければいいかなと思っている程度だ。男性である光や琉生にアドバイスを請うことも多い。だからか、そんな事にすら言われないと気付けないとは、女失格かもしれない。
「決めました。バックル付きで紺色のやつにします」
「かしこまりました。こちらより淡い色もございますが、そちらもお見せいたしましょうか?」
少し濃すぎるかなと感じていたので、自然に頷く。それに嫌な顔ひとつせず、もう一つ取り出して見せてくれる。一番しっくりきた感じがして、思わず声が出そうになった。
「これにします!」
訂正、声が出た。伊達に恋人をやってきてはいない。絶対に似合う。店員さんはふふっと笑い、会計に案内してくれる。最初から最後まで気持ちよく買い物ができた。彼女のお陰だ。会計を済ませ、綺麗にラッピングされた紙袋を受け取る。
「本当にありがとうございました」
「いいえ。プレゼント、喜んでいただけるといいですね」
頷いてもう一度お礼を言ってから、晴れやかな気持ちで店を出る。喜んでくれるといい。渡したときの要の顔を想像したら、胸が熱を持った。大事なのは気持ちだと分かっているけれど、いつもプレゼントしてもらってばかりだから、何か贈れるのは嬉しい。そして、5月28日。その日は水曜日だった。昔から基本的にデートするのは金曜日か土日だったけれど、今回は別、私の方から会いたいと伝えた。誕生日だからとは言わなくても、要のことだから気付くだろう。普通に仕事をして、夕方になる。普通にと言ったのは間違いかもしれない。浮かれすぎていた自覚はある。同じ書類を2回印刷してしまったし、後で見返したら作成したデータに誤字があった。何年付き合っているんだと椿あたりにはツッコまれそうだけれど、楽しみなのだから許してほしい。ところが、そのまま都合良くはいかなかった。16時、携帯に連絡が入る。
『ごめん、今日は会えそうにない』
なんでよ。廊下で通知を読んで、そう呟いた。はっとして口を噤む。目の前にいたら、そう責めてしまったかもしれない。だけど、そこは大人だ。社会人になれば、予想外の事態が起きるなんて日常茶飯事で、思い通りいくことの方が少ない。私は要と、一番好きな人と結ばれるのだから、贅沢ばかり言っていられない。その事実こそが、私にとっての最大でなきゃいけない。なのにひとつ叶う度に、もっともっとと、貪欲になっていく。私も要に与えられる側になりたいのに、上手くいかない。了解と、一言だけ返信して、画面を落とす。
定時であがるつもりで仕事をしていたから、悲しいことに帰るしかなくなった。やる事がないのに残るわけにもいかない。もう5月も終わりだ。仕事終わりでも空は明るい。明るいほどに、憂鬱になる。暗い思考に飲まれそうになって、慌てて頭を振った。止めだ。普通の平日だと思えばいい。早く帰れたのだから、好きなことをしよう。プレゼントは、次会った時に渡せばいい。ちゃんと「おめでとう」と言えるように、今日全ての憂鬱を振り払おう。そうだ、ずっと観たいと思っていた映画がある。あのカフェの新メニューもまだ食べていない。僅かに上向きになった気持ちで、ひとまず街に繰り出した。
「空いてる」
映画館は驚くくらい人がいなかった。まあ、水曜日の18時だから当然だろう。皆まだ働いているか、早く帰って明日のための英気を養っているか、あるいは大切な誰かと過ごしている頃だ。チケットを購入して、席に着く。恋愛ものではないからか、カップルは少ない。私のようにひとりで来ている人も結構いる。もしかしたら彼らも、急に恋人と過ごせなくなった仲間かもしれない。なんて、大きなお世話だ。映画は面白かった。俳優陣の演技も素晴らしく、かなり入り込めた気がする。時刻は20時近い。折角だ、あのカフェで夕食を済ませよう。新メニューのパスタは絶品で、デザートに頼んだアップルパイもアイスが乗っていて最高だった。自然と顔が綻ぶ。些か高カロリーな気がしたけれど、あとでランニングするからと言い訳する。
「さてと、帰って寝よ」
カフェを出て、伸びをして呟く。私の独り言を気にする人はいない。大方いつも通りに戻った心で、帰路に就く。手に持った紙袋の重みが、今は心地良い。そこでやっと、あの返信はあまりに素っ気なかったかもしれないと不安に思った。明らかに不機嫌が文面に出ていた。今からでも謝った方がいいだろうか。立ち止まって、携帯の画面を見つめる。要からはあれから特に返信はない。忙しいのだろうし、やめておこう。再び歩き出す。否、一歩踏み出したところで我が目を疑った。
「要!?」
「お帰り」
「え、なんで?いや、お帰りって私の台詞じゃ・・・そんなことより仕事は?」
向こうから歩いて来て、普通にそんなこと言われても「ただいま」と返せるわけない。駆け寄って覗き込むと、微笑み返される。それだけで、もういいやと思ってしまった。今、目の前に要がいるという事実だけでいい。
「終わったよ。今日は本当にごめん。今度埋め合わせを、
「そんなのいいから、家まで一緒に帰ってくれる?」
好きで一緒に過ごせなかったわけじゃないって、分かってる。顔を見れば、会いたかったのが私だけでないことも伝わってくる。流れるように手を握って尋ねると、要は一瞬目を見開くと柔らかく笑った。心臓を持っていかれそうになっている隙に、腕を引かれて倒れ込む。おまけに腰に手を回してくるから、抗議しようと上を向いたのがいけなかった。
「ちょっと危なっ、ん!?」
ナチュラルに唇同士が触れ合う。まるで撫でるような、触れるだけのキス。一瞬の出来事に呆然としていると、要が得意げに笑うから、怒る気もなくなってしまう。
「誕生日プレゼント、ご馳走様。本当は全部欲しいけどね」
「・・・あのね、言っとくけど、誕生日じゃなくたってあげるわよ。それに、プレゼントなら別に用意してあります」
こうして触れ合うのが当たり前なことだとは思わない。だって要が隣にいることは奇跡なのだ。でも、特別な日じゃなくたって求めてほしい。貴方が望むならいつだって応えてみせるから。ずいと持っていた袋を胸板に押し付ける。
「初めての試みだし、高級品でもないけど」
「関係ないよ。君が俺のために選んでくれた、それだけでどんな物より特別だから−−−ありがとう」
今度は頭ごと引き寄せられて、抱き締めてくる。この男は、ここが外だと忘れているのではないだろうか。とても離してくれそうにない。いつだってあげるとは言ったけれど、せめて場所は選んでほしい。まあ、人通りはないし、今日くらいはいいか。擦り寄るように背中に腕を回すと、押し当てた胸の鼓動が速くて、笑ってしまった。
「要でもドキドキするんだ」
「名前といるんだから当然だよ」
「ふふ、私と同じね。じゃ、帰りましょう」
ずっと傍にいてほしい。私だけにドキドキしてほしい。要のようにさらりと言葉にすることは難しいけれど、ちゃんと忘れずに伝えるから。だから、どうか永遠に、この幸せが続きますように。
「あ、言い忘れるところだった。要、誕生日おめでとう」