要と暮らし始めてから2年と半年。ずっと一緒に過ごしていた父さんと離れるのはやっぱり寂しかったけれど、いい大人だし口にはしなかった。結局、なんだかんだで楽しく生きているのだから、私は頑丈なのだろう。そんなある日の夜、お風呂から上がって髪を拭いていると、携帯に通知が入った。表示された名前に思わず「え!?」と声が漏れてしまう。どうやらリビングにいる要には聞こえていないようだ。別に隠すことでもないけれど、相手があの子だと少し気を遣う。連絡の相手は祈織だ。ここ最近は忙しいらしく、数ヶ月振りのやり取りになる。つい口角が上がってしまう。軽い挨拶のあと、今度ご飯に行かないかと記されていた。意気揚々と了承の旨を綴る。
「話したいこと、沢山あるな」
ひとり呟いて、ドライヤーを取り出した。鏡に映る自分の上機嫌さに反省しながら、髪を乾かす。軽く整えてバスルームを出た。ホットミルクでも飲もうと棚を開けて、要にも声をかける。
「要も何か飲む?」
「いや、寝る前だしやめておくよ」
「そう」
軽く返事をして、牛乳をコップに注ぐ。今日は仕事を頑張ったし、蜂蜜も入れてしまおうか。そんなことを考えていると、背後から抱きしめられる。誰に、なんて決まっている。今さら恥ずかしがるような仲ではない。そっとお腹に回った腕に触れて、身を委ねた。
「なんかいい事あった?」
「・・・目敏い。なんで分かるの?」
「いつも名前を見てるからかな」
「まったく、調子いいんだから。実はさっき、祈織から連絡がきたの。ご飯に行かないかって」
その名を口にした瞬間、背中越しに要が身体を強ばらせるのが分かる。まだ怯えているのだろうか。そう思うと同時に、確信している自分がいる。遠くない未来、またあの頃みたいに笑って話せる日が必ず来る。そっと身体を反転させて、向かい合い手を握った。
「大きな図体してるのに臆病ね。でもそういう所、大好きよ。それは貴方の優しさの証明。怖いのは、大切だからだもの。まだ歩けないなら、私が支えてあげる」
「はぁ、またそういう事を・・・頼むからこれ以上男前にならないでよ。俺の出番なくなりそう」
「まぁ確かに、要は男前とは少し違うかも」
「え〜。これでも力持ちなんだけどなぁ」
「ところで、大好きの返事がまだなんだけど」
そう言いながら覗き込めば、少し瞳を見開いて要は笑う。ああ、好きだな。毎日そう思う。握っていた手が解かれ、腰に回った。引き寄せられるのを感じながら見つめ返す。
「愛してるよ」
私もだと伝える代わりにキスをした。そっと唇を離して笑い合う。この一瞬を思い出すだけで、どんな辛い事も乗り越えられる気がする。私も大概だなと思いながら、広い背中に手を回した。
それから2週間後の土曜日。今日は祈織との約束の日だ。首元には、3年前のクリスマスにあの子に貰ったネックレスが光っている。昨日、指定された店をネットで少し調べてみた。完全予約制のフランス料理店らしい。要と長い間一緒にいるから、美味しい料理は沢山食べてきた。だけど、相手が弟だとなんだか不思議な感じがする。なにせ生まれた時から知っているのだ。小さかった祈織にエスコートされるのはムズムズしてしまう。名前を告げると、席に案内される。
「祈織!」
つい大きな声を出してしまい、咄嗟に口を塞ぐ。はしゃぎ過ぎてるのが丸分かりだ。そんな私を見て、祈織は嬉しそうに微笑む。自分よりずっと落ち着いている弟に、一層恥ずかしくなった。椅子に座ってから改めて顔を見て、安心する。
「元気そうね」
「姉さんも。また綺麗になった」
「・・・ドキッとするから勘弁して」
「本気で言ったからね」
姉の欲目と言われてしまうかもしれないけれど、祈織は眉目秀麗だ。100人いたら100人が肯定すると思う。そんな相手に「綺麗になった」なんて言われたら、そりゃ胸が鳴るに決まっている。不可抗力だ。たとえ既婚者だろうと関係ない。不満を隠さず本音を言えば、祈織はクスクスと笑った。
「悔しいな」
微笑んだままそう言われる。予想外の言葉だ。意味が分からなくて小首を傾げると、祈織は一度瞬きをしてから口を開く。その瞳が僅かに切なげに揺れるのを見て、私の心も音を立てた。この子には笑っていほしいと思っているし、私は祈織の笑顔が好きだ。だけど、ふとした時に見せるどこか憂いを帯びた表情も、らしいなと感じてしまう。
「姉さんが変わっていく理由はいつも要兄さんだ」
思いも寄らないことを言われて、瞬きを繰り返すしかできない。私が綺麗になったというのが本当だとすれば、それは確かに要が理由だろう。でもまさか、祈織がこんな風に嫉妬心を表に出す日が来るなんて思いもしなかった。こういう場面で困るより嬉しいと感じてしまうのは如何なものか。無意識に口元が緩むのが分かる。なんとか平常心を保とうと努力したが、とても無理そうだった。
「ごめん、ちょっと嬉しい」
「少しは困ってくれるかと思ったのに残念」
「あれ、もしかして演技?」
「まさか。僕は姉さんの前で自分を偽ることはないよ」
怪訝そうに見返すと、肩を竦めて反論される。端から見れば、他愛ない会話に感じるだろう。それでも私にはこの時間が宝物だ。そして、要も居たなら、と思わずにはいられない。ふたりが昔みたいに兄弟らしく並んでいる光景を、願ってしまう。そんなのは私の我儘だし、祈織を困らせるだけ。悟られたらいけない。誤魔化すように笑い返した。互いの近況を話しているうちに、料理が運ばれてくる。前菜からデザートまで全部美味しくて、さっきの小さな胸の痛みが嘘みたいに心が息を吹き返した。「相変わらず食い意地が張ってるな」と、ここには居ないはずの光の声が聞こえた気がする。
「喜んでもらえたみたいでよかった」
「すごく美味しかった、特にスープ」
「やっぱり姉さんは変わらないな」
「・・・食いしん坊ってこと?それにさっきは綺麗なったって言ってくれたじゃない」
光や椿に言われるなら分かる。しかし祈織に食い意地が張った姉だと認識されるのは、些か複雑だ。まぁ、この子に限らず弟達の前で情けない姿は見せたくない。雅臣兄さんや右京兄さんとまではいかなくても、頼れる姉でありたいのだ。
「見目の話じゃなくて、心の話だよ。強くて清らかで、昔から少しも変わってない」
「それは買い被り。聖人君子じゃないんだから…私だって心で酷い言葉を吐くことだってあるよ」
「そうなんだ。例えばどんな?」
「え・・・うーん、そうだなぁ。ガムを踏ん付けた時とか?この野郎って思うもん」
「っ、ふふ。なんだ、そんな事か」
祈織が笑う。ただそれだけなら、こんなに驚かなかった。不意打ちだ。だってこの子は昔から冷静で達観していた。こんな風に顔をくしゃっとさせるところは初めて見る。なんでか泣きたくなった。と同時に、真っ先に要に伝えたくなる。帰ったら絶対に話して聞かせよう、今日この子がどんな表情を見せたのかを。
「姉さん」
「なに?」
「今日は報告があるんだ。実はね…母さんの会社からオファーがあって、引き受けることにした」
「え!?美和さんの?どんな内容・・・あー、無関係な私が詳しく訊いたら駄目だよね」
守秘義務というものがある。いくら親族だからって、公式に発表されていないものを、ペラペラ話すことはできないだろう。少し眉を下げる祈織に、笑い返す。そんな顔しないでほしい。
「詳細は話せないけど、モデルとして起用したいって。母さんのことだから、僕が息子だからオファーしたってわけじゃないと思うけど…精一杯やってみたい」
やけに真剣な眼差しだ。文武両道で何事も完璧に熟す祈織にしては珍しい。やっぱり実の母親の会社から仕事を依頼されるというのは、身が引き締まるものなのだろう。それともまさか知っているだろうか、要が美和さんの秘書をしていることを。後を継ぐことを決めてから、本格的に勉強しているのを傍で見てきた。今では耳にピアスは無いし、髪も金から茶色になった。とても忙しそうで時々不安になるけれど要のことだ、心配はないと思う。それに今は一緒に住んでいるから、電話やメールだけじゃ見落としてしまう変化にも気付くことができる。実際、ひどく疲れた顔をしている時は率先して家事を引き受けて、早くベッドに入るように促している。
一瞬の思考を終えて、祈織の瞳を見つめ返す。雅臣兄さんの話では、この子は全くマンションには帰っていないらしい。つまり、兄弟達とも関わっていないということだ。琉生には時々メイクを頼んでいるらしいけれど、祈織が彼らの近況を尋ねるとも思えない。だからきっと要のことも知らないのだろう。それなら、私から敢えて伝えることもしない。そう結論を出してから、口を開いた。
「うん、頑張って。祈織なら絶対大丈夫よ・・・・・なに、どうかした?」
「ううん、
「吃驚。祈織でもプレッシャーなんて感じるの?」
無意識に尋ねてしまう。今のはちょっと失礼だったかもしれない。でもまあ、紛れもなく本心だ。祈織は幼い頃から兄さん達の手を煩わせることなんて一度もなくて、期待には結果で応えてきた。そんなこの子がプレッシャーだなんて、本当だろうか。私の問いに、祈織は困ったように笑って呟いた。
「特別な人の期待には、誠意を持って応えたいから。姉さんにだけは失望されたくない」
視線は交わらない。綺麗な瞳が迷うように揺れている。ああ、そうだった。この子は昔から頼るのが苦手なんだ。人より才能に恵まれていたから、誰かに縋る機会は殆どなくて、そのまま大人になった。なんだか無性に遣る瀬無い。私の愛を重荷だと思わないで−−−なんて、また自分本位な願いが浮かんでくる。
「あのね、祈織。私が貴方に失望することなんて有り得ないわ。どんなに情けなく転んだって、世界中が貴方を否定したって、私は貴方を見限ったりしない。二度と目を逸らさないって決めてるの。姉の義務じゃない、私の意思。だからこれは、たとえ貴方に不要だと言われても、やめられない……ごめんね」
私はどうしたってきっと、祈織を案じることを止めることはできない。もしもこの子が、他人の助けを求める時が来たとして、その相手は私であってほしいと願っている。だけど、そんなことを言葉にできるはずもない。どちらかを選べるわけはないのだ。例えば要との待ち合わせの途中で祈織に何か起きたら、私はこの子の所に走るだろう。でももし心が落ち込んでいる時に今日みたいに祈織に誘われたとしたら、きっと断ってしまう。そんな時、私が傍にいたいと思うのはこの世でひとりだけ。この子のことを一番に考えられないのに必要としてほしいだなんて、とんだ我儘だと思う。
「謝らないで。その思いは僕の原動力だ。だからこそ、生きていける。どうか不要だなんて思わないで」
いつだって祈織はこうして私を肯定してくれるから、また甘えてしまう。愛情を押し付けてしまう。それが嫌なはずなのに、どうしようもなく嬉しい。泣くのは卑怯な気がして、下を向いて瞼を閉じた。一度だけ深呼吸をしてから目を開けると、もう視界は潤んでいない。
────笑って。
貴方の言葉も私の原動力だと、伝わっているといい。心の隅でもいい。ふと暗い気持ちになった時、ほんの一瞬でも光になれるなら、それだけで充分だ。貴方は私の人生で欠けてはならない存在なのだと、どうか知っていてほしい。