夏の夜、君と

「やっぱり日をずらした方がよかったと思う」
「あはは・・・ごめん」

眉を下げて肩を落とす長男をこれ以上責める気にはならなかった。ベンチに並んで腰かけて人の波を眺める。とある夏の夜、私は雅臣兄さんと二人で夏祭りに来ていた。経緯はこうだ。一昨年の夏祭りで浴衣を着た話をしたら、要が俺も見たいと言い出した。着て見せるくらいならよかったけれど、まさかこうして祭りに出向くことになるとは予想外。要の上の人に挨拶をするからと、兄さんが付いて来てくれたまではいい。ところが要と会う前に人混みに酔ってしまったと言うわけだ。

「ここにいて、私ひとりで会ってくる」
「それは絶対に駄目だよ、変な人にでも絡まれたら大変じゃないか」
「心配しすぎ。人も多いし、軽く遇らうから大丈夫。何かあったら連絡するね」

引き止めようとする兄さんに手を振って、足速に歩き出す。こうなったら、ちょっと顔を出して帰るしかない。はしゃぐ人達の間を縫うように進む。もしかしたら、すれ違った中に要のお客もいるかもしれない。例えば、あそこにいる美人とか、向こうに見えるご婦人も怪しい。できるだけ見ないように前だけを見据えていたら、人混みを抜けたところで横から現れた誰かにぶつかった。

「っ、すみません」
「あれ、君…なるほどね、カナさんが上機嫌だったのはこれが理由か」

妙に耳触りのいい声で楽しそうに言われる。見上げれば、銀髪の男性。整った顔立ちだけれど、イケメンならもう間に合っている。耳や腕にアクセサリーを着けて、要より何倍も胡散臭い。急いでいたことも忘れて観察していると、ずいと顔を近付けられてギョッとする。見たところ袈裟姿だし彼も僧侶なのだろうか。それにしても距離感がおかしい。腰に回ろうとする腕を掴んで制止する。いくら見目が整っているからって馴れ馴れしいにも程がある。

「不注意は謝ります。ですけど、少し離れてもらえませんか?」
「へえ、流石はカナさんの女だ。毅然としてていいね。俺はあの妹より君の方が断然タイプだな」

この人は私のことを知っている、どういう訳か絵麻ちゃんのことも。品定めをする様に私を見つめてくる。カナさんというのは恐らく要のことだろう。だとすると、同僚か。私は檀家ではないけれど、絶対にこの人にお布施はしない。嫌悪感を隠さず、距離を取った。こんなことに時間を費やす気はない、さっさと逃げないと。

「もし君を奪ったら、カナさんはどんな顔するかな」
「狂言に付き合う時間はないので、失礼します」

何を言い出すかと思えば、仮定から間違っている。私がこの人の物になるはずがない。無視して歩き出そうとすると、今度は腕を掴まれる。私より美人など沢山いるだろうに、一体何なのだろう。振り向き視線を絡ませて訳を理解する。

「貴方が興味があるのは、私個人じゃなくて"朝日奈要の恋人"ですよね」
「はは、ますます気に入った。ねえ、今からでも俺にしない?退屈はさせないと思うけど」
「ちーちゃん」
「……隆生さん」

増えた。この隙に逃げ出したい衝動に駆られたけれど現れた人を見て留まる。銀髪くんとは何かが違う。なんと言うか、存在感がある。深い声と柔和な表情に、妙に安心した。厄介そうに振り向きながら、銀髪くんは私から離れる。動きも大らかだし、声も大きくないのに従わざるを得ない雰囲気。少し同情してしまう。

「彼女は駄目だよ、カナちゃんを怒らせるだけじゃ済まない。それに、まずは自分のお客さんを満足させられるようにならないとね」
「はぁ…分かりました。とか言って、隆生さんが横取りするわけじゃないですよね?」
「カナちゃんは愛に関しても達人だから、俺が入る隙なんてないと思うけど。それに忘れてない?彼女はカナちゃんが愛した女性だよ。そう易々と許してくれるはずがない」

諭すような声に、不愉快そうに顔を歪めて銀髪くんは去って行く。なんだか肩の力が抜けて、小さく息を吐き出した。それも束の間、くるりと振り向いたその人に身構える。そんな私を優しく見下ろして笑った。

「大丈夫?悪い子じゃないんだけど、今回は少しおいたが過ぎたかな。俺は隆生、一応ここを取り仕切っている者だよ。カナちゃんとは仕事仲間でね、君のことは一方的に知っているんだ」
「助けていただきありがとうございました。要から聞いています。以前、修行の時に手引きしていただいた方ですよね。名字名前です、よろしくお願いします」

目を細めて私を見ると、彼−隆生さん−はふっと微笑んだ。何か可笑しなことを言っただろうか。真正面から見ると、顔に薄らと皺が刻まれている。一つの寺を仕切っているだけあって、要よりは年上らしい。類に漏れず派手な髪色だけど、軽薄さは感じない。初対面なのに、妙な安心感がある。全くタイプは違うのに、雅臣兄さんに似ている気がしたのはその所為か。

「君は、これからもずっとカナちゃんを悩ます存在なんだろうね」
「それは要も同じですよ。でもだからこそ、一緒にいることを選んだのだと思います」

今までずっと笑みを浮かべていた隆生さんの表情が崩れる。小首を傾げると、満足そうに頷かれた。要以上に考えが読めない。『何もかも敵わないと思ったのは、あの人だけだ』と要が言っていたのを思い出し、成程と今更ながら納得した。たぶん、生まれ持った才能だろう。カリスマ性と言えばいいか、努力で培えるものではない。

「お詫びと言ってはなんだけど、送るよ。悪い虫が付いたらカナちゃんに合わせる顔がないからね」

柔らかい口調なのに断れない。ちーちゃんより彼の方が何倍も怖そうだ。まあ確かに一緒にいれば、変な輩に絡まれることはないだろう。用心棒に使うにしては些か有能すぎる。階段脇で立ち止まっているからか、この人が目立つからか、視線が刺さる。ともかくさっさと要の所に行こう。

「お願いします」
「それじゃあ行こうか…おや、少しじっとしててもらえるかな。髪に何か付いてる」

長い指が私の髪に触れる。その時、小さく声が漏れた。階段の上、私の視線の先に要がいたからだ。驚いた顔をして、こっちを見ている。けれど視線は交わらない。ほんの数秒、隆生さんの手が離れていく。彼は私と向かい合っているから、要の存在に気が付いていない。私が何か言う前に凄いスピードで階段を降りて来る。焦っている様子に戸惑っていると、ガシッと要が隆生さんの肩を掴んだ。

「っ、隆生さん…どうして」
「カナちゃん。そんなに大切にしてるなら、迎えに行ってあげなきゃ攫われちゃうよ」
「そうですね…俺が甘かったみたいです」
「彼女、ちーちゃんにもナンパされてたよ」

弾けるように私を見るから、肩を揺らしてしまう。別に私から声をかけたわけではないけれど、あんなに近付かれたのは不注意だった。隆生さんは、そんな要の様子を興味深そうに見つめて笑う。

「カナちゃんの恋人ってだけで、ここでは有名人だ。嬉しいのは分かるけど、ちゃんと手を繋いでいないといけないね」
「はい」
「今日の仕事は終わりでしょ?折角だから二人で見て回るといい。それじゃあ、名前さん・・・また」

去って行く後ろ姿を並んで見送る。なんだかどっと疲れた。気が抜けて少しふらついた身体を、横から支えられる。大人しく腕に掴まると、予想以上に力を込めてくる。戸惑うように見上げれば仔犬みたいな瞳をするから、こっちが悪者みたいだ。

「ごめん…ちょっとガードが緩んじゃって」
「いや、俺の自業自得だよ。名前が悪いんじゃない。隆生さんの言う通り、浮かれてた」

効果音を付けるなら『しょぼん』が適切だろうか。対照的に吹き出す私を要がなんとも言えない表情で見つめてくる。付き合い始めた頃は、一生この人より優位には立てないのだろうと思っていた。ところが、ここ数年は私の方が案外優勢だ。争うようなことではないのになんだか嬉しく感じるあたり、私はいい性格をしているらしい。要が見たことない顔をする度に嬉しくなる。だってそれは、私だけが知っている貴方。

「はー、可笑しい。夏祭りで浮かれるなんて、高校生みたい。檀家さんに笑われるよ」
「褒め言葉として受け取っておくよ。浴衣、すごく似合ってる」
「ありがとう」

参ったとでも言うように笑って、頬を長い指で撫でられる。携帯を取り出してパシャリとその姿を写真に収めた。不思議そうに見つめられるけれど、構わず続ける。通話アプリから、雅臣兄さんにメッセージを送った。今撮った写真と共に「先に帰って」と文面を添える。すぐに既読がついて小躍りするウサギのスタンプが返ってきた。

「雅臣兄さんに連絡。心配してると思うから」
「どうせなら、もっと格好いい写真にしてよ」
「あれ、どこを切っても俺はいい男だって昔言ってなかった?」
「名前のそういう所は光の影響かな」

ニヤニヤしながら見つめ返せば、苦い顔。要は今も他の人に比べれば目立つ部類だろうけれど、昔に比べれば派手さは控えめになった気がする。いつだって私よりも一枚上手だったのに、こんな顔をさせられるようになるなんて思っていなかった。良い気分で左手を出して挑発してみる。

「エスコート、してくれるんでしょう?」

目を見開いて驚く表情に、また好きが募る。一拍おいてから要は柔らかく笑って、指を絡めた。優しく手を引かれて人並みの中を歩く。夏祭りを要と見て回るなんて、学生の頃以来だ。祭りならではの明るい雰囲気に胸が躍る。無意識に前に出そうになる私に、要が小さく笑う気配がした。

「今、笑ったでしょ」
「いやぁ、俺の奥さんは可愛いなと思ってさ」
「なっ!」
「あれ、もしかして照れてるの?」

この男は、少しでも油断するとこれだ。横から覗き込んでくるから、慌てて顔を逸らした。20代後半にもなって、こんな甘い恋愛をしてる自分に戸惑う。少女漫画かと心で突っ込んだその時、聞こえた声に胸が嫌な音を立てた。

「要仁さん」
「ああ、こんばんは」

顔を上げたくないと思いながら声の方を向けば、想像以上の美人がそこにいた。たぶん、要のお客だ。歳は私達より少し上だろうか。一歩下がろうとした私を咎めるように、繋がれた手に力が込められる。そうして思い出す、私はこの人の唯一なのだと。引きそうになった右足を戻して、前を向いた。目が合った女性は一瞬驚いて、微笑む。

「なんだかショックだわ・・・全然違うのね」

違う−−−それが要のことを指すのか、それとも私のことなのか分からなかった。どちらなのかによってショックの意味も違ってくる。『私といる時と全然違うのね』か、『想像と違って大したことないわね』か。何を言われるのかと身構えたのも束の間、その人は私達の横を通り過ぎていく。肩透かしを食らった気分でポカンとしていると、強く手を引かれた。

「ほら、よそ見してると見逃しちゃうよ」

振り向こうとする私に要が言う。一体何のことだか分からず、その横顔を見返した。要がチラと視線だけを私に向けてから空を見上げたその時、響いた音に思わず声を漏らす−−−花火だ。

「綺麗」

小さな呟きは、花火の音に掻き消される。暫く眺めて振り返ったときには、さっきの女性の姿はどこにもなかった。啖呵を切るつもりなんてなかったけれど、言葉の真意は結局分からなかった。次の花火までの沈黙の中、少しもやつく胸中のままでいる私に要が言う。

「誰が何と言おうが、俺が愛しているのは名前だけだよ。それとも、俺の言葉だけじゃ不安?」
「まあね。だって要、必要なら嘘つくでしょ」
「あー、それを言われると弁解の余地がないな」

私の言葉に苦笑する横顔は、さほどショックを受けてはいなさそうだ。もちろん私も、傷付けるために言ったんじゃない。確かに要は、大切なものを守るためなら嘘をつく。祈織のことがあって、嫌になるくらい分かっている。

「でも、私には嘘をついたことないから信じる。あ、小さな嘘はノーカウントだから。そんなの私だってついてるし。要は大切なことを私に偽ったことはない。隠してたことはあるけどね。だから、さっきの言葉にも、これからの人生にも、不安なんて少しもない」

チラと見上げると、穏やかに笑う顔。堪らなくなって腕を絡ませた。華やかな気持ちでいると、耳元に寄せられた唇がまた意地悪な要求をしてくる。

「俺も愛の言葉が欲しいな」

望まれれば、できる限り叶えたいと思うのは相手が要だからだろうか。ああでも、弟達にもそうだ。違うのは、この胸が高鳴ること。抑えられないくらいの想いが押し寄せてくる。疲れた夜は一番に顔を見たい。泣きたい時は傍にいてほしい。そんなことを望むのは貴方だけ。

「世界で一番、貴方が好き」

花火が上がるのが見えて、大きな声を出した。大勢の人がいるから、なんだか恥ずかしい。周りも騒ついているし、たぶん聞こえていないだろうけど。誤魔化すように肩を寄せた。赤い光が空を覆う。今日みたいに何かを観たときに綺麗だと思うのは、要が隣にいるからだ。どんなに美しい景色でも、一人だったらきっと心は動かない。要にとって私もそういう存在であり続けたい。

−−fin.−−

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