同じ空の下で

7月某日の午前中、駅前で声を上げそうになった。こんなに人通りの多い場所で名前を呼ぼうものなら、彼の逆鱗に触れてしまうだろう。しかし今日の私はなかなか幸運らしい。渡したい物があったから、会えてちょうど良かった。そっと近付いて、スマホに視線を落としたままでいる弟の肩を叩いてみる。

「誰かと待ち合わせ?」
「っ、名前姉さん!」

驚いてる驚いてる。ズルッと落ちた変装用の眼鏡を元に戻してあげると、小さくお礼が聞こえた。こうして不意を突かれたときは特に素直で可愛い子だ。思わず微笑むと、照れ臭そうにそっぽを向いた。

「午後からまた収録。スタジオにいると他のメンバーと一緒になるから、フラフラしてただけだよ」
「じゃあ一緒にご飯食べない?」

スマホを取り出し周辺の店を探そうとしたけれど、やめた。私より風斗に決めてもらった方がいい。芸能人ご用達のお店もあるのだろうし、下手に騒がれてゆっくり話もできなくなるのは避けたい。私の誘いにキョトンとしてから、風斗は頷いた。

「どこかオススメの店ある?」
「結構いい雰囲気の中華の店なら知ってる」
「中華!いいね、そこにしようか」

歩き出す弟の背中を追いかけながら、昨日見たネットニュースを思い出す。forttêのメンバーとの不仲説や姉、つまりは絵麻ちゃんの存在について面白おかしく書き記されていた。私がよく知っているのは朝倉風斗ではなく朝日奈風斗だ。たぶんこの子は、私が心配しようがしまいが我が道を行くのだろう。それを誇らしく感じると同時に寂しくもある。結局、最初から最後まで姉らしいことは何一つしてあげられなかった。

「僕といるのに浮かない顔とか信じられない」
「・・・やっぱり私の演技なんて通用しないかぁ」
「そもそも姉さんは顔に出すぎ。僕じゃなくたって、エロ坊主や声優コンビとかにはバレバレでしょ」

ごもっともな返しに苦笑する。刺々しい言葉でも、元気付けられる私はおかしいのかもしれない。私が朝倉風斗にあまり干渉しなかったのと同様に、この子も私と一定の距離を保っていたように思う。姉と弟であったことは間違いないけれど、それだけ。他の兄弟にするように傷付くことを言われたことがないのは、無意識に引かれた境界線の表れだったのだろうか。

「ほら、着いたよ。僕といる間くらい、あいつのこと考えるのやめてよね」
「・・・残念でした、考えてたのは貴方のこと」

眉を顰めて見返してくる。人気アイドルのこんな顔なんて演技以外では相当レアだろう。笑いが込み上げてくるから咄嗟に口元を手で覆った。不機嫌なオーラが漂ってきて必死に無表情を貫く。そんな私に小さく息を吐くと、笑顔で待つ店員に向き直った。慣れた様子で話す姿は、やっぱりどこか遠い。昔からマセていたし、琉生や祈織同様に世話を焼いた記憶もほとんどない。席に案内されて、向かい合って座った。

「僕のこと考えて、あんなに暗い顔されるとか心外」
「ごめんって・・・あ、もう名前呼んでもいい?」
「どうぞ」

笑って尋ねれば、了承が返ってくる。侑介あたりにはこういう素直さは絶対に見せない。水を飲んで一息つくと、視線を感じて顔を上げた。頬杖をついて私を見つめる姿は、芸能人なだけあってオーラがある。弟なのに緊張してしまう。

「ねえ。もしもエロ坊主が普通の会社員になるって言い出したら、姉さんはどうする?」
「・・・要が本当にやりたいことなら応援する」

少し考えて答えると、風斗は目を伏せた。おや、と思う。いつも得意げで、人を食ったようなこの子にしては珍しい表情だ。その理由を推理してみて、はっとする。ひょっとすると、何か悩んでいるのだろうか。尋ねようとして開きかけた唇が震える。仕事に関して、私が風斗にアドバイスできることがあるだろうかと躊躇してしまった。手助けしたいと思うのは私の自己満足。自分の欲を満たすために手を伸ばしていいのか。他の兄弟だったら、気にせず尋ねたかもしれない。

「風斗・・・私が今から喋るのは独り言だから、聞き流してくれていい。でも、もし返事がしたくなったら我慢しないで言ってね。ちゃんと聞くから」

ゆっくりと目を合わせてそう言った。風斗は真意を探るように私を見ると、小さく頷く。真剣なその顔は演技ではないだろう。それくらい、私にも分かる。

「好きなことをするってさ、楽しいだけじゃないよ。これは経験論。今の仕事はすごく楽しいけど、辛くなる瞬間はあるし、これからもそうだと思う。それでもその過程があるお陰で、もっと楽しくなる」

一度言葉を切って顔を上げる。風斗の瞳が揺れた。この子は今、人生の転機に立たされている。今まで通り真っ直ぐ進むか、思い切って方向を変えるか迷っている。私は、どちらかに行くように促すことはしない。最後に選ぶのは風斗自身だ。きっと、どちらも間違いではないと思う。それでも、悔いのない選択をしてほしい。

「やらなければ、そこまで。でも一度始めたなら、満足できるように思いっ切り楽しめばいい。苦難も含めて。どうせ挑戦するなら、難しい方が燃えるでしょ?最初の一歩目を迷うのは、未練があるから。迷わず踏み出せる方を、選びなさい」

できるだけゆっくり、諭すように言ってしまったことに少し後悔する。この子はお節介が嫌いだと分かっていたのに、つい無意識に先輩風を吹かせてしまった。そんな私の動揺を他所に風斗は笑った。初めて見る笑顔に、思わず硬直してしまう。柔らかい、よく要が家族に見せる顔に似ていた。その瞳が潤んでいることは気付かない振りをしておこう。

「ちょっと、なに笑ってるの?」

釣られて口角を上げた私に、風斗が口を尖らせる。別に馬鹿にしたわけじゃない。ただ、私の言葉をこの子が享受してくれたことが嬉しかっただけだ。頑張っている弟を褒めたくて綺麗な頬に手を伸ばすと、スッと身を引かれた。無意識だったのだろう。風斗はしまったという顔をして、決まり悪そうに目を逸らした。構わず距離を詰めて優しく頬を撫でる。今度は避けられなかった。

「なに、照れてるの?珍しい」

少し茶化してみる。いつもならすぐに言い返してくるのに、今日は静かだ。もしかして怒らせたかなと、慌てて手を引っこめようとした。それより先にパシッと手を取られる。

「他の奴らにするみたいに、姉さんは僕に触れないでしょ。だから少しっ、……驚いただけ」

驚いたのはこっちだ。これはもしかしなくても、ヤキモチか。不貞腐れたような顔に、愛しさが募る。椅子から少し腰を上げて、目を伏せて油断している弟の頬を両手で包む。おりゃおりゃと撫で回してから解放すると、ぽかんと口を開けた間抜け面に声を上げて笑ってしまった。

「どこで何していても、風斗は私の自慢の弟よ」
「・・・知ってる」

本当、素直じゃないな。苦笑いしていると、タイミング良く料理が運ばれて来た。ランチメニューらしい。いつの間に注文したのだろう。こういう手際の良さは要を彷彿とさせる。手を合わせてから口に運ぶ。

「ん〜、美味しい!」
「姉さんって、食べてる時は精神年齢下がるよね」
「そりゃ可愛い弟と一緒だからね」
「・・・ほんと質悪い」

風斗に質が悪いと言われるなんて、中々だ。結局、この子が何に悩んでいるのかは分からなかった。風斗が自分から話すことはなかったし、私から尋ねることもしなかった。距離が縮まったと思っても、気付けばいつもの距離感に戻っている。それでも今日は、ほんの少しその心に触れられた気がした。

デザートの杏仁豆腐をスプーンで掬いながら、はっとする。いけない、忘れるところだった。まさか悩み相談を受けるとは思っていなかったから、すっかり頭から抜け落ちていた。今日はこの子に渡す物があったんだ。食事を終えて、お茶を一口飲んでから鞄を探る。目的の物を掴んで、怪しげに私を見る風斗に差し出した。きちんと包装してもらったから、これがプレゼントだということは伝わったらしい。

「誕生日プレゼント、ちょっと過ぎちゃったけど。弥には内緒ね」

さすがに朝日奈兄弟全員に毎年プレゼントはあげていない。もちろんメールは必ず送るようにしているし、節目の年とか何か特別なことがあった年には何かプレゼントするように心がけている。要は例外だけれど。本当を言うと、今回のは気まぐれだ。中々会えないことを言い訳にして、食事に誘った記憶も誕生日を祝った記憶もほとんどなかった。その罪滅ぼしみたいな、私の自己満足。

「開けてもいい?」
「いいけど・・・せっかく包んでもらったのに」

私の言葉など、どこ吹く風。それでも椿や侑介みたいにビリビリ破いたりしないのは性格故だろうか。そっとリボンを解く指先を見つめた。予想外の物だったのか、目を見開く姿に笑みが零れる。確かに、普通の高校生はあまり欲しがらないかもしれない。

「これからも雑誌とか沢山読むんでしょ?紙じゃなくてもいいやつは電子のが便利かなと思って。嵩張らないし、結構便利だよ」

贈ったのは、電子書籍用のタブレットだ。出先にも持って行けて、かつ見やすいように適度な大きさの物を選んだ。仕事柄、雑誌に目を通すことも多いだろう。それに、好きな俳優の記事をチェックしていたのを知っている。返事がなくて首を傾げると、嬉しそうに風斗が笑うから、胸が温かくなった。

「ありがと」
「喜んでもらえてよかった。私も少しはお姉ちゃんでいられたかな……なんてね」
「へぇ、さっき自分で言ったくせに自信ないんだ?」

無意識に弱音が零れてしまい、なんとか惚けてみる。それを聞き流してくれるなんてことはなく、得意顔で覗き込まれた。自分で言ったって、何をだ。瞬きを繰り返す私に可笑しそうに笑うと、風斗が伝票を持って席を立った。慌てて腰を上げた瞬間、頬に何かが触れる感覚。何か、なんて決まっている。悪戯っ子みたいな顔をした弟の唇だ。

「お望み通り、教えてあげる。一度しか言わないからよく聞いて。どこで何していても、僕が姉さんでいてほしいのはこの世でたった一人……名前だけだよ」
「今初めて朝倉風斗に落ちる人の気持ちが分かった」
「初めては余計」

不満げな表情にクスクス笑った。財布を出そうとすると、「お会計はお済みですよ」と返ってくる。一体いつの間に。戸惑う私に今度は風斗が笑う。やっぱり、自信に満ちた小悪魔なこの子が一番らしいなと思う。スタジオへと歩いて行く背中に小さく手を振った。見上げた空は青く澄んでいる。

「頑張れ、朝倉風斗」

−−fin.−−