1. 「11月に大会があるんだ」

    平日、20時。ふたり並んで歩いていたら、総司がそう言った。今日は特に会う約束をしていたわけじゃない。バイト先に彼が現れた時は、数秒間フリーズしてしまったくらいだ。驚く私を楽しそうに見つめつつも、菓子パンと惣菜パンを一つずつレジに置くものだから、接客するしかなくなったのだが。晩ご飯の他に二つもパンを食べて平気なのだろうか。部活をやっているだけあって、見た目は細いのによく食べる。昔から着痩せするタイプなのだ。一度剣を握れば、誰よりも強かった。それは今もだけれど、少し狡い。

    「総司なら絶対勝てる。応援してるわ」
    「言われなくても勝つし……ていうか、言葉だけじゃなくて傍で応援してほしいんだけど」

    拗ねたような声音に、思わず足を止めて横顔を凝視してしまった。傍というのはつまり、会場でという意味だろうか。勿論そうしたいのは山々だけれど、一つ不安がある。それを言葉にしようとした時だ。私の視線から逃れるようにそっぽを向いた頬が、少し朱色に染まっていることに気付いてしまった。予想外の反応に、狼狽えてしまう。とりあえず、思っていることを伝えてみることにする。

    「でも総司、そういうの嫌いでしょう?前に女の子達が応援に来てた時、鬱陶しそうにしてたじゃない。だからてっきり、来てほしくないんだと思ってたのに」
    「嫌いだよ。だって満足に話したこともない相手ばっかりだし。だけど君は違うでしょ。そもそも、僕本人が来てほしいって言ってるのに疑うわけ?」
    「……本当に行ってもいいの?」
    「しつこいなぁ。だから、さっきからそう言ってるじゃない。で、来るの?来ないの?」

    ああ、懐かしい。そう思った。機嫌が悪い時の表情だ。チクチクした言葉や声音でも、その切先は決して私を傷付けることはない。そしていつも、本音を聞いてくれる。それを受け入れてくれる。叶えてくれる。そんな貴方だから、私はこうして甘えてしまう。

    「い、く…必ず行く。一番近くで応援したい」

    この世界で総司と出会って以来、私は怯えてばかりだった。彼との記憶がどれも綺麗で温かいから、今の冷たさが余計に怖くて。拒絶されたり幻滅されることが、堪らなく恐ろしかった。それでも、足踏みしているだけじゃ、決して前には進めない。

    ──── 出来るよ。僕はそう信じてる。

    信じることは、とても難しい。だけど総司はそれを、容易くやってのける。自分を信じることは、私にはまだ出来そうにない。だからまず、貴方のことを信じてみてもいいだろうか。尋ねたらきっと、呆れた顔をしながらも「いいよ」と言ってくれる。そう思うけれど、言葉にはしなかった。ささやかな私の対抗心だ。

    −−−−−

    試合当日、一人で会場に訪れた。どんなスポーツにも言えることだけれど、自分が参加するわけではないのに、緊張してしまう。ヒリヒリとした独特の空気を肌で感じて、自然と背筋が伸びた。こういう時に頭を過ぎるのは、あの頃の記憶。総司や皆と駆け抜けた激動の時代。幕末のような殺伐とした雰囲気は、どこか懐かしく、恐ろしい。総司の試合を観戦するのは初めてだ。ルールは知っている。彼が負けるところなんて想像もつかないけれど、兄の話では相手の選手も中々に有名らしい。

    「すまないが、隣に座っても構わないだろうか?」
    「はい、どうぞ……あれ、山崎さん?」
    「……ああ、君か。久しぶり、と言うべきか」
    「ええ、お久しぶりです。総司に聞きました、同じ学校なんですよね?」
    「そうだ。ついでに言えば、歳も同じだから敬語でなくていい」
    「そう、なんですけど…えっと、
    「君は存外、正直だな。そこまで親しい間柄ではない、という顔をしているぞ」

    図星である。幸い、山崎さんに気分を害した様子はない。それどころか、愉快そうに目を細め笑っている。少しだけ驚いた。生真面目な人なのかと思っていたから、こんな風に笑ったりしないとばかり。人を見た目で判断してはいけない。確か彼は、土方さんを尊敬していると聞いた。以前、総司がこれでもかと顔を歪めながら語っていたのを思い出す。故に彼とは気が合わないとも。土方さんが絡むと、総司の精神年齢はマイナス10くらいになる。上手い言葉を探すなら"一生反抗期"なのだろう。

    ────反抗じゃなくて、生理的に無理なだけ。

    そう言った不機嫌顔を浮かべて内心苦笑する。反抗という言葉を使われるのがどうしても嫌らしい。そんな事を考えていると、隣で一層大きく笑う気配がした。慌てて横を見れば、山崎さんが肩を揺らしている。そんなに笑わなくてもいいのに。いくら何でも失礼じゃないだろうか。少しムッとした。

    「いや、すまない。土方さんからは意地っ張りだと聞いていたんだが、あまりに分かり易いから、つい。今、沖田さんのことを考えていただろう?」

    これまた図星である。繕うのが上手いとは思っていないが、こんなに簡単に見破られると流石に落ち込んでしまう。それも、それほど親しくない相手に。というか、土方さんは色んな人に、私の事を意地っ張りな女だと説明しているのか。後で抗議しておかなければ。

    「そう不満そうな顔をしないでくれ。全て丸分かりというわけじゃない。限られた場合だけだろう。それだけ君が、あの人を大切に想っているという証明でもある。誰かをそれ程まで想えるのは、素晴らしいことだ。誇っていい」

    心からの言葉というのは、どうしてこんなにも胸に刺さるのか。いつの時代でも、それは変わらない。人はきっと、元は弱い生き物なのだろう。私も例外ではない。だけど、誰かの言葉で強くなれる。それもまた、人間の特権。人だけが、言葉で思いを伝え合う。当たり前のことだと思ってはいけない。大事にしなくてはならない。明日には伝えることも、享受することも、叶わなくなるかもしれないのだから。

    「…ッ……ありがとうございます」
    「ほら、そろそろ試合が始まるぞ」

    言葉を詰まらせつつも、何とかお礼を述べる。油断したら涙が溢れそうだ。そんな私の心情に気づかないフリをして、山崎さんは前を向いてそう言った。そうだ、試合だ。はっと顔を上げて、目線をそちらに移す。総司はどこだろう。キョロキョロしていると、山崎さんが小さく指を差して教えてくれた。その先、見慣れた体躯の選手がひとり−−−総司だ。一礼して、3歩前へ。それから蹲踞。武道全般に言えることなのだろうが、剣道には伝統的な作法が色濃く残っている。私も兄の影響で沢山の選手を見てきたし、その中には元新選組の彼らとも良い勝負ができるのではないかと思う選手もいた。それでもやっぱり、違う。恋愛感情が全く起因していないとは断言できないけれど、総司の所作は今まで見てきた誰よりも綺麗で洗練されていた。審判の「始め」の声と共に、両者が立ち上がる。

    「っ……総司、

    空気が、震えた気がした。無意識に名前を呼ぶ。顔は見えないのに、どんな表情をしているのか分かる。面の下にはきっと、あの瞳があるのだろう。幾度も見た、燃えるような瞳。美しい翡翠の中で、同じ色をした炎が揺れる様が、記憶に焼き付いている。新選組の沖田総司が死んでからも、あの炎はずっと彼の中にあった。最期まで、決して消えることはなかった。瞳の奥にあるその光のお陰で、私は生きていられたのだ。

    「一本!」
    「……やはり凄いな、あの人の剣技は。少しも衰えていない。いや、それどころか磨きがかかっている気さえする」

    山崎さんの言葉に、私は返事をすることができなかった。思い出してしまったから−−−炎が消えた、翡翠が灰と化したあの瞬間を。胸の辺りに触れて、服ごと握った。私の様子がおかしいことに気がついたのか、山崎さんがこちらを覗き込んで何か言っている。

    「こっちへ」

    促されるまま立ち上がり、歩き出す。手を引かれて、気付けばベンチに座られていた。山崎さんが背中を撫でてくれるが、別に体調が悪いわけじゃない。ただ、どうしようもなく不安だ。そして、この不安を取り除くたった一つの方法も理解している−−−総司に会いたい。それだけで、これは消える。だけど、たまたま居合わせただけの人に、そんな独り善がりな望みを言えるわけがない。総司だって、試合が終わったばかりなのだ。

    「大丈夫です。少し休めば、
    「沖田さんを呼んでくる」
    「っ、本当に、平気ですから」
    「どうして隠す?彼に記憶がないからか?」

    立ち上がって走り出そうとする山崎さんを、必死で止めた。そして次に、容赦のない質問が降ってくる。先程までの優しさは何処へやら。彼は再び座り込み、視線を合わせてくる。なんだか小さな子どもになった気分だ。投げられた問いに、首を横に振った。

    「…違います。私が知られたくないだけです。弱い自分を。ちゃんと支えたいのに、これじゃ役立たず、
    「君は馬鹿なのか?」
    「ばっ、馬鹿……優しい人だと思ったのに勘違いだったみたいです。せっかく、仲良くなれる気がしたのに」
    「生憎と、慰めるのは得意じゃない。だが君を泣かせたとあれば、怒る人間が大勢いる。その矢面に立たされるのは御免だ。だから、確実な方法を取ろうとしたまで」

    この人、ついに開き直った。不安が段々と萎んで、苛つきがムクムクと湧き上がる。どうして私は怒られているのだろう。反抗心から睨み返すと、あろうことか笑われた。

    「聞いていた通り、根性はあるらしい───無理して笑うことを、強さとは呼ばない」

    武士の瞳が私を射抜く。そうしてやっと思い知る。私は昔から、今のように沢山の人達に救われて、強くなっていったのだと。総司をはじめとした新選組の人達、兄やあの家族。そうでなければきっと、何一つ乗り越えることなど出来なかった。そしてたぶん、それでいいのだ。それを弱さと呼ぶのだと思っていた、さっきまでの自分が恥ずかしい。

    「山崎さん。今日は本当に、ありがとうございます。とても助かりました」
    「いや。もし迷うことがあれば、誰かに話してみるといい。君を大切に思う人は沢山いる」
    「山崎さんも聞いてくださいますか?」
    「は……それは別に構わないが、俺よりも、
    「名前!!」

    困り顔の山崎さんの言葉を掻き消すように、名前を呼ばれた。その声に、驚きと同時に嬉しさが湧き上がる。視線の先、階段を速足で下りてくる総司の姿。

    「お疲れ様、凄く格好よかったよ」

    駆け寄ってそう言うと、総司は嬉しそうに目を細めた。それだけで、私も笑顔になる。ところが、後ろの山崎さんを見た途端、彼の態度が一変した。

    「なんで山崎くんがいるのさ」
    「試合を観に来ただけです」
    「試合?土方さんを、の間違いでしょ」

    バチバチと音がするようだ。どうして土方さんが絡むとこうなってしまうのだろう。かと言って、ふたりが笑い合っていても、それはそれで怖い。

    「君、本当にあの人のこと好きだよね。ほんと理解できなっ……ちょ、なにしてるの?」
    「ふふ、頑張ったご褒美」

    背伸びをして少し乱れた髪を撫でる。半分は愛しさ、そしてもう半分は、独占欲−−−私を見て。言葉にできるほど器用じゃないの。そんなこと、貴方はもう知っているでしょう。戸惑いながらも、照れ臭そうに私を映す瞳に、堪らなく安心する。望みはたった一つ、その翡翠が見られる場所に居させてほしい。
 - 表紙 - 
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