1. 季節は秋になった。街の木々も色づいて、歩いているだけで楽しい。だけど真っ赤な葉を見ると、脳をよぎる記憶がある。瞳に焼き付いた、血の色。ただの生理現象なのに、総司が小さく咳をすると、胸が嫌な音を立てる。あの病魔はもう、その胸には居ないと分かっているのに。

    「お願いだから、連れて行かないで」

    誰に対するでもない懇願。小さなその呟きは、風に乗って消えた。理由もない不安を払拭するように頭を振って、深呼吸をする。今日はバイトがないから、帰って課題でもやろう。そう思いながら足を踏み出したその時、背後から声をかけられた。

    「名前」
    「……一君。あの、名前で呼ぶのやめてくれないかな。吃驚するから」
    「何故だ?」
    「いや、だってずっと名字って呼ばれてたから…なんかこう、心臓に悪いっていうか」

    ちゃんと説明したのに、不可解だという顔をするから困る。前から思っていたけれど、一君は頭がいいのに天然だ。名前を呼ばれたのなんて、会津での最後の会話の時くらいだ。そういえばあの時、言っていたっけ。名字と呼んでいたのは総司の機嫌を損ねないためだって。

    「ごめん、別にいいや。好きに呼んで」

    手の平を返した私を、青い目が射抜く。嗚呼、嫌だな。昔からこの目が少し苦手。どこか心内を見透かすような視線は、総司と似ている。色彩も、温度も、全然違うのに何故だろう。

    「ところでさ、どうしてこっちに?何か用事でもあったの?」
    「ああ。そこの通りにある店の菓子を買いに来た。値段のわりに美味い」
    「お菓子……そう、なんだ……ッ、ふふ」
    「何故笑う?」
    「いや、ごめんね。可愛いなと思って。そんなに美味しいお菓子なら、私も家族に買って行こうかな。一緒に行ってもいい?」

    真顔で吟味する姿を思い浮かべて、笑ってしまった。一君は妥協を知らないから、お菓子を選ぶ横顔も、きっと真剣そのものなのだろう。私がそう訊くと「構わん」と短い返事。そして、スタスタと歩き出してしまう。鞄を肩に掛け直して、慌てて後を追いかけた。

    「いらっしゃいませ」

    可愛い店員さんに、笑顔で迎えられる。一君は慣れたや様子で奥へと行ってしまった。本当に常連らしい。店内には煎餅や団子、あんみつなど沢山の和菓子が並んでいた。どれも美味しそうだ。父と母、それから兄と自分。それから、後で総司と一緒に食べるために何か買おう。そう思った時、入店してきた二人組に息が止まった。

    「すみません、沖田さん。付き合わせてしまって…」
    「いいよ、別に。どうせ暇だったから。お腹減ったし、僕も何か買おうかな……名前?」

    驚いたように私を呼ぶのは、聞き慣れた声。そしてその隣には、千鶴ちゃんの姿がある。二人共、制服姿。どうやら学校帰りに寄ったようだ。この店は彼らの学校からは少し離れている。もしかしたら、私が知らなかっただけで、有名な店なのかもしれない。

    「ふたりもお菓子を買いに来たの?」
    「…まぁね。僕というより千鶴ちゃん。土方さんと食べたいんだって。僕はただの付き添い」
    「そうなんだ」
    「君こそ珍しいね。何買いに、
    「名前」

    総司の言葉を遮るように、背後から私を呼んだのは一君だ。振り向けば、手から溢れんばかりのお菓子を抱えている。そんなに買うのだろうか。

    「随分たくさん買うんだね」
    「新作が出ていた」
    「へぇ。あ、これ美味しそう。私も買おうッ、

    かな、と言おうとしたけれど続かなかった。私の口は後ろから伸びてきた掌に塞がれる。と同時に腕を掴まれて、バランスを崩した。倒れると思って身構えた体は、硬い何かにぶつかって止まる。ふわりと、嗅ぎ慣れた匂いが鼻を掠めて、慌てて目を開けた。

    「総司?」
    「どうして一君がいるの?」

    刺すような冷たい声に戸惑う。千鶴ちゃんも驚いている。しかしこれは、以前にも見たことがある光景だ。あの時は一君じゃなくて、左之さんに対してだったけれど。

    「……菓子を買いに来た」

    流石は三番組組長。真顔で事実を伝えた。悪気は一切ないのだろうが、ここでも天然を発揮している。思わずクスッと笑ってしまう。そんな私の反応に、総司の不機嫌は一層険しさを増した。怒らせているのは分かっているのに、嬉しいと感じてしまう。やっぱり総司だなぁ、と思う。結局、私の心の天気は彼次第なのだ。

    「一君とは帰りに偶然会ったの。それで、ここにお菓子を買いに行くって言うから、私が勝手に付いて来ただけよ」
    「ふぅん。偶然。付いて来ただけ、ね…で、いつから一君はこの子を名前で呼んでるわけ?」
    「名前から許可は得ている」
    「僕はいいって言ってないけど」
    「何故、あんたの許可がいる?」

    まずい。かなり雲行きが怪しくなってきた。この二人は昔から、基本的に仲が良い。一君は総司にとって本気で立ち合える相手だったし、はっきり物を言う所は二人ともよく似ているから。それに、どちらも優しい。

    「今のあんた達は恋仲ではない。呼び方に口を出される筋合いはないように思うが」
    「さ、斎藤さん!」

    思いのほか強気な口調に私が瞠目していると、千鶴ちゃんが一君を制止してくれる。それだけが救いだ。そっと総司の横顔を見れば、瞳には苛つきが宿っている。それを向けられている張本人は涼しい顔。たぶん一君は至って真面目に言っていて、総司もそれを理解している。だって、彼が言ったことは全て事実だから。胸がチクリと痛んだ。これは、さっきの私の選択が招いた結果。私はあの時、一度は呼び方を訂正しようとして、やめた。理由を述べれば、ただ一つ−−−理由がなかったから。たった今、一君が言ったように、私達は恋人同士でもなんでもない。つまり、私のことをどう呼ぼうが、それは彼の自由なのだ。なにより私本人が許可したのだし。今、気付いた。無意識のうちに、こうなることを望んでいたのかもしれない。名前のない今の関係が不安で、こうして総司の気持ちを確かめたかった。そういう思いが全く無かったかと問われれば、私は決して頷けない。

    「…一君。連れて来てくれてありがとう。今日はとりあえず、先に帰って。千鶴ちゃんも……あ、そっか。何か買いに来たんだよね?」
    「いえ!大丈夫です!!急ぎではないので。私も斎藤さんと一緒に帰ります」

    早口でそう言って、千鶴ちゃんが一君の腕を引いた。本当に気が利く子だと思う。土方さんが手放せないわけだ。光の速さで会計を済ませると、二人は店を後にした。嵐が過ぎ去ったように、私と総司の間にはなんとも言えない空気が漂う。心で小さく息を吐いて、隣を見上げる。

    「総司は何か買う?」
    「買うわけないでしょ」
    「そう、だよね……でも私、家族に買って行きたいの。少しだけ待っててもらってもいい?」
    「……外にいる」

    フイと視線を逸らして、出て行ってしまう。待っていてくれるんだ。やっぱり優しい。家族には煎餅と大福。それから、レジ横に並んでいたみたらし団子を二本買った。昔はよく皆で食べたなぁ、と懐かしくなる。外に出ると、ドアの側に総司はいた。

    「お待たせ」

    なんとか笑って声をかけると、総司は一瞥だけを寄越して無言で歩き出す。私の家の方向だ。背中から不機嫌なオーラが伝わってくる。

    「あの、総司」
    「……なに?」
    「公園、寄っていかない?さっき団子を買ったの。一緒に食べよう」

    目を逸らさずに頼めば、瞳の中の翡翠が揺れる。嗚呼、なんて綺麗なのだろう。思わず手を伸ばしそうになるから、拳を強く握った。返事はなかったけれど、総司は進行方向を変えて公園に入っていく。その後ろ姿に、胸が温かくなった。もう夕方だから、遊んでいる子どもの姿はない。並んでベンチに腰掛けた。足下に落ち葉があるのに気がついて上を見てみると、色づいた葉が風に揺れている。それだけで、心にあったモヤモヤが少し晴れた気がした。

    「はい、どうぞ」

    プラスチックの箱を開けて、差し出す。綺麗な指が串を摘むのを黙って見届けた。残されたもう一本を見つめていると、冷たい声で総司が言う。

    「もう、やめようか?」

    やめる。何を。そう尋ねようとしたけれど、出来なかった。だって分かってしまったから。総司は、この関係を終わりにしようかと、そう訊いているのだ。面倒で煩わしい事は嫌いな彼らしい。そして何より潔い。ここで頷いたら、本当にそうなってしまうのだろうか。

    「え、ちょっと……ッ、なに泣いてるのさ」

    戸惑ったような声でそう言われて、咄嗟に自分の頬に触れると、濡れていた。少し想像しただけで、これだ。私は一体どうしたいのだろう。何を言えばいいのか分からなくて、とにかく涙を止めようとするけれど、上手くいかない。総司が私の肩を掴んで、覗き込んでくる。困惑と切なさを宿した瞳だ。

    「ごめん、すぐ泣き止むから…ッ、そう、じ」

    なんだか最近、泣いてばかりな気がする。自分でも面倒な女だと思うのだから、総司からすればもっとだろう。目元に力を込めたその時、横から抱きしめられる。苦しい。

    「わたし……どんどん貪欲になっていく。最後はお別れすることになっても、後悔しないって、そう思ってたのにッ、駄目なの。会う度に貴方を好きになる……お願いだから、優しくしないで!そんな瞳で見ないで!そうじゃないと、わたし……貴方への想いを殺せなくなる」

    縋りつきたくなる。だけど、この腕の温もりに慣れるわけにはいかない。だって失うかもしれないのに。大切になるほど、その時の痛みが大きくなる。喚き散らす私の背中を、総司がそっと撫でた。壊れ物でも扱うみたいな指先に、堪らなくなる。

    「君って意外に泣き虫だよね。ほんと、厄介。今まで誰に泣かれたって、痛くも痒くもなかったのに……知ってると思うけど、僕はそんなに器用じゃないから。どうでもいい相手に優しくなんかするわけないでしょ」
    「だから余計に苦しいの」
    「うん、分かってる。でも、やめられない。自分でも卑怯だって思うよ。言葉では伝えられないのに、傍にいてほしいなんてさ……だけど、待っていてほしいんだ。必ず、君に届けるって約束するから」

    宥めるように頭を撫でる手付きは優しいのに、振り解けない。ずっと身を委ねていたい。その思いを、よく知っている。あの時の私がそうだったから。そして総司は、待っていてくれた。

    「私に出来ると思う?貴方みたいに強くない。こんな泣き虫で、意地っ張りな女なのに、
    「出来るよ。僕はそう信じてる」
    「……その言い方、狡い」
    「今さら気付いたの?」

    クスクス笑うから、思い切り胸を押し返す。解放されて抗議の視線を向けてみるけれど、総司はクイッと目を細めて笑う。どうにかやり返したくて上げた右手は、容易く拘束されてしまった。楽しそうに喉を鳴らしながら、今度は頬を包まれて耳打ちされる。

    「その想い、勝手に殺したりしたら許さないから。僕にくれるその日まで、ちゃんと大事に持っててよ」
 - 表紙 - 
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