1. たった150年前まで、腰に刀を差した武士達が死に物狂いで生きていたなんて、とても信じられない。ネットや教科書の上に記された、ただの歴史に過ぎない。私が平凡な女子高生だったなら、そう思っただろう。まあ平凡というのはあながち間違ってはいない。並の容姿、成績は良く見積もっても中の上、家庭環境もまあ普通だ。それじゃあ何が平凡ではないのかと問われれば一つだけ−−−私の持つ記憶だ。

    これが非常に厄介で、今まで生きてきた10数年間の記憶ではない。私であって私でない、ひとりの女の記憶。有り難いことにそれは、少しずつ私の脳へと流れ込んでくる。一番最初は10歳のときだ。それから毎日のように休まず蓄積されてきた。そして、最近はその頻度が高くなってきている。一日に数回が少なくない。意識の外に置くにはリアル過ぎて、自分の記憶として扱うには今の私と乖離し過ぎているのだ。要するに、私はこの記憶を持て余してしまっている。

    「最悪…なんなの、今日はバイトなのに」

    休日の朝の6時半、ベッドの上で顔を顰める。その記憶は、ふとしたときに思い出されることもあれば、こんな風に夢を見るみたいに植え付けられることもあった。景色も匂いも感覚も、心までも支配される。まるで呪いのように「貴女は私だ」と言われているみたいで気分が悪い。例えばその記憶を受け入れたとして、そこに今の私の意思は介入できるのだろうか。記憶の中の彼女が望むまま生きるなんて御免だ。それはあくまで150年前の名前で、全てを委ねてしまったら、今を生きる私の居場所はどこに行ってしまうのだろう。

    「私は、あんたじゃない」

    吐き捨てて、布団を抜け出した。体調は良いのに、気分は最悪だ。今日新たに加えられたのはキスを交わす記憶。意図せずファーストキスを奪われたわけだ。それなのに、満たされた心地がした。自己嫌悪に陥って、唇を手の甲で少し乱暴に拭う。階段を下り、リビングへ。父も母も、すでに仕事へ行ったらしい。夜だって私より帰宅が遅いのに、一体いつ寝ているのだろうか。

    「どうした、名前。顔色が悪いぞ」
    「別に、少し寝不足なだけだよ」

    朝食を机に並べながら、兄が私を見る。その顔が記憶の中の"兄さん"と重なって、慌てて目を逸らした。丸っ切り別人なら、惑うことなどない。でも、同じなのだ。彼女が兄さんと呼ぶ男は、兄と瓜二つの顔で兄と同じ言葉を吐く。彼女も、私ならそうするであろう行動を、返答をするのだ。こんなの、可笑しい。

    「今日のバイト、何時までだ?」
    「お昼」
    「なら、応援に来ないか?今日の試合、駅前の体育館でやるんだよ」
    「行く」
    「…おい、やっぱり熱があるんじゃないのか」

    額に近付いてきた手を避ける。試合というのは部活の試合のことだ。兄は高校の教師をしていて、今年から剣道部の副顧問を務めている。今日は、小さいけれど受け持ってから初めての試合があるらしい。確かに、いつもの私なら試合を観に行ったりしなかっただろうけれど、今日に限っては何かしていないと余計なことを考えてしまいそうだ。家で過ごすより、騒がしい体育館の方が気が紛れる。

    予定通りにバイト先のパン屋へ向かう。高校で部活には入らなかった。勉強と両立できる自信がなかったし、中途半端に色々と手を出すのは嫌いだ。黙々とこなしていると、あっという間にお昼になった。ご苦労様と言いながら、店長が惣菜パンをふたつ持たせてくれる。あの記憶のことを考えないように、無心で歩いた。体育館は店を出て横断歩道を渡り、駅へ向かって3分ほど歩くと見えてくる。スリッパに履き替えて、観客席へ続く階段を目指した。角を曲がった途端、衝撃に襲われる。と言っても、体にではなく心にだ。階段を下りてくる人物に、体が強張る。紛れもなく、記憶の中の彼そのもの。動けずにいる私の方へ歩いてくる。相手が床に向けていた視線を上げたことで目が合った。

    「そ、うじ」

    無意識に漏れたのは、記憶の中に住まう彼女が愛した人の名前。手を伸ばしそうになる。触れたいなんて思う自分に戸惑いを隠せない。きっと見えない力が働いている所為だ。でなきゃ、説明がつかない。胸に湧き上がるこの感情は彼女のものだ、私のじゃない。せめてのも抵抗で拳を強く握った。

    「君、だれ?」

    温度のない、冷たい声。彼女に向けられていた優しい瞳も、溢れるような愛情も皆無。振り回されていたのは私だけ。でも、これは朗報だ。今後どんな記憶を見せられようと、無関係だと割り切ればいい。そう思うのに、苦しかった。泣いているのは私か彼女か。私じゃないと必死に言い聞かせていたのは、絆されていく自分に気付いていたからだ。たとえそれが現代に生きる私に起きたことじゃなくても、7年近く共に過ごしてきた記憶。拒絶しているつもりでいて心の隅で再会することを期待していた。そして彼もまた同じように思ってくれているのだと、根拠のない理想を抱いていたのだ。だから、こんなにも痛いのか。私はどこまで馬鹿なのだろう。ズルズル引きずるだけ不毛だ。今ここで、捨ててしまえ。スゥと息を吸って、一方的な決別の言葉を吐こうとしたとき、

    「総司!!これからミーティングだって言っただろ、さっさと戻れって…名前?」

    大きく目を見開いて私の名を呼んだのは、以前と変わらぬ藤堂平助その人だ。なんで、どうしてと疑問の言葉が浮かんでくる。入り口まで来ていた言葉が、引っ込み喉を伝ってどこかへ消えた。何故、貴方の記憶には私がいないのだろう。未練がましく縋ろうとする、愚かな自分。

    「なに、平助の知り合い?僕のこと他人にペラペラ話すのやめてよね。初めて会うのに名前で呼ばれるなんて気味が悪い、
    「やめろ、総司!!お前…それ以上なにも言うんじゃねえ。絶対、後悔するぞ」

    私と彼の間に割って入り、平助が声を低くして言う。刺々しい翡翠の瞳から逃れた隙に、空転する脳でなんとか状況を飲み込もうとした。でも、導き出されるのはただ一つの真実のみ。彼の記憶に私はいない、彼は私を憶えていない。死刑宣告でもされた気分になるなんて笑ってしまう。ついさっきまで嫌悪していた−−−否、していると思っていた記憶が今はこんなにも離し難い。だって、この記憶だけが彼と私とを繋ぐ唯一の糸。手放してしまったら、二度と結ばれる機会は巡ってこない。

    「どうして僕が後悔するのさ。全然意味が分からない。どうでもいいけど、通してくれる?僕、顔洗いに行きたいから」
    「おいっ!いい加減に、
    「平助、大丈夫だから……不快な思いをさせてごめんなさい。貴方が私の知っている人に似ていたので、つい声をかけてしまったんです。本当に、ごめんなさい」

    このままだと情けない顔を晒しそうで、頭を下げた。ぎゅっと目を閉じて、彼の気配が消えるのを待つ。戸惑うように私を呼ぶ平助の声が、遠くに聞こえる試合の音に飲み込まれていく。ほんの数秒が、とてつもなく長く感じた。暫くして、彼は興味をなくしたように無言で私達の横を通り過ぎていく。

    「名前!!」

    最悪だ。なんで、今このタイミングで現れるのよ。鼓膜を揺らしたのは兄の声。そして、立っているのもやっとの私に追い討ちをかけるような出来事が起きた。

    「誠志郎さん?」

    それは紛れもなく彼の声だった。私に誰だと問うた唇で、彼は兄の名前を呼んだ。何だろう、この感じ。トン、と肩を押されて奈落に落ちていくみたいな感覚。彼にも記憶があって、それでも私を憶えていないのなら、彼女がいた場所には一体誰が見えているのだろう。独り相撲もいいところだ。スッと胸が冷たくなって、涙が引っ込む。下げていた頭を元に戻し振り返れば、懐かしい顔がたくさんある。こんな心境じゃなかったら、純粋に笑って再会を喜べただろう。でも今は、作り笑いすら難しい。

    気遣うように私を見る兄の手に、パンの袋を握らせて出口へ向かう。背中越しに平助が彼を責める声が聞こえた。私のために怒ってくれたのだ。後でお礼を言わなければいけない。靴を履いて外へ出たところで、名前を呼ばれた。声で誰だか分かったけれど、振り向けない。あの青く静かな瞳を見たら、私の心は丸裸にされそうだから。振り切るように走り出す。息を飲んで追いかけて来る気配を背中に感じながら、ドアの閉まりかけたバスへと乗り込んだ。窓越しに一君と目が合う。あれは相当、怒っているな。あんなに受け入れたくなかったはずなのに、数分の間にあの記憶が中心になっていることに気付かない振りをした。

    一君に言われなくても分かっている。私は、今も昔も臆病だ。5分ほど揺られて、バスを降りた。閑静な住宅街を抜けると、大きな川が見えてくる。それに沿って綺麗な桜の木がたくさん並ぶ。枝には緑が目立ち、花はほとんど散ってしまっている。足元に視線を落とすと、花弁が降り積もっていた。視界を支配する桃色が滲んでいく。途端に襲ってくる慣れた感覚に足を止めた。ブワッと濁流の如き記憶の波に呑み込まれる。今までで最大級の記憶量だ。

    「っ……なによ、これ」

    立っていられなくて、木陰のベンチへと座り込む。平凡な農家の娘として生き、そして死んだのだと勝手に思っていた。平和な時代の、しがない女子高生に背負えるような人生じゃない。トドメを刺された感じだ。こんなのもう丸めて捨てられるわけないじゃないか。抱えきれない。でも、捨てることもできない。それなら、選択肢なんて一つ。全部、飲み込んでしまえ。そうすれば、あの記憶は他の記憶と同じように私の一部となる。そして、そのうえで決めるしかない−−−糸を結ぶか否かを。
 - 表紙 - 
(読了報告として押していただけると嬉しいです)