1. 揺れる心のまま、立ち上がった。未だ視界は潤んでいる。瞬きをするより先に、雫を乱暴に拭った。不思議と胸が軽い。天邪鬼は私にもしっかり引き継がれているらしい。神か仏か知らないけれど、この悪戯を仕掛けた奴に一言物申したい。今まで少しずつ注いできたのに、ここにきて匙を投げるとはどういう了見だろう。お陰様でこっちはキャパオーバーだ。

    「(せめて整理する時間くらい、貰ってもいいでしょ。咀嚼しなきゃ飲み込めないもの)」

    河川敷を下って、川岸に座った。春の陽が反射して川の水がキラキラと光を放つ。彼女も、こんな風に悩んで迷っていた。もちろん平和な今と戦乱の時代では、世の情勢が全く違う。それでも、名前という人間はどちらの時代においても同じ。意地っ張りで強がりで、家族にすら素直になれない。どうせなら天邪鬼は150年前に置いて来てほしかった。

    「おいおい…河原で座り込んで感傷に浸るなんざ、失恋した男でも今時やらないぜ」

    水面を見つめていると、茶化すような声。思い出したばかりで、頭の整理も受け入れる心構えも万全じゃない。それでも不思議と安心するのは、記憶の中で見た懐の深さが理由だろう。聞こえない振りをしていると、隣に座るから嫌でも視界に入った。チラと盗み見れば、以前と同じ赤茶色の髪が揺れている。初めて会ったのにこんなにも懐かしい。やっぱり、彼も私を憶えている。チクリと胸が痛んだ。前を向いたままで「元気か」と問われる。

    「ピンピンしてるように見えるなら、左之さんも案外大したことないね」

    素直に再会を喜べないなんて、本当に可愛くない。左之さんはもちろん、一君や他の皆とだって会えて嬉しい。また瞼が熱を持ってきて、膝に顔を埋めた。隣で小さく笑う気配がしたあと頭に手を置かれる。男の人にこんなことをされて、ときめくより先に懐かしさを感じるのだから私は女子失格だろう。

    「バスに乗ろうとしたら、目の前を見覚えのある女が通り過ぎるから驚いたぜ。それも泣きそうな顔でよ…平助から聞いた。悪かったな、こんな形で再会させることになっちまって」
    「左之さんの所為じゃないよ」

    兄が剣道部を受け持った以上、いつかはこうなっていた。それがたまたま今日だっただけだ。誰の所為でもない。そういうことを自分の所為だと言える人は優しい。今もきっとこの人は、以前のように引く手数多だろうなと笑った。

    「それにね…よかったと、思う。もし大人になってからだったら、他にも考える事が多すぎてちゃんと答えを出せた自信がないもの」
    「はは!やっぱお前、名前だな」
    「左之さんはさ、すぐに受け入れられた?私は全然ダメ。見ない振りしてきたくせに、拒絶されて一丁前に傷付くとか何様よって感じ」

    こうして言葉にするのも、自分が可愛いから。本当に往生際が悪い。まだどこかで、誰かに道を示してもらおうなんて思っている。彼女は、自分が嫌いだった。彼に「好きだよ」と言ってもらえて初めて、自分を受け入れることができた。それなら私はどうすればいい。

    「抱えて生きるべきか、俺も迷ったさ。だけど結局、誰が何を言おうが、決めるのは自分だ」
    「答えなら、もう出てる。ただ、覚悟ができてないだけ。途中で挫けて投げ出すのだけは嫌」
    「じゃあ、そうならないように進むだけだな」

    背後から聞こえた台詞は、聞き覚えがあった。それは彼女がかつて平助にかけた言葉。まさか今になって返ってくるとは、情けは人の為ならずだ。振り返れば、屈託のない顔で平助が笑っている。走って来たのか、額に薄らと汗をかいていた。「疲れた」と言いながら、左之さんとは逆側に腰掛ける。

    「一回死んだ人の言いなりになんか絶対なるもんかって思ってた」
    「お前って本当、負けん気強すぎじゃね」
    「それは昔っからだろうが」
    「でも、地続きなんだね。だって全部憶えてるから。辛かったことも、楽しかったことも、愛してくれたことも…そう思うのって、都合が良すぎるかな」

    試衛館に残ると決めたこと、兄の死、奴への復讐。確かに苦しかった。でも、私を認めてくれた人達がいる。誰よりも大切だと言ってくれた人がいる。瞼を閉じて浮かんでくる最期の姿はあまりに鮮明で、泣きたくなった。彼の記憶に私はいない。それでも心が叫ぶなら、手を伸ばそう。その手を取ってもらえなかったら、なんて考えるな。迷いは覚悟を揺るがす。そんなことは、とうの昔に学んでいる。

    「かもな。でも知ってるか?そういうの、今ではポジティブって言うんだぜ」
    「なんにしろ、お前が前を向く理由になるなら何でもいいさ。きっかけはどうあれ、今のお前の思いは本物だよ。この原田左之助が言うんだから間違いねえ」

    結局、背中を押されることになってしまった。そう、本物だと証明してみせる。100年以上の時を超えてなお、愛しさは色褪せることなくこの胸にあるのだ。訪れるべき時が、と彼が望んだ"次"がやって来た。眠っていた想いが目覚める感覚に、ふっと笑う。

    「ひとつ、訊いてもいい?総司は、私のことだけ憶えていないの?」
    「お前…初めてあいつの名前、呼んだな」

    嬉しそうにそう言うから、なんだか照れ臭くて視線を逸らす。声に出した3文字は滑るように唇にのった。微かな抵抗と、「誰?」と訊かれたときの絶望。それらが邪魔をして、心の中でも、こうして誰かと話すときも名前を呼ばないように努めていた。けれどもう、必要ない。本人を前にしたら、まださすがに無理だ。でもいつか、あの嬉しそうな顔を見たいとそう思う。

    「…お前と過ごした時間だけがぽっかり抜けちまってる。総司自身も違和感があるみたいだ」
    「まあ、後になるほどお前との時間が多かったから無理ねえけど。あいつ、自分がいつ、どうやって死んだのか憶えてねえんだ」

    ひと呼吸してから、左之さんが答えた。それに続いて平助が言う。やはり総司は、私との記憶だけを失っているらしい。それを改めて告げられて、私が感じたのは悲しみではなく疑問だった。生まれてくる前の記憶なんて、その時点で考えの及ばない現象だ。普通の人間には一生縁のないもの。だから私だけを憶えていない理由など、考えるだけ無駄なのかもしれない。

    「ひとつだけ、心当たりがある」

    そう呟くと、二人が私を見る。ひょっとするとこれも、都合の良い解釈になるのだろうか。心を真っ直ぐに保つための考え方。

    「なんだよ、心当たりって」
    「…言わない」
    「はぁ!?なんでだよ、気になるだろ!!」

    クワッと平助が大声を上げた。驚いた姿が小動物みたいで、つい笑ってしまう。優しい風が頬を撫でる。今日は嫌な日なんかじゃない、始まりの日だ。敵意の込められた緑色の瞳を思い出すと、息が詰まる。それでも優しい瞳を知っている。もう一度、そこに私を映してくれるように、頑張ってみよう。

    「あ、平助。さっきは怒ってくれてありがと」
    「は?さっきって…ああ、あの時な。別に礼を言われることじゃねえよ。正直、気付いたら声上げてただけだし」

    照れているのか視線を逸らす姿に、左之さんと二人で笑う。話を聞いてくれたことにお礼を言って、連絡先を交換した。左之さんは大学生で、この近くに住んでいるらしい。新八さんもすぐ近所なのだそう。今度遊びに行くと約束した。平助はここからバスで10分くらいの高校に通っていて、総司も同じ学校だと言う。それよりも、あの土方さんが教師をしているということに度肝を抜かれた。しかも教頭だとか。目を白黒させる私を二人は愉快そうに眺める。あの戦乱の世を駆け抜けた彼らは、現代でも地に足をつけて生きている。なんとなく、ふらふらと学生生活を送っている凡庸な私には、それが少し羨ましい。

    −−−−−

    二人と別れて帰路に就く。歩きながらも思考は止めなかった。平助に尋ねられたとき、心当たりが何なのか答えなかったのには理由がある。心当たりと言っておきながら、たぶんそれは私の願望だと思ったからだ。

    −−−心は君に預けておく

    最期のとき、総司は確かにそう言った。思い出したばかりの真新しい記憶。桜の花が舞う中で穏やかに笑いながら、彼は一番大事なものを私に託したのだ。私が寂しくないように、私が見る景色や聴く音を一緒に感じられるように。こじつけだと、神様に笑われるかもしれない。それでも信じていたい。それに、必ず逢いに行くと約束した。

    「総司……今、行くから」

    誓うように呟いて、再び歩き出す。総司は心を開いた相手には優しいけれど、そうじゃない人には鋭い言葉を吐いたりする。いざ自分にそれが向けられることを考えると、少し怖い。泣きたくなることもあるかもしれない。だけど生憎と私は図太い。それに、あのとき私の胸を覆っていた闇は今はない。闘いに対する不安や羅刹の毒、総司の病がそれだ。でも今は、ただひたすらに貴方のことだけを想うことができる。拳を握りながら小さく笑った。

    帰る途中の道でポケットにあるスマホが振動する。放っておいたから、画面は通知で埋まっていた。全て兄からの連絡だ。そういえば、兄もやはり憶えているのだろうか。あの記憶に関して今まで尋ねたことはない。兄もそんな素振りは見せなかった。私はあの記憶を敬遠していたし、自分だけに起きているのかもしれないと思うと怖かったからだ。でも今日の出来事で、私以外の人達にもあの時代の記憶があると分かった。そして体育館での様子から推察するに、兄もそうだったのだろう。自分が殺された瞬間を思い出したとき、何を思っただろう。私が復讐に手を染めたと知ったら怒るだろうか。ぐるぐると思考を継続していると、いつの間にか家に着いていた。時刻は午後3時。なんだかどっと疲れた。

    「名前!やっと帰ったか」
    「兄さん。ただい、ま……」

    言葉が途切れた。玄関には見覚えのない靴が4足。嫌な予感がした。ぶっつけ本番とは、まさにこの事。まだ第一声すら決めていない。そもそも会話してくれるのかすら怪しい。唇を震わせて、どうしたものかと頭を抱えたくなった。
 - 表紙 - 
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