恐るるに足らず

「見覚えのある頭だと思ったら、松田じゃない」

信号待ちをしていたら、右隣から高飛車なくせに親しみを感じる声が聞こえた。見れば、透き通るブロンド。流し目を向けてくる女の顔は、すぐ真横にあった。今日のようにヒールを履けば、俺と身長は変わらない。相変わらず目を引く女だ。如月ライカ────確か、苗字と同じ大学の別学部。萩原が言うには、今年のミスコンではグランプリ最有力候補。俺にはよく分からないが、それはアナウンサーやモデルにもなれるステータスらしい。モデルは兎も角として、どう考えてもアナウンサーは向いていないだろう。

「久しぶりだな」
「そうね。萩原は?」
「デートだと」
 
簡潔に答えてやれば、一瞬だけ目元を歪めてから、軽く相槌を返してくる。予想よりも淡白な反応。舌打ちくらいはされると思ったが、随分と丸くなったもんだ。

「どこ行くんだ?」
「ネイルよ。明日、名前とランチだから」
「……そりゃまたご苦労なこった」

気合い入りすきだろ。しかし、こいつにとっては、至極当たり前なんだろう。恐らく、自分の為に着飾ったことに、苗字は気づかない。それでも、最も美しい姿で大切な奴の側に立ちたいという思いは、俺にはもう馴染み深いものだ。なにせ、一番身近な野郎が常にそうだからな。

「部外者が知ったような口利かないでちょうだい。苦労に感じた事なんか一度もないから」
「ガキかよ。ちょっとした皮肉だろうが。これくらい聞き流せ」
「嫌よ。あの子の事で妥協するなんて。私はそこまで大人じゃないし、なるつもりもない。分かるでしょ、アンタも同類なんだから」

青に変わった信号に、並んで歩き出す。ヒールの音を響かせて、強気な声で告げてくる。真っ青な瞳に射抜かれ、思わず言い返した。

「知るか。俺にゃそんな相手はいねーよ」
「意外に鈍いのね。それとも態と?あの子や萩原の事になったら、アンタだって冷静じゃいられない。幼稚で自分勝手で乱暴────そういう所、私に似てるから好きよ」
「とんでもねぇナルシストだな」

ここまで心動かない告白も珍しい。つまりは自分が好きってことだ。こいつは俺を通して自分を見ている。

「当然でしょ。でも最初からそうだったわけじゃない。あの子が綺麗だと言ってくれた。だから私は、私を愛せる……それじゃ、私は向こうだから」

誇らしげに言い放ち足を止めると、如月は俺とは逆方向を指差した。それに頷き、「またな」と手を振って歩き出したが、すぐに引き止められる。

「近々あの男にも訊いてやろうと思ってるんだけど、信じていいのよね?今度こそ本当に、生きて、幸せにしてくれるのよね?」
「お前……、

言葉の端々から伝わってくる脅迫の色。しかし俺が驚愕したのは、強調された2つのワードだ。"今度こそ"、それから"生きて"。それはどちらも、1つの可能性を示唆していた────まさかこの女も2度目か。俺の心中を察して、如月は笑う。

「思い出したのはつい最近よ。でも、やっと合点がいった。最初っから、私に勝ち目なんかなかったのね」
「お前、本気で勝てると思ってたのか」
「うるさいわよ。勝てっこないのは本能で分かってたわ。だけど、初恋だったの。スタートラインに立った瞬間から負けてたなんて認めたくない。相手があの男なのが余計に癪」

前世ならまだ、勝ち目とやらはあったのかもしれない。だが今世に関して言えば、皆無だ。萩原はそんな隙を見せないだろうし、そもそも苗字が靡くとも思えない。

「あの時の私は部外者だった。名前の死にすら、人並みの哀悼を捧げただけ。その事に後悔はないわ。だけど、今回は違う。失うだなんて、想像もしたくない。私が隣にいる時は、この命を懸けてあの子を守ってみせる。でも、いつでも傍にいられる訳じゃない。私がいない間は、頼んだわよ。必ず守るって約束して、今ここで」
「それが人にものを頼む態度かっての。お前に誓うまでもねぇよ。とっくの昔に決めてる。俺も、萩原も」

目を見て答えてやる。すると如月は、満足そうに笑い、今度こそ背を向けた。命は懸けるさ。だが、死ぬつもりは欠片もない。ただの通過点だ。あいつの居場所は、これからも萩原の隣。それを許さない運命なんざ、この手で潰してやる。

**

「松田」
「よぉ、先にやってるぞ」

俺がジョッキを掲げて返事をすると、苗字は小さく笑った。12月26日。冬休みに入ってすぐに、萩原が忘年会だと騒ぎ出し、俺達はこうして集まっている。

「ハギは?便所か?」
「ううん。駅で待ち合わせしてたんだけど、電車が遅れてるみたいで、先に行っててほしいって」
「そりゃ好都合。座れ、話しておきたい事がある」

顎をしゃくって促す。別に萩原が一緒でも構わなかったが、あいつがいると必ず横槍を入れてくる。文句や茶々で話が余計に長くなる。その点じゃ、この女は心配ない。たぶん、話の途中で口を挟んだりしないだろう。雰囲気で何か感じ取ったのか、苗字は素直に座って姿勢を正した。面接官にでもなった気分だ。

「あと3ヶ月。何のことだか、分かるな?」
「……うん、世界が私を殺そうとする日までのタイムリミット」

その表現に、心から安堵した。私が死ぬ日だとか言おうものなら、怒鳴っちまっていたかもしれない。交わった視線に揺らぎはなかった。不気味なくらい穏やかで、同時に熱の宿った声。そいつは、店内を漂う年末の浮かれた空気に攫われることなく、俺の耳まで届いた。それだけで十分だった────死ぬつもりなんかないのだと、伝わってくる。良かった。死なせて堪るかという俺達の覚悟以上に、苗字の思いは強い。

「両親が死んだ時に思ったの。どうして神様は、私に2度目の人生を与えたんだろうって。何も変えられない。どうせ21年で終わる命なのにって」

そう言って笑った顔には、いつかの面影があった。儚げな、反吐が出る、あの表情。歪みそうになる口元を結び、黙って待った。一瞬のことだと分かっていたから。予想通り、次の瞬間には、芯の強い眼差しが俺を射抜く。

「本当はね、貴方達との絆を断ち切るつもりだった。悲しい最期が来るのを知ってるからこそ、幸せが痛みになる。それなら、何も感じない方がいい。私はまたそうやって、最悪の選択をしようとした」

初めて再会した時、こいつは俺達から距離を置こうとした。覚えたのは、怒り。それが萩原の為だったのか、それとも俺の為だったのか、わからない。ただ、苗字の心が自分達とは違う方へ行こうとしていることが、堪らなく嫌だった。
 
「思い止まれたのは、萩原の言葉もあったけれど、記憶のおかげ。世界には、絶望もあれば希望もある。誰の世界とも交わらない人生には、確かに絶望はないかもしれない。だけど、希望もない。1度目の人生で、そう教わった。諦める理由を探そうとすればするほど、生きたい理由ばっかり浮かんでくる……でも、何を選べばいいのかなんて、教えてくれる人はいない。だから一つ、約束事を決めることにしたの────生きたい理由がなくならない限り、明るい方を向いていようって」

心が動く音がした。その覚悟を、その姿勢を、ただ美しいと思った。騒ぐ客達は誰一人として聞いていない。勿体ねぇな。らしくない事を思う自分も、今だけは素直に認められる気がする。

「ばぁーか。んな確率0%の条件付けてどうすんだよ。外しちまえ」

起きる可能性が皆無。そんな条件はいらない。虫を払う仕草をしてやれば、心底嬉しそうな面をするもんだから調子が狂う。

「お前のことは、萩原と俺が守る。異論は認めねぇ。こちとら生まれる前からそう決めてんだ…おい、なに笑ってやがる」
「ごめん。萩原と全く同じことを言うから、つい」
「……この話したのか、あいつと」

呆然と尋ねれば、キョトンとした顔で見返してくる。あの野郎、それならそうと言えっての。報告義務はないが、なんかムカつく。

「うん。でも、ずっと前、それこそ再会したばかりの頃だよ。あれから一度も、話題に出たことはないし」
「態と避けてんだよ。いくら萩原でも、冷静じゃいられないからな。テメェの感情を制御できなくなっちまったら、お前を傷付けるかもしれない。あいつは、何よりそれが怖いんだ」
「……本当に、どうしようもなく優しいよね。守るって、そう言ってくれた時の顔、今でも憶えてる。見たことないくらい真剣で、ちょっと怖かったな」
「そりゃ相手が好きな女で、そいつが前科持ちだからだっつの」

あいつはヘラヘラしているだけの腑抜けじゃない。萩原がいかに必死なのかは、俺が一番理解している。だが、あいつは繕うのが上手いうえに、苗字が相手だと奥手も奥手。おまけにこの女は妙な所で鈍い。伝わり難いったらない。逆に、幸いにも俺は言葉を濁すのが苦手だ。オブラートに包むより、爆弾を解体する方が何倍も簡単に思える。だからこれは、俺の役目。

「もしお前に何かあれば、萩原の心は今度こそ死ぬ。命ってのは爆弾だ。起爆すれば、身近な人間から巻き込んでいく」
「よく知ってるよ。生還者だから、ね」

生還者────両親の死は、一生癒えることのない傷を苗字に遺した。だが少なくとも、抱えて生きるまでにはなった。つまりは生還。誰だって爆弾を抱えていて、どちら側にもなり得る。一つだけ、どちらも回避できる方法を挙げるすれば、かつての苗字の選択だ。自分も他人も傷付けずに済む生き方。だが、それは無傷という意味じゃない。傷を負っても気付かないというだけだ。

「その結果、お前は愚行に走った。まあ、完走する前にハギが止めたおかげで、未遂で済んだけどな」
 
両親の死で心に致命傷を負ったこいつは、その生き方を選んだ。無痛を得る代わりに、どこまでも冷たく、愚かしい生き方を。

「もしかしてお説教?」
「誰が。ただの事実だ。言葉で諭すのは専門外だからな。それに、お前は十分反省してんだろ」

俺達は過去に縛られている。だが俺は、その呪縛から解放されたいわけじゃない。忘れられたらと、一瞬でもそう思わなかったと言えば、たぶん嘘になる。それでも、苦痛に支えられていた瞬間が間違いなくあった。その時間は、苗字よりも、萩原よりも、俺の方が圧倒的に長い。

「御託は互いにここまでだ。萩原が来る前に終わらせる…さっき、お前を守ると言った」
「うん」
「だが生憎、誰かさんほど俺はお人好しじゃない。何の依頼もなく人助けなんざしない」

仮にも警察官を志している奴の台詞じゃない。それでも言わせてやる。必ずこの女の口から。受け身でなんていさせねぇ。救われるのを待つだけの人間でいるつもりか。お前の生への執着はその程度か。

「あ、萩原」
「おっ待たせーー!!」
「……テメェ、空気読めよ」
「陣平ちゃんにだけは言われたくねぇな。読んだうえでのテンションだって。なーに俺の可愛い彼女を困らせてくれてるわけ?」

一瞬で苗字の隣に座ると、引き寄せて頬擦りし始めた。やっぱり話が進まねぇ。顔が引き攣る。ところが、されるがままかと思いきや、苗字は俺と視線を外していなかった。逆に怖ぇよ。

「とりあえず乾杯しよーぜ。んで、俺が来るまでの話、要約してくれる?ビール飲みながら聞くからさ。ちなみに何の話?」
「3月26日のことだよ」
「……オーケー、乾杯は後な」

苗字が返事をした途端、真顔になりやがる。そして姿勢を正し、深く息を吐いた。そうすれば、滅多に見ることのない萩原研二が出来上がる。

「おい、松田。まさかと思うけど、傷付けるような事、言ってねぇよな?」
「ねぇよ。少なくとも自覚はねぇ」
「えーえー、そうでしょうね。自覚ありだったら殴ってるわ。いいよ、本人に聞くから……マジで大丈夫だった?」
「平気。松田は人を傷付けるような事は言わない。萩原が一番知ってるでしょ」
「いやまあ、うん、そうなんだけどさ」

相変わらずの鈍感具合。流石の萩原も苦笑するしかない。化け物級のコミュ力を持ってしても、苗字名前の攻略はまだ出来ていない様子。というより、一生無理。萩原が助けを求めるように俺を見てくるが、知ったことか。人を疑った罰だ。

「懺悔を聞いてもらったの」
「……え」
「それから、私のことは、俺と萩原が守る。だけど、俺はお人好しじゃないから、依頼もなく人助けはしない。って」

要約し過ぎ問題。懺悔の一言でまとめやがった。半分以上はテメェが喋ってただろうがよ。呆れて溜息を吐き、仕方なく補完しようとしたが、やめた。萩原が意味ありげな視線を向けてきたからだ。それを見て、悟る。どうやら、今の苗字の説明で、俺の意図を理解したらしい。

「でも、松田の言葉の真意が、私にはよく分からなくて。どう返事をしようか悩んでたら、ちょうど萩原が」
「なーるほどぉ。確かに愚直な陣平ちゃんにしては、遠回しな言い方だな」
「……凄い。松田の言いたい事、分かるの?」

キラキラした目で感心する姿に、面白くなくなる。人を日本語の通じない猿みたいに扱うな。そう口を挟みたくなったが、苗字と萩原の横顔を見ていたら、苛つきはすぐに萎んでいった。

「だろ〜。伊達に長ーく親友やってませんって。で、どうする?答え、教えてほしい?」
「うん」
「陣平ちゃんはね、苗字に手を伸ばしてほしいんだよ」

頬杖を突いて、萩原が言う。しかし、それを聞いた本人は眉間に皺を寄せた。嫌な予感がした瞬間、それは現実となる。目の前に、細く白い手が差し出された。案の定、天然発動。誰が取るか。苦い顔でその手を見下ろせば、さらに前に突き出してくる。押しが強い。

「あ〜、文字通りの意味じゃなくて……助けを求めてほしいって意味。勿論、そんなのがなくても俺らは君を死なせない。でもほら、陣平ちゃん素直じゃないから。なーんて言ったけど、本当はさ…俺も聞きたかったりするんだよね。ひょっとしたら、守りたいってのは俺らのエゴに過ぎないのかなとか思ったり」
「そんなことッ、
「ごめん、今の嘘。見てれば分かるよ、苗字の気持ち。だけどさ、それでも聞きたいんだ。君の声で、君の言葉で────俺らに、君を守らせてくれる?」

萩原の言葉に、苗字が視線を落とす。さっきまで力強く伸びていた手は、ゆるゆると引っ込み、膝の上に戻っていった。前髪の隙間から覗く瞳は、揺れている。急かすことはしなかった。こいつにとって、誰かに縋ることがいかに勇気のいる行動なのか、俺なりに理解していたから。震える唇が意を決したように開くのを、萩原とふたり見守った。

「……助けて。私の命を、人生を、私と一緒に守ってほしい。お願い、します」

たどたどしく言葉を紡ぎながら、再び手を伸ばしてくる。決して大きくはないその声が机一つ隔てた俺に届くのは、こいつの思いが宿っているからだ。ふっと笑い、自信なさげに返事を待っている手を、強く握り返した。

「────受けてやろうじゃねぇか」

久しぶりに触れた手は、変わらず俺より小さくて柔かった。それでも俺は知っている。こいつの強さを、覚悟を。この手は、弱くなどない。

「おし。んじゃ、いっちょ運命に喧嘩売るとしますか」

いつもの軽口を叩きながら、萩原がさらに手を重ねてくる。居酒屋の片隅で手を握り合う男女3人。気持ちが悪いこと甚だしい。だが、今日だけは許してやる。伝わってくる温度と感触を、忘れぬよう記憶に刻んだ。自分が守るべきは何なのかを、再確認するために。

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