生きる意味を知る

2月のある日のこと。午後の講義が休講になった。食堂でカレーうどんを啜りながらダメ元で苗字に連絡してみると、幸運なことに彼女も授業は午前だけらしい。あまりの嬉しさに指先が緩む。つまんでいた麺が箸からすり抜け、汁にダイブした。反射的に椅子ごと身体を引いたおかけで、着ていたシャツに被害はなし。安堵の息を吐いてから、早速デートのお誘いをする。すぐにOKの返事。よっしゃ。食堂のおばちゃんに「ご馳走様」とトレイを返却して、荷物を引っ掴み駆け出した。

「なーに悩んでんの」

都内のコーヒーショップ。先に来ていた苗字がいつになく真剣な表情をしているから、向かいの席に座ってそう声をかけた。すると一転、パッと笑顔を見せてくる。うん、今日も可愛い。

「お疲れ様、早かったね」
「だろ、スキップしてきたから」
「良い事でもあったの?」
「現在進行形でな。でも、誰かさんは俺よりケーキに夢中みたいだけど」

テーブルの上には苺がたっぷり乗ったケーキ。リュックを背凭れに掛けながら、態と拗ねた声で首を傾げてみせる。
 
「食べれば分かる。目移りさせない程の美味しさ」
「顔がマジなんだよなぁ。そんじゃ、お言葉に甘えて一口いただきまーす」

真顔で俺の口元にケーキを運んでくる。こんなにドキドキしないあーんは中々無い。内心苦笑しながらお迎えし、味わう。

「お、確かにこりゃ美味いわ。それにしては難しい顔してたじゃん」
「うん。真ん中の苺、最初に食べるか最後に食べるか迷ってた」
「ぶふっ、どんだけ真面目に悩んでんの」
「重要な事だよ。ちなみに萩原だったら?」
「俺?俺はね……一番最後かな」

たっぷり間を取り、含みを持たせて答える。不思議そうに見返す彼女は、俺の言葉の真意に気付かないだろう。嗚呼、食べるのが今から楽しみで仕方がない。

「もうすぐ大学生活も折り返しだね」
「そうだな。あーあ、卒業したら世間的にも大人だから、ヤンチャできるのも今のうちか」

店を出て、並んで通りを歩く。名残惜しげな俺とは裏腹に、苗字はどこか楽しそうだ。

「大人になっても、少しくらいなら罰は当たらないよ。萩原には、一緒に羽目を外してくれる友達が松田の他にもいるんでしょう?」

マフラーに顔を埋めて、悪戯っ子みたいに彼女が笑う。その横顔を眺めながら、あいつらとの記憶をなぞった。遠くて眩しい思い出が、再びやって来る。そうだ。大人だって、たまには馬鹿をやるのも悪くない。そして、おいたが過ぎた時は彼女に叱ってもらえばいい。むしろ最高じゃんか。

「あ、ここ寄ってもいい?」
「ん、いいぜ。何か欲しい物あんの?」
「うん。最近は乾燥が酷いから色々と。ちょっと時間かかるかもしれないけど大丈夫?」
「もち。ついでに俺も物色しよっと」

通りかかった雑貨屋にふたりで入る。するとすぐに、苗字が立ち止まった。入り口に設けられたブースには、加湿器が沢山並んでいた。
 
「一つくらいあった方がいいのかな」
「んー、あっても困らないとは思うけど、苗字はあんまり部屋に物置きたがるタイプじゃねぇだろ」

変な形の加湿器を手に取って、尋ねてくる。漂っているアロマの香りを嗅ぎながら、彼女の部屋を思い浮かべた。いつ行っても綺麗に整頓されていて、装飾品の類いは数える程しか置いていない。かと言って生活感がないわけでもない。キッチンの端には小さなお菓子箱、窓際にはサボテンが二つ。苗字らしい部屋だ。
 
「萩原って、私より私のことよく分かってるよね」
「そりゃあ誰よりも愛してるからな。分析に抜かりはねぇぜ」
「なんか怖い」
「怖いって…勉強熱心って言ってくれよ」
「ふふ、物は言いよう……だけど、必要か不要かで区別できる物ばかりじゃないよね。不要でも、便利な物は沢山あるし。不要寄りの必要って言えばいいかな」

気付いているんだろうか。なくても平気────いつかの彼女の言葉が耳に蘇る。あの夏、俺にそう言った君はひどく涼しい顔をしていた。少なくとも、未練や葛藤なんかは汲み取れなかった。でも今、俺の目に映る君はとても嬉しげで。そしてほんの少しだけ、悔しそう。それを見て、彼女もまた俺と同じ記憶を浮かべているのだと悟った。君を変えたのは俺なんだと、自惚れてもいいのだろうか。

「俺も、不要寄りの必要?」
「まさか、必要寄りの必要だよ。いや、ちょっと待って。むしろそれ以上…んー。あ、必要の最大値」
「急に数学」

敢えて意地の悪い質問をしてみれば、俺の心の裡を全部見透かしたように、苗字は満足げに答えた。なんだか泣きそうになって、笑って誤魔化す。そっと目を伏せ、瞬き。次に目を開けると、少し先から彼女が俺を呼んでいる。変わってほしいとは思わない。どんな君でも愛している。それでも、君の変化の理由が自分だという事実に、堪らなくなるんだ。

「これ、気になってたやつ」
「ハンドクリーム?」
「そう。付けたばっかりでもベトベトしないんだって。今朝のテレビでやってた」
「マジか、そいつは革命的だな」

試供品で感触と香りを確かめる。3種類のうち2種類を両手の甲に塗ったところで、手が2つしかないことに気が付いたらしい。笑いを堪えつつ自分の右手を生贄に捧げた。そして、互いの手を嗅ぎ合うという合法的な夢の時間を味わった後で、コスメを手に取り吟味する彼女を眺める。当たり前のことだけど、どれも姉ちゃんが使っていた物とは違う。肌の色味とか性質は人によって異なるし、好みも勿論ある。苗字は真っ赤なルージュなんか選ばないだろうし。てか、ピンクだけで何種類あんだよ。女子ってマジで大変。

「色で迷ってる感じ?」
「いや、口紅は何本かあるけど、グロスは持ってないから試しに買ってみようかなって」
「確かに1本あってもいいかもな。無色のやつなら、口紅に上塗りできるし。この時期だと乾燥するから特に入り用」

迷っている時は大抵、気持ちが片方に傾いていることが多い。今はたぶん、買いたい気持ちが強め。こういう時に背中を押すのは俺の得意分野だ。
 
「だけど、グロスって落ちやすいんだよね」
「じゃあ俺といる時だけ塗ればいいじゃん」
「……それ、何も解決しなくない?」
「落ちてたら教えるし。それか俺が塗り直してあげてもいいぜ。な、万事解決だろ」

今にも陳列棚に戻されそうになっていたグロスを奪ってカゴに入れる。得意顔を向けてやると、彼女はくしゃりと笑った。拗ねちゃいそうだから内緒だけど、キスした後に少しはみ出てると興奮するんだよな。

「お、それ俺も買うわ。切らしてたんだよな」
「え……男の人もパックするの?」

呆然と尋ねられる。余程驚いたのか、手に取ったフェイスパックを落としそうになるから、慌てて受け止めた。ギリギリセーフ。

「今時そんな珍しくねぇと思うけど」
「そう、なんだ。じゃあ松田も…、
「あー、陣平ちゃんはしねぇな。あいつの場合、睡眠と食事で肌質を保ってる」
「やっぱり萩原が少数派だよ。だって叔父さんがパックしてるところ見たことないし」
「いやいや、男の人の範囲よ!!」

松田の次が治孝さん。例の少なさに思わず突っ込まずにはいられなかった。でも、内心凄え嬉しかったのは秘密。俺以外の男のことなんか知らなくていい。君にこうして触れるのは、後にも先にも俺だけでいい。きっと、この幼稚な執着心とは、これから一生付き合うことになるんだろう。なら、今のうちに良好な関係を築いておくべきだ。
 
**

「海?」
「そ、行こうぜ」

夏。突然の誘いに戸惑いながらも、苗字は小さく頷いた。数日後の夜7時、アパートのチャイムを鳴らす。出迎えた彼女の格好に、苦渋の選択をするしかなかった。肩に手を置いて、提案する。

「めちゃくちゃ可愛いけど、パンツにしよ」
「えっと…どこか変?」
「んな訳ねぇだろ。実は今日、バイクなんだよね。だから上着も持って来て」
「バイク…え、凄い!買ったの!?」

予想以上の好反応。俺じゃなくても分かるくらい燥いでいる。乗ったことがないからだろう。ここまで期待されちゃ、応えるしかない。
 
「そ、お陰で金欠だぜ。だけどま、苗字とダンデムデートできると思えば安いもんよ」
「嬉しい。ちょっと待ってて、着替えるから」

サンダルを脱いで、部屋の奥へと駆けて行く。ウキウキしている背中を見たら、口元が自然と緩んだ。楽しみだな。暫くして戻って来た彼女は、上着を羽織り、ジーンズ姿。さっきは素足だったけど、今は靴下を履いて、横髪もちゃんと留めてある。流石、準備がいい。

「お待たせ」
「うし、そんじゃ行きますか」

バイクに跨って、側に立っていた彼女にメットを被せてやる。シールド越しに覗く、少し不安げな瞳。初めてジェットコースターに乗る子どもみたいで、思わず笑っちまった。

「ちゃんと掴まってりゃ大丈夫だって。左手は俺の腰、右手は後ろのバーな。もし体調悪くなったりしたらすぐ言えよ。走ってる間は声聞こえねぇから、肩叩いてくれりゃいいからさ」
「わかった。なんだかお父さんみたい」
「お父さん…人が緊張を紛らわそうとしてるとこれだもんなぁ。参っちまうよ、ほんと」

さっきの面持ちは何処へやら。クスクス笑うもんだから、つい力が抜けた。肩を竦め手袋をして、彼女が後ろに乗るのに手を貸す。
 
「緊張してるの?」
「そりゃ好きな女を乗せるんだぜ。平常心とはいかないさ。まぁ、運転でヘマはしねぇから、そこは心配しなさんな」

夜の街をバイクで走り抜ける。少し遠くに夜景を望む道。背中には愛しい彼女。最高だ。都心から離れるにつれて段々と車の量は減り、煌びやかなビルの群れも見えなくなる。目的地に着く頃には8時を回っていた。

「夜の海なんて初めて」

声を弾ませ、苗字が駆けて行く。波音に耳を傾けつつその背中を追った。周囲に明かりがないから星がよく見える。視線を戻すと、波打ち際で彼女が振り向いた。こういう時は、何を思っているのか顔に全部書いてあんだよなぁ。

「星だろ。ああ、綺麗だよな」

応えるように頷けば、嬉しそうに笑い返してくる。いくら星が出てると言っても夜だ。少し離れたら、表情も見えなくなる。手の届く距離を保ちながら、他に誰もいない海岸をただ歩いた。半歩前の彼女の足取りは軽い。どうやら楽しんでくれているらしい。連れて来て良かった。ふと聴こえてきた鼻歌に、口角が上がる。微笑ましかったわけじゃない。流行りのバンドの曲。そこまではいい。可笑しかったのは、それがウインターソングだったことだ。季節感が皆無。吹き出すのを堪えて、メロディーに声を乗せる。

「萩原、歌上手だね」

尊敬の眼差しに、気分が良くなる。立ち止まり目を丸くしている彼女の手を取って、リズムに合わせステップを踏む。

「え、なに、ちょっと待って。私、踊りなんてやったことない」
「はは、俺も。いいじゃん、下手くそだって。ほら、ワンツーワンツー」

古い洋画のワンシーン。シャンデリアの下で主人公とヒロインがワルツを踊るシーン思い出しながら、それっぽくリードする。引いては寄せる波から逃げるように前に後ろに、右に左に。両手を繋いでぐるぐる回れば、戸惑い顔だった彼女が肩を揺らし始める。

「ふは、なにこれ恥ずかしい」

花が咲くように笑う顔。堪らなくなって、その身体を抱き上げる。驚いた声も、大きくなる瞳も、全てが愛おしい。子どもにするみたく一回転してからお姫様抱っこ。

「俺しか見てないんだから、いいだろ」
「全然よくない。へっぴり腰だったって、絶対に後で思い出して揶揄うでしょ」

そう言って、プイとそっぽを向いてしまう。少し口を膨らませる仕草。拗ねた顔が可愛い。笑った顔はもっと可愛い。色づいている頬へ鼻先を寄せれば、ピシッと身体を硬くするのが面白い。

「お、下ろして」

危険を察知して、腕の中で彼女が身動ぐ。逃すもんか。意地の悪い条件を提示しつつ、頬と頬をくっ付ける。
 
「いいぜ、ちゅーしてくれたらな」

大人しくなったのを好い事に、調子に乗って頬擦りすれば、ふっと笑う気配がした。しょうがないなぁが詰まった微笑み。愛しい手が髪を耳にかけて、目尻を撫でてくれる。いつも俺が彼女にするのと同じように。首に腕が回される感覚に顔を上げると、大きな瞳に囚われる。距離が近づくにつれて閉じていく瞼を見るのが好きだ。キスした後、恥ずかしそうにしながら目を逸らさないところも。

「愛してるのぎゅーっ!!」
「……約束が違う」

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