月と狼

2104年10月。盛大に欠伸をしながら、名前はカーソルキーを連打していた。それに呼応し、PCの画面はまるでフラッシュ暗算のように次々と移り変わる。しかし彼女は、映し出される情報全てを記憶していた。指が動きを止めないのは、そそられる候補・・がいないからだ。

「だぁーーー!多すぎる。指痛くなってきた」

右手を何度か開閉し、溜息をつく。しかし匙を投げるわけにはいかない。これは、今後を大きく左右する選択なのだ。使えない奴は論外。頭が良いだけでも駄目だ。頭脳は欲しい。だが、崖の上を笑いながら走れるくらいの愚かさがないと困る。身体能力も自分と同等かそれ以上が望ましい。理想を並べ出したらキリがない。そもそも、巫女から社会に不要だと判断された人間達の中に、果たしてこの条件を満たす人材がいるのか。そんな疑問が頭を掠めたところで、名前は鼻を鳴らした。

「駄目だな。単調な作業だと思考が鈍る。危うく詐欺師シビュラを信じちゃうところだった」

反省するように側頭部を左手で軽く叩き、対象を潜在犯から、国内の人間全てに変更。複数の条件を付与し、検索。再びソートキーを弾く。それから1時間34分後、キーボードを叩いていた右手が止まる。グイと画面に顔を近付けて、彼女は笑った。その笑みは気味が悪いくらいに美しい。

「やっぱり、巫女様は当てにならない。信じられるのはこの目だけ────さて、どう勧誘するかな」

それは、鬼が金棒を見つけた瞬間であった。跳ねるような声でそう言いながら、名前は上唇をひと舐めする。画面に映るのは、一人の男。緑色で深海のように暗い瞳と、胸の下まであるだろう長さの黒髪が印象的だった。諦めの中に、確かに飢えが居座っている。その人間らしさは、他の候補者には感じられないもの。胸の高鳴りを覚え、名前はひとり微笑んだ。

「・・・・提示した候補の中に彼はいなかったはずだが?」
「ええ。しかし彼にも、執行官適性が出ている。我らがシビュラがそう判定した。局長は適性のある者をリスト化したと仰ったので、漏れかと思っていたんですが、まさか意図的ですか?」

悪びれる様子もなく尋ねる。そもそも彼女が洗ったのは、渡されたリストだけではない。外せない条件で絞り込み、ヒットした人間全てである。つまりその中には潜在犯でない者達も含まれていた。お眼鏡に適ったのが、偶々・・潜在犯で、尚且つシビュラに執行官適性があると診断された人間だったのだ。

「いや、構わん。好きにしたまえ。時間の無駄になると思うがね」
「何故です?」
「懐柔できはしない。噛み付かれないように注意を払うことをお勧めするよ」

冷淡な瞳でそう言った上官に、名前は笑みを深くする。いつか自分が噛み付かれることになるとは思わないのだろうか。肩を竦め、忠告に返答することなく部屋を出た。何を言われようと、もう決めたことだ。彼でなければいけないと、そう心が言っている。名前にとってそれは、最優先事項。嫌いな上司の言葉など、比べるに値しない。軽快な足取りで向かった先は、更生施設。真っ白な空間は、落ち着かない。通された部屋で顔を歪めていると、待ち人がやって来る。白い室内に現れたその男は、黒を体現したような出立ちをしていた。闇を全身に塗りたくったような上下黒の服に、人を呪い殺せそうな目をしている。襟から覗く首がやけに白く見えた。捲った袖から伸びる腕は太く、手の骨格は彫刻のようだ。服越しでも、その下の肉体が屈強であることがよく分かった。男は気怠げに向かいの椅子に腰掛けて、名前を見ようともしない。それでも彼女は嬉しそうに喉を鳴らした。机に左頬をくっ付けて、覗き込んで声をかける。

「変わった色の瞳ですね」

その瞬間、男−赤井−は得体の知れない衝撃に襲われる。足先から頭の天辺まで何かが駆け上がるような感覚だった。無意識に椅子を引いて、距離を取る。なんだ、こいつは。鈴のような声音、自分より何倍も細い身体。怯える要素など何一つない。誰かに似ているわけでもない。見たこともない女だ。そのはずなのに、赤井は確かに恐怖していた。視線を合わせた瞬間にはもう、手遅れだったのだ。数年後、ふたりがこの時のことを語らった際、名前は言った────お互い、一目惚れだったってことですね、と。

「初めまして、赤井秀一さん。私は名前・ルートヴィヒ、この腐りかけの世界を守る仕事をしています。でも世界の話なんてどうでもいい。今日は、貴方を攫いに来ました」

その全てに動揺した。言葉も態度も、怖いくらいに正直だ。目を見れば分かる。この女は本気で言っている。潜在犯の自分と、本気で会話をしようとしている。何故、そんなに冷静なのだ。恐ろしくはないのか。今までこうして会いに来た奴らとは明らかに違う。彼らは皆、遥か上から見下ろすように語りかけてきた。まるで井戸の底を覗き込むが如く。しかし赤井は決して、彼らを非難するつもりはない。潜在犯というのは、そういう存在なのだ。それが普通で、自然。なら彼女は異常なのか。こんなにも美しく、眩しいのに。そんな事を思う自分への動揺を誤魔化すように、赤井は努めて毅然と返事をした。

「攫うだと?戯言を。お前のような小娘に何が出来る?甘く見られたものだな。耳触りのいい言葉など俺には通じない。他を当たれ」
「はは、気性が荒くていいですね。抗うのは大事です。そうだ、ここを出たらまず喧嘩しましょうか。ああでも、死にたくはないのでお手柔らかに」
「話を聞け。俺は付いて行くなんて言っていない。シビュラに尻尾を振る犬に成り下がるつもりはない」
「随分とつまらない冗談を言いますね。貴方には、私がシビュラの奴隷に見えるんですか?」
「・・・・いや」

見開かれた瞳に、赤井は思わず首を振る。会話に流されて、思ってもない事を言ってしまった。シビュラの奴隷には、とても見えない。そもそも彼女はさっき、この社会を腐っていると断言したのだ。吐く言葉と立場のちぐはぐさに、赤井はいよいよ動揺し始めた。健常者と潜在犯の間にあるのは、目の前のガラスのように薄っぺらい境界ではない。意志でどうにかなるものではない。なのに何故か今は、彼女と自分の間にある境がひどく曖昧に思えた。少し手を伸ばせば届く気がした。

「薄っぺらい仮面は外してください。潜在犯と話をしに来たんじゃないんですよ。私は、赤井秀一と話がしたいんです」

ああそうか、と赤井は理解する。これまで尋ねて来た人間と彼女の違いを。この女は、自分がいる場所まで降りて来て話しているのだ。そうしなければ、己の言葉が届かないことを分かっているから。潜在犯と会話するだけでも精神への負担だと認識されているような社会で、彼女は今、赤井と対等であろうとしている。

「この立場はシビュラが決めたもの。貴方が囚われる必要はありません。こんな窮屈な檻など早々に見限って、私と行きましょう。退屈はさせません。むしろ忙しくて発狂したくなりますよ」

立ち上がり腕を広げて、名前は深呼吸をしてみせる。閉鎖された空間にいながらも、その姿は空を羽ばたく鳥に見えた。雨風を諸共せず飛ぶ、翼。この時にはすでに、つまらぬ反抗心はどこかへ消えて、自分は彼女の手を取るのだという確信が赤井の中に芽生えていた。その目に映る景色を共に見てみたい。こんな澱んだ沼のような世界でも、まだ息ができるのなら、この風変わりな女に付き合うのも一興だ。

「お前は・・・なんなんだ、一体」
「人間です。貴方と同じ」

名前はそう言って微笑む。その表情は煌々としていた。赤井はふっと頬を緩めた後、今度は声を上げて笑う。嗚呼、先が楽しみだと思うのはいつ以来だろう。まだ、死ぬわけにはいかない。端から諦めてなどいないつもりだったが、心のどこかで二度と叶うことはないと思っていた。それが今、目の前にある。こんなにも近くにせいがあるのだ。掴まずにいられるはずがない。

「理由を聞かせてくれ。何故、俺なんだ?」
「生きているからです」

表情を引き締め赤井が問うと、彼女は間髪入れずにそう答えた。それが文字通りの意味、身体的にという意味でないことは理解できる。この施設にいる人間達の生命活動は停止していない。なら、その言葉の真意はただ一つ。可視化できない厄介な代物────心。赤井自身、己のそれはもう息を止めていると思っていた。しかしそれが今、再び脈を打ち動き出そうとしているのを感じる。本人にすら聞こえていなかった小さな息遣いを、彼女は拾ったのか。そして、虫の息のこの心を、傍に置きたいと言っている。大層な物好きが居たものだ。

「まずは詳細を。それから判断する。メリットが無い契約なら、辞退させてもらう」
「やった!それじゃあ、仕事の話と私の話、どちらから先に聞きたいですか?」
「ちょっと待て。後者は必要ないだろう」
「んー、でも私は貴方の過去を知っているんですよ。契約の内容的に、それは不味い。よし、じゃあまず仕事の話からしましょう。うん、順序的にもその方がいい」

全く以って理解不能だ。突っ込みが追いつかず、赤井は遂に疑問を持つことを止めた。姿勢を正し、椅子を引く。それを見て名前も座り直し、机の上で手を組んだ。ガラス越しに視線を合わせ、赤井は思う−−−なんて目をするのかと。これでもそれなりに修羅場を潜ってきた。目的の為なら躊躇わず人を殺せる。今さら何かに怯えることなどないと思っていた。そんな自分がまさか、こんな年下の女と対峙して、恐怖を覚えることが信じられない。しかしやはり、赤井もまた普通ではない。その恐怖が堪らなく心地がいい。湧き上がる高揚感に体が震える。その時、ガラスの向こうで彼女が微笑んだ。

「へぇ、本来はそんな色彩だったんですね」
「なんの話だ?」
「瞳。さっきまでとは別物ですよ」

自分の瞳を指差して、名前はそう言った。目を細めながら喉を鳴らす様は、気高い猫科の獣を思わせる。その毛並みはきっと、手触りが良いに違いない。心底嬉しそうに言うものだから、赤井は何も紡げなかった。心が潤っていく感覚がする。まるで枯れ果てた大地に雨が降るが如く。ドクドクと聞こえるこの音はなんだ。心音に似ているが、どこか違う。戸惑うように己の左胸を撫でる彼を見て、名前は再び笑った。そして、美しい唇からこれから交わす契約の内容が語られていく。たった一人だけで紡いできた物語に、新たな物語が交わろうとしていた。

−−fin.−−


りりあ様へ
こんにちは。赤井さんのリクエスト、凄く嬉しいです〜🥹なんと言っても私肺での赤井さんは相棒ポジなので。そのため、どうしても糖度が低めになってしまいます。今回もまた然り。ご満足いただけたでしょうか?本編開始前ということもあり、赤井さんの警戒心が強めなんですけど、もう目が合った瞬間に落ちてます。なんか癪だし抵抗しようと思ったけど、無理だった的な感じ。魔性の女かよ!!ちなみに…降谷さんは、ヒロインが候補者の中から赤井さんを選んだと認識していましたが、違いました。マジで砂粒の中から掬ってます(笑)もう運命だよ、あんた達。というわけで、とても楽しく書かせていただきました!機会がありましたら是非またリクエストくださいませ。

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