1. 憎い。憎い。憎い。憎い。
    殺してやる、絶対に。その為ならば私は−−。


    苗字名前、十歳。季節、夏。夏は嫌いだ。汗で着物はベタベタだし、髪が頸に貼りつくのが鬱陶しい。夏も冬も私の日常は変わらない。毎日、野菜の世話、屋敷の掃除、そして着物を繕い、ご飯を作る。
    両親はいない。別に孤児だとか、売られたとか、そういうわけではないから、自分が不幸だと思ったことはなかった。父も母も五つの時に川に流されて死んだ…らしい。

    『いいか、名前。父さんと母さんは、死んでしまったんだ。お前はあまり覚えていないだろうけれど、優しい人達だった。お前の髪は母さんのにそっくりだ。目元は父さん似だな。それはお前が二人の子供という証。傍にいなくても、きっと守ってくれる』

    "死ぬ"ということを理解できるようになって、兄からそう聞かされた。記憶はあるが、正直それも朧げだから淡白な感情しか抱かなかった。

    −−−傍にいないのに、守れる訳がない

    今思えば、捻くれた子供だった。無邪気で無垢な娘だったら、兄も安心して妻を娶っただろうに。兄とは九つ歳が離れている。私とは似ても似つかない、誠実で、優しく、穏やかな人だ。暇を見つけては近くの道場に通い、剣を振るっていた。所詮、農民の子は農民。武士になど、なれる訳がないのに。毎日のように道場での事を話すくらいだ、余程剣術というものが楽しいらしい。友人と呼べる人もできたようで、その人の事を誇らしげに語るのも常になった。

    うちには指南料として銭貨を納める余裕がないから、余った米や野菜を持っていくのを度々見かけた。こちらが納めている側なのに、うちでは作っていない野菜を貰ってきたりするから、それはもう指南料ではなく物々交換だと突っ込みたくなる。私の唯一の家族。お人好しで、器用貧乏な、兄。

    −−−−−

    その日、兄が忘れていった採れたての野菜を道場に届けに行った。私は兄ほど剣術には興味がない。このまま大人になり、どこぞの農家の男と結ばれるのだろうと思っている。武士の嫁になる気も、江戸の街に出て行く気もなかった。だから、毎日聞かされる道場にも今日のような足を運ぶ機会がなければ近づくことはなかったに違いない。

    敷地内は思っていたよりも広く、野菜で一杯の籠を両手に持ちながら歩き回る羽目になった。
    そろそろ忘れていった兄に恨み言を吐きたくなった時だ。

    「一人じゃ勝てないくせに、強がるなよ!」

    声がした方を向けば、子供が四人。うち三人は自分に背を向け、手には木刀を握っている。唯一、こちらを向いている少年は地面に尻をつけ、俯いている。歳は私と同じくらいらしい。

    厄介なところに居合わせてしまったと、内心そう思った。三人がかりで痛めつけ楽しんでいる。周りに大人はいない。こういう奴ほど悪知恵が働いたりする。

    見て見ぬ振りをしようと踵を返そうとしたとき、少年と目が合った。薄茶色の髪の間から、文字通り燃えるような瞳が見えた。息を呑む。危うく野菜を落とすところだった。

    鼻から息を吐き、籠を足下に下ろす。軒下に置いてあった桶を覗き込めば、昨晩降った雨水で八分目ほど満たされている。桶を手に、履いていた草履を脱ぎ捨てて抜き足で少年達に歩み寄った。その間も茶髪の少年への罵倒や暴言は止まない。桶を持つ手に力が入る。こんなのが武士になんてなれるものか。そして、真ん中に立つ少年の後頭部を目掛けて桶の中身をぶち撒けた。

    沈黙。ずぶ濡れの少年はおろか、両隣の二人も何が起きたか分かっていないらしい。手に持っていた木刀を取り落とした。それを透かさず引ったくり、前方に回り込んで、だるま落としよろしく三人の脛を叩けば短い悲鳴が三つ上がった。清々する。

    「な、なんだよお前!こんな事していいと思ってるのか!」
    「だるまが喋らないでよ。二対三だもの、卑怯なのはどっち?腐った大根みたいな根性ね」
    「なっ…!!」

    口喧嘩で負ける気はしない。大声でまくし立てたことで、人が来るのを恐れたようだった。言い返そうとした少年達も、見つかったらまずいという自覚はあるらしく、そそくさと奥に消えていった。

    「腐った大根…」

    振り向けば、少年はぽかんとした表情をしていた。さっきの瞳は気のせいだったのかと思うくらいに。遠目ではよく見えなかったが、腕や足の所々に痣がある。頬の傷は先程のものだろうか、血がまだ止まっていない。手を伸ばして着物の裾で血を拭ってやると、やっと我に返ったらしい。

    「着物に血が…」
    「いいよ、別に。どうせ農作業で土塗れになるんだから。それに、米のとぎ汁で洗えばすぐ落ちる」

    やっぱり同じ歳くらいだ。背丈もそれほど変わらない。頬を拭ったときに触れた髪は猫みたいに柔らかく、大きな目は男の子にしては可愛らしい。

    「君は、だれ?」
    「名前。苗字名前。あんたは?」
    「僕は沖田総司。なんで、なんで助けたの?」

    この子、可愛い顔してお礼のひとつも言えないのか。顔が引きつるのを感じたが、なんとか抑える。

    「あの子達みたいな根性悪が逃げてくの見るとスカッとするじゃない?」
    「君も剣術を習ってるの?」
    「まさか!私、女だよ。それに農家の娘だし。握るのは鎌くらい」

    質問ばかり。やっぱり助けなきゃよかった。知らない世界が見えるから、他人と話すのは苦手だ。ちょっと垣間見るだけでも自分の人生より、ずっと輝いて見えるから。毎日同じことの繰り返し。そして死んでいく。当たり前のことだと思い続けていれば楽なのだ。
    別に剣術だけじゃない、舞踊や茶会、綺麗な着物や簪、食べたことのない菓子。ぜんぶ、自分には縁のないもの。

    「…助けてくれて、ありがとう」
    「は?」

    思わず間抜けな声が出た。いつもは表に出てこない気持ちが浮かんできて戸惑っているところに不意打ちだった。
    なんだ、ちゃんとお礼言えるのか。それも真っ直ぐ目を合わせて。じっと見つめると、ぷいっと顔を逸らされた。それが何だか可笑しくて、くすっと笑った。

    十歳の夏に出会った少年は、生意気で負けず嫌いだけれど、優しくて強い、私にとって一等大切な男の子になるのだ。
 - 表紙 -