1. 聞けば、総司はこの道場の門弟らしい。聞いてもいないのに意外によく喋る。お陰様で、道場のことは大体分かった。道場主は周斎先生ということ、流派は天然理心流。総司の他にも剣術を学んでいる子達がいること、そして、この子は"近藤さん"という人をかなり慕っているようだ。元々大きい目が彼の話をする時は更に大きくなる。

    「ねえ、私の兄さんがここに来てるはずなの。知らない?少し気の弱そうな背の高い人なんだけど…」
    「兄さん?もしかして、誠志郎さんのこと?」

    なんと。人助けもしてみるものだ。情けは人の為ならず。と言っても、兄−苗字誠志郎−は何度もここに足を運んでいるから別に驚くほどでもないか。

    兄はどうやら件の近藤さんと一緒にいるらしい。案内してくれると言うので御言葉に甘えることにする。天邪鬼だと思いきや意外に素直でいい子なのかもしれない。

    日向に置きっ放しになっていた籠を持ち、付いていく。総司の痣は一見すると見えない所にある。着物で隠れる腕や足、髪で見えない頸。自然と顔が歪むのを感じる。さっきの場面に居合わせたのだから、痣の原因は大方予想がつくし、今回が初めてではないのだろう。

    不意に立ち止まり、何か言いたそうな総司と目が合う。なんだ?数刻も一緒にいないから失礼かもしれないけれど、言い淀むような子には見えない。やっと口を開きかけた時に聞き慣れた声が鼓膜を揺らした。

    「名前?お前、どうしてここに…」

    声の方を向けば見慣れた姿がある。どうやら、この兄は妹が必死に野菜を届けている間、剣を振るっていたらしい。額に汗が滲んでおり、お陰で普段は風に揺られる父譲りの茶色の髪が頭に張り付いている。

    「兄さん、野菜忘れていったでしょ?届けに来たのよ」
    「そうか、届けてくれたのか。悪い、悪い」

    いつも、そうだ。ニコニコして、頭を撫でるから何も言えなくなる。天邪鬼なのは総司ではなく私の方だ。
    親の愛情は知らない。優しい人達だったと聞かされたところで実際に優しくされた記憶はないし、その親が生きていれば苦労も少しは減っただろうにと思うことすらあった。

    でも兄は一度も両親の悪口を言ったことはない。捻くれた私は美化しているだけだと罵ったこともある。
    それでも少し眉を下げて仕方なさそうに笑う、この人こそが私の兄で、親で、家族だ。私がどんなヘマをしても見限らず、間違った事をすれば叱ってくれる唯一の人。悔しいけれど、きっと大切だ。今の自分には素直に認めることすら難しい。

    「誠志郎君、彼女が君の妹か?なんと、総司も一緒か!」

    穏やかな、それでいてハキハキとした声。奥から柔和な顔立ちの人が姿を現す。驚いた。似てる、そう思った。安心する声と雰囲気は兄にそっくりだ。カラカラと笑いながら縁側から降り、私と目を合わせるように片足をついた。

    「やあ、名前君。俺は近藤勇だ。君のお兄さんとは友人でな。剣の稽古に付き合ってもらっているんだ。いつも美味しい野菜をありがとう。それにしても、総司と一緒だったか!」

    私と総司を交互に見やりながら嬉しそうに話す。総司は真新しい腕の痣を背に隠しながら、控えめに笑った。

    「初めまして、近藤さん。総司には門の所で会って案内してもらったんです」

    嘘を、ついた。総司が呆然とこちらを見ているのを感じるけれど、仕方がないじゃない。だって本当の事知られたくないでしょう?だから、後ろで腕を組みながら、そんな風に笑うの?大切だから、尊敬しているから、心配させたくないから。こんな自分を見たらどう思うかなって、考えてしまうのでしょう?
    さっき言い淀んだのは、口止めしようとしたのだろう。

    おかしい、私はこんなに優しい女の子ではないのに。生きるだけで精一杯、自分の気持ちも中々言えないのに。いい子のふりをしても見返りなんてない。でも、チクチクするし、さっきみたいに顔が歪むから今以上に醜女になりそうだもの。だから、深く考えもせずについた嘘はこれから先も誰に言うこともない。

    −−−−−

    『折角だから夕餉を食べていくといい』

    そう言われて、兄と二人ご馳走になることになった。昼間、総司を甚振っていた少年達もその席にいた。私の姿を認めた途端、顔を顰める。性根が腐っている人間は姿形も醜い。ふいと顔を逸らして、黙々と箸を進めた。

    さっきの事があってから、総司は少し余所余所しい。やっぱり余計なお世話だったか。
    そんな事を考えながら、ふと見ると眉間に皺を寄せて椀を覗き込んでいる。中身は豆腐とネギの味噌汁。

    「もしかして苦手なの、ネギ」

    びくりと肩を揺らしたところを見るに図星のようだ。ジロっとこちらを見る目には一番最初に見た、あの炎のような瞳は影も形もない。恥ずかしそうなその顔は普通の男の子。嫌いな食べ物があると近藤さんに知られたくないらしい。プッと吐き出した私に気付いて、兄と近藤さんがこちらを見る。それに慌てた総司が可笑しくて益々笑いが止まらなくなった。

    ずっと同じだと思っていた日常が変わっていくのを肌で感じる。凡庸な日々を生きるのが少しだけ楽しくなる感覚。

    −−−−−

    それから時々、道場に顔を出すようになった。兄に連れられて行くことが殆どだったけれど。総司とは一緒に過ごすことが多かった。あの根性悪の少年達より何倍もいい子だし、時々見せる年相応の顔を見つけるのが楽しい。

    そして、総司の痣は目に見えて減っていった。虐められることが無くなったのかと思ったが、そうではなかった。"しなくなった"のではなく、"できなくなった"のだと知った。

    ある日、試合形式の打ち合いを見学したときのこと。言葉を、失った。目を奪われた。と言っても目では追いきれないほどの太刀筋。素人目でも分かるくらい、抜きん出ている。これでは三対一でも勝ち目はない。
    剣を握ったとき、あの炎のような瞳を見た。総司は一人でも強い。少しだけ羨ましい。あれほどの才能があれば、武士にだってなれるかもしれない。こんな片田舎で腐るのは勿体ないと思う。けれど、総司は兄のように武士になりたいわけではない。ただ役に立ちたいだけ。一番大事な人、近藤さんの為に。

    私には剣術の才能はない。一度、木刀を持たせてもらったけれど、とても総司のように素早く操るのは一生無理だ。かと言って、求められるほどの美貌も知性もない。やっぱり道はひとつだけ。意気地なしの私には、それしかない。
 - 表紙 -