君に花を

狡噛慎也は過去に囚われている。それは事実であるし、自覚もあった。過去が全て悪霊というわけではない。しかし今、狡噛の眼が映す光景は、紛うことなき悪夢。何度目だ、この夢を見るのは────数えたくもない。

「……佐々山」

主人のいなくなった眼窩を覗き込み、狡噛は苦悶を滲ませた声で、絞り出すようにその名を呼んだ。佐々山光留。かつての部下。人としての尊厳を踏み躙られながら死んでいった男。胸に渦巻く復讐心の源となったあの日の惨劇が、リフレインする。馬鹿をやって笑った瞬間も確かにあったはずなのに、夢に見るのは決まってこれだ。まるでそれこそが、佐々山の全てであるかのように。反吐が出る。

「化けて出るなら、もう少しマシな格好にしやがれ」

皮肉を言っても、返事はない。音は虚しく消え、吐き気を催す空間で狡噛はひとり佇んだ。瞬きをすると、視界が切り替わり、今度は暗闇が現れる。どこまでも続く闇。地から足を引っ剥がし、歩き出した。一体どこを目指したらいい。否、どこだっていい。どちらへ行こうが暗闇だ。そういう道を、選んだはずだ。なのに何故、光を探す。どうして不安になる。漆黒に怯えていては、復讐など成し遂げられない。ならば、恐れるな。恐怖心を捨てろ。憎悪に呑まれてしまえ。そうすれば、息ができる。苦しくない。まるで誘うような甘い囁きが、浮かんでは消えていく。右から、左から、頭上から、足元から。男のものか女のものかも分からぬ声は、ひどく耳障りだ。だのに、このまま身を委ねてしまいたい衝動に駆られる。それでも抗うのはきっと────このボーダーを超えてしまったが最後、自分は獣となるだろう。そう本能的に悟っているからだ。

────どこへ行くの?

ふと、声が響いた。今度は間違いなく女の声。男のそれより細くて高音。それでいて、耳を塞ぎたくなるような不快な音ではなく、むしろ心地が良かった。狡噛は思わず足を止め、その出所を探すように辺りを見回す。しかし、視界には変わらず闇だけが広がっている。どこまでも果てしなく。歩いても、歩いても、抜け出せそうにない。気が狂いそうだ。

────狡噛

また、声。誰かが呼んでいる。刹那、闇に差し込む白。その眩しさに目を細めながら顔を上げた先に、誰かが佇んでいた。シルエットはぼやけ、顔すらも見えない。狡噛が必死に目を凝らしている間に、影は背を向け歩き始めた。慌てて追いかけ、手を伸ばし、衝動のままに叫ぶ。その単語の意味すらも、分からぬまま。

「っ、名前!」

指先が光に触れた瞬間、視界が弾ける。開いた瞳に映ったのは、見慣れた天井。腕を宙へ伸ばした状態で、掌には何も無かった。掴んだはずの光は、どこにも無い。荒い呼吸を数回繰り返した後で、深呼吸をする。そうしてやっと理解した。ここは現実だと。仕方なく五指を折り曲げ、空気を握らせてやる。

「最悪の目覚めだな」

笑い飛ばしたつもりだったが、己の声の情けなさに表情が消える。トレーニング明けにシャワーを浴びて眠ったのに、羽織ったシャツは汗にまみれていた。そのせいか、喉がひどく渇いている。気怠げに起き上がり、冷蔵庫の中にあったミネラルウォーターを一気に流し込み、シャワールームへ。服を脱ぎ捨て、降り注ぐ水の音に意識を集中させた。汗を流す程度に身体を洗い、部屋へと戻る。否、戻ろうとした。

「ハッピーバースデー!!」
「・・・・何してる、不法侵入だろ」

ドアが開いた瞬間、目の前に何かが突き出される。眼前にあるせいで視界が塞がれ、それが何なのかは分からない。鼻腔をくすぐったのは、嗅ぎ慣れない、どこか青くさい匂い。しかし、向こう側にいる人物の正体にはすぐ見当がついた。間抜けな面を晒したのはほんの数秒、狡噛は即座に腕を伸ばし、そこにあるだろう頭を両脇から鷲掴もうとする。ところが生意気なことに、相手はそれを躱してみせた。

「暴力反対」
「正当防衛だ」
「どう考えても過剰防衛。それに不法侵入じゃなくて、権利だから」
「世間ではそれを職権濫用と呼ぶんだよ。いくら権限があっても普通は実行しない」
「狡噛君、思い返してみなさいな。私のことを普通だと評した人間が今までいたかね?」
「……会ったことないな」
「左様。それに、暴れたら折れちゃうでしょ。せっかく綺麗に咲いてるのに、ダメになったら勿体ない」

軽口の応酬が終わった。いつも通り無邪気に笑いそう言うと、名前は胸元の何かに顔を近付ける。一方で狡噛は、先ほど見事に空を掴んだ両手を、仄暗い表情で見下ろした。復讐心を手にしようとしている自分が、この光に触れられるわけがない。それでも求めずにはいられない。愛とはつくづく面倒な代物だ。狡噛が自嘲気味に息を吐くと、その頬を何かが撫ぜる。

「よく見たら、沼みたいな顔色してる」

覗き込んで、名前が言う。揶揄うような声とは裏腹に、滑らかで冷たい指先はひどく優しかった。それだけで、狡噛の心はほんの少し軽くなる。なんとか笑みを浮かべるだけの余裕を取り戻し、普段の調子で言い返した。

「この程度なら大した深さじゃないな」
「……そうだね。それくらいなら這い上がってこられるよ」

狡噛の虚勢を見透かしたうえで、名前は微笑んだ。『引き上げる』ではなく、あくまで『這い上がれ』なのが彼女らしい。手を伸ばしてくれずとも、こうして案じてくれるだけで十分だ。

「で、それは何だ?」
「何って、どう見たって向日葵でしょ」
「見れば分かる。どうしてそんなもんを持って来たのかと訊いてるんだ。そもそも、ハッピーバースデーの時点で可笑しい。お前のことだ、俺の誕生日を誤認してるわけじゃないだろ……さっさと意図を話せ」

名前の手の中にあるのは黄色の花弁が特徴的な大輪の花、向日葵だ。香りから、現代では希少価値の高い生花であると判断された。そして今は11月で、狡噛の誕生月は8月だ。つまり、先の彼女の発言は場違いである。

「8月16日でしょ。知ってるよ、ちゃんと。これは、祝えなかった4年分のプレゼント────生まれてきてくれてありがとう、狡噛」

その花が霞むくらいの微笑みに、狡噛は言葉を詰まらせた。嗚呼、彼女はこんな人間すらも祝福するのか。そう捻くれた事を思いながらも、頭の隅ではきちんと理解している。名前は、狡噛だから祝福するのだ。たとえ彼がどんな暗闇を見つめていようとも、こうして出逢えたことは決して間違いではないのだと信じている。彼女の胸には疑念の欠片すらありはしない。そんな真っ直ぐな眩い思いに気付いてしまえば、拒絶などできるはずがなかった。狡噛は強張る指先をその花へと伸ばす。それを確認すると、名前は穏やかな笑みを湛え、そっと手を離した。

「ホロも造花も味気がない。感触も香りも、全てが揃って初めて本物。すぐに枯れちゃうところも、私は好き。花って本来そういうものでしょ。ずっと咲き続ける花なんて、存在しない」

狡噛の手に渡った向日葵を見つめ、名前は淡々と語る。朽ちるまでが花なのだ。購入したその足でここに来たからだろう。黄色の花弁はまだ瑞々しく、美しさを主張し続けていた。名前の声を聞きながら思う。枯れることのない、永遠に咲き続ける花を、狡噛は知っている。その花は今この瞬間も、暗闇で咲き誇り、彼の心を照らしている。

「何かを求めれば、何かを失うことになる」

ふと、名前の声に影が宿った。狡噛は顔を上げてその真意を探ろうとするが、視線は交差しない。彼女の瞳は向日葵を映しながらも、ここではない何処かを見つめている。狡噛はこの瞬間が苦手だった。不自由な世界で真実だけを追い求めながらも、自由を失わない。そういう姿に惹かれた。それは確かなのに、こうして隣にいると視線を独占したくなるのだ。恋情が抑えきれない大きさまで成長している。この欲求はその証明だった。しかし、持て余した感情を渡せるはずがなかった。それはきっと、彼女の心の枷となってしまう。

「そんな事は本能でわかっているのに、人間というのはどこまでも貪欲な生き物────私もそう。欲しいのはたった一つだけだった。他には何もいらなかったはずが、気付けば望んでしまっていた。手放し難くなるのは、大切だという証。世界の醜さを知ってなお自分が息をしていられるのは、この宝物のおかげだって、心の底では理解しているからなんだろうね……ごめん、喋り過ぎた」

我に返ったようにそう言って、苦笑を零した。いつの間にか、彼女の瞳は現実を映している。一歩身を引き、狡噛と向日葵をその中に収めると、徐に一言。

「もう一輪、買ってくればよかったかな」
「いや、これで十分だ。花の世話なんて慣れちゃいないし、そもそもこの部屋には不似合いだろ。俺よりも大事にしてくれる人間のもとに渡る方がずっといい」
「へぇ、自覚はあるんだ」
「どっちの話だ?俺か、それとも部屋か?」
「部屋の話。自己評価の方は、正直そこまで興味ない。というより、関係ない。貴方が自分をどう評価していようと、私の中での狡噛慎也に対する評価は変わらないから。私は、私が見てきた貴方だけを信じる」

相変わらずの辛辣さは健在。いっそ清々しいくらいだ。そして同時に、色褪せない愚直さが狡噛の胸を射抜く。敵わない。心では負けを認めたが言葉にするのは些か癪で、不自然な沈黙を挟んだ後、話題を戻すことにした。

「不要な物は置かないことにしているんでな」
「不要なら返品可だよ。さっきもう一輪って言ったのは、私も欲しかったからだし。見てたら飾りたくなっちゃった」

狡噛に悪意は全くなかったが、台詞だけ見れば感じの悪い言い方だったかもしれない。そう反省している間にも、会話は続く。そんな彼の不安を他所に、名前は少しも機嫌を損ねた様子はなかった。むしろ嬉しそうに、狡噛から向日葵を奪おうと手を伸ばしてくる。彼がそれを躱したのは反射による行動だったが、意思が後追いだったにすぎない。

「いるの、いらないの、どっち?」
「貰っておく。誰かさんは自分の世話で精一杯だろうからな。俺が世話をした方が長持ちしそうだ。こいつにとっても幾分かマシだろう」

自分が素直な人間であるとは思っていないが、ここまで幼稚だとは狡噛自身知らなかった。教育課程の最終考査で全国1位の頭脳も、好きな女の前では形無しである。いや、そもそもこの女が異質すぎるのが問題なのだ。そう責任を押し付けようとした時、『第三者の立場から見れば50:50だぞ、狡噛君』と、愉快そうな低音が脳内で響いた。せめてもの抵抗に、不敵に笑う白皙の男を睨み付けておく。

「お、上手いこと言うね」
「皮肉のつもりだったんだがな」

捻くれた言葉も諸共せずに笑い飛ばしてくる。些細な物事や言動では、揺らぎの一つすらその心に起こすことはできない。釣られて笑みを浮かべながら肩を竦めた狡噛とは裏腹に、名前は無表情で呟いた。

「私はあなただけを見つめる」
「なんだって?」
「向日葵の花言葉────狡噛にとっての"あなた"がいるなら、迷ったらダメだよ。たとえそれが深淵でもね」

洒落にならないアドバイスだ。文句の一つでも言ってやろうとしたが、上手く言葉が紡げない。名前はそんな狡噛の返事を待つことなく、最後に彼の手の甲をひと撫ですると、颯爽と部屋から出て行った。静寂が戻った室内で数秒ドアを見つめた後、深い溜息。棚からグラスを取り出し、半分まで水を注いだ。花瓶など常備しているはずがない。そこに向日葵を挿してテーブルの上に置く。大輪の花の住まいにしては、あまりに地味だ。

────あなただけを見つめる

そう聞いた時、狡噛の頭に真っ先に浮かんだのは名前だった。復讐を成そうとしているはずなのに、だ。正直に伝えていたら、どんな顔をしただろうか。彼女にも、そういう誰かがいるのだろうか。物言わぬ花を見つめ、答えの出ない問いを繰り返す。想像したところで、その通りの反応をされたことの方が圧倒的に少ない。数分後、そのことに気が付いて、狡噛はひとり笑みを零した。いつか贈り返してやればいい。そうすれば、いくら愛に鈍感な彼女でも、この想いの大きさを思い知るだろう。