よく晴れていた。憂鬱になるほど陽の光が眩しい。狡噛は、うざったそうに目を細める。少し先の背中を見つめながら、置いて行かれぬよう歩を速めた。風で靡く髪をそのままに、名前は軽快な足取りで人混みを縫っていく。すれ違う人々は潜在犯である狡噛達には目もくれず、舞い散る花弁ばかりを眺めている。そっと耳を澄ませば、聴こえてくる鼻歌。どうやら随分と機嫌が良いらしい。
「やっぱり桜は本物に限るね」
花弁を手に乗せて、名前は笑った。心で相槌を打つ。遠くから眺めるだけなら、ホロでも本物と大差ない。だが、いつになく嬉しそうな彼女を前にしては、流石の狡噛もそうは言えなかった。桜の雨の中で微笑む姿は、自分までもが真綺麗になったと錯覚するほどに美しい。思わず自嘲する。自分は、潜在犯でも復讐者でもない普通の人間になりたかったのだろうか。それが本心だったのだろうか。今となっては分からない。
「なにそれ、今だって普通の人間でしょ」
どうやら声に出していたらしい。振り向いた名前が、怪訝そうにこちらを見ている。その瞳には同情や心配は露程もなく、疑問の色だけが滲んでいた。狡噛が誤魔化すように肩を竦めると、興味をなくしたのか再び歩き出す。こんなにも美しいと感じるのはきっと、本物の桜だからではなく、彼女がいるからだ。一人きりだったなら、見え方は180度変わる。素晴らしい景色に感動できなくなるのが恐ろしい。それは、狡噛の世界から名前・ルートヴィヒが消えた時。そんな世界は死んでも御免だ。
「落ち方が駄目」
「何の話だ、一体」
「ホロの桜。このヒラヒラを再現できてないんだよ。いくらテクノロジーが発展しても、命は再現できない。生命の創造なんてさ、神じゃあるまいし」
「……お前は、機械に心は宿ると思うか?」
沈黙。珍しいこともあるものだ。答えに窮しているのか。それとも愚問だったか。歩を緩め狡噛の隣に並ぶと、彼女は答える為の条件を尋ね返す。
「完全な機械の話?それとも、サイボーグ化した人間も含まれる?」
「それによって答えは変わるのか?」
「当然。前者だと心が後付けになるでしょ。機械という身体ができて、そこに心が宿る。これは今のところ否定派かな。実際に見たこともないし。一方、後者は逆。心を持つ人間が、サイボーグ化した後も心を持ち続けられるかって問題になる。ああだけど、その場合は"宿る"とは言わないか……」
意外な答えだ。間髪入れず全否定されると思っていたが、例外はあるらしい。予想とは違う方向に会話が進んでいく。相変わらず、彼女の視点は面白い。狡噛としては、無意識に前者を想定した質問であったが、改めて機械の定義を問われると、即答できなかった。
「結局、私にとってその人が大切かどうかによる。どこまで義体化したら、人間は心を失ってしまうんだろうね。ま、五体満足のくせに捨てちゃう人もいるけど────大事な人には、たとえどんな姿になったとしても、心だけは捨ててほしくないな」
どこか祈るようにそう言って、名前は空を仰いだ。誰を思っての言葉なのだろう。その視線の先には誰がいる。無意識に手を伸ばし、細い腕を引いた。振り向いた力強い瞳が狡噛を映す。
「どしたの、変な顔して。ははーん、さては不安になっちやったのかなぁ、狡噛クン」
名推理だとばかりに指を鳴らし、クスクスと笑う顔。歳不相応な表情に、不覚にも目を奪われた。狡噛がどうにか仏頂面を貫いていると、今度は儚げに微笑み返してくる。途端に気配が薄くなった心地がして、慌てて手の力を強めた。
「そんな顔しなくていいよ。私が心を手放すことは絶対にないから」
嫉妬ゆえの行為だと訂正する暇すら与えてもらえなかった。名前はまるで子どもを宥めるような声でそう言うと、狡噛の手を取る。そして、桜が散る中を再び歩き出した。颯爽と、悠然と、迷いなく。
「考えるの疲れちゃったからさ、シビュラ的な結論にしておこうか」
「やめろ、鳥肌が立つ」
シビュラ的などと、どの口が言う。最も縁遠い言葉だろう。狡噛が顔を顰めて返せば、彼女は肩を揺らす。そうして一頻り笑い終えると、右手で銃の形を作ってみせた。小指と薬指を曲げ、中指と人差し指は揃え、親指を立てる。
「エリミネーターに変形しようが、ドミネーターで犯罪係数が計測されれば人間、でしょ」
銃口を顳顬に当て、歯を見せて笑う。その数値がどんなに最悪でも、それは人間である証明。しかし、狡噛は知っている。名前は、人か否かの判断をあの銃に委ねたりはしない。いつだって、その目で見て決断する。シビュラから人でないと判断されたとしても、彼女の肯定があればいい。艶のある髪が、桃色の花弁と踊っている。その光景を、狡噛は決して忘れはしないだろう。
**
フロアを覗くと、人影は一つ。この位置からでは背中しか見えない。生憎と目的の人物の姿はなかった。狡噛が出直すつもりで身を引くより先に、その一人が声をかけてくる。
「名前なら仮眠中だ」
身体をPCに向けたまま、指は忙しなくキーボードを叩いている。空耳かと思い、一拍。その間に男は吸いかけの煙草を灰皿に押し付け、振り返った。視線が合ってから、狡噛が尋ねる。
「……どうして俺だと?」
「足音さ。気怠げで、それでいて規則的。寂静の中に獰猛さもある。実に君らしい」
くつくつと喉を鳴らして、揶揄いの色を孕んだ瞳を向けてくる。狡噛はこの雰囲気がどうにも苦手だ。何を言っても墓穴を掘りそうな気がする。努めて無表情で近付くと、赤井は全てを見透かしたように口角を上げた。
「伝言なら預かるぞ。直接がお望みなら、そっちに顔を出すように言っておこう」
「出直します。この前の一件、報告書が仕上がったので名前にも確認を。そちらとの共同捜査でしたから」
「その為に態々。申請すれば通知がくるんだ。足を運ぶ必要はないだろう」
「……ご存知かと思いますが、通知が意味を成していない場合が多々あるので」
「なら、連絡を一本入れれば済む。尤も、君が瞬間移動できると言うなら話は別だが」
完敗である。やはりこの男、良い性格をしている。こうなって勝てた試しがない。狡噛はなんとか表情だけは変えずに見返したが、沈黙こそが心情を代弁していた。その様子にとうとう耐え切れず、赤井が声を漏らす。
「すまない、少しばかり揶揄い過ぎたな。正直に会いに来たと言えば良いものを。君は名前が関わるとまるで子どもだな。思考が手に取るように分かるよ」
「だからって、俺で遊ぶのは止してください」
「悪かった。控えるよう善処はする。しかし君も、随分と難儀な性格をしている」
「俺"も"?」
「男なんて皆そんなものだろう。意地を張りたがる生き物さ」
狡噛は今度こそ顔を歪める。知ったような口を。そんな反抗的な返事をすれば、また揚げ足を取られるに決まっている。即座に表情を戻し、心に立った波が決壊せぬよう注意を払う。
「貴方に言われても素直に頷けませんよ」
「俺も例外ではない。ただほんの少し、隠すのが上手いだけだ」
そっと目を伏せ、赤井は笑った。形の良い親指が缶コーヒーの口をなぞる様は、まるで映画のワンシーンのように感じられる。一つひとつの仕草が洗練されているのだ。優雅で、気品が漂っている。容姿が整っている所為もあるのかもしれない。そのくせ敵を前にすれば、途端に獣と呼ぶに相応しい目をして牙を剥く。どちらも彼の本性には違いない。と、その時だ。赤井のデバイスに通知が入る。リマインダー機能か。
「おっと、どうやら時間のようだ。狡噛君、悪いが頼まれてくれないか。我らが眠り姫のお目覚めだ」
「…さては、態と会話を引き延ばしましたね」
「そう言うな、役得だろう?いいか、起こす時は努めて優しく。乱暴な扱いも粗暴な声掛けも御法度だ。ラインに触れると、噛まれるぞ」
そう言って歯を鳴らし、左手を鉤爪のように構えて見せた。悔しいことに、らしくないポーズすらも様になる。本人に一切羞恥がないからだろう。狡噛が面食らっていると、赤井はヒラヒラと手を振った。了承などしていないが、どうやら拒否権はないらしい。そのうえ、まるで虎を起こす時のようなアドバイス。仕方なく大きく息を吐き、狡噛はフロアを後にする。幸いにも、名前はすぐに見つかった。小さく丸い後頭部は、ピクリとも動かない。滑らかな髪は、シーツの上に広がっている。そっと覗き込めば、芯の強い瞳は固く閉ざされ、肩は呼吸に合わせ規則正しく上下していた。声を掛けようと狡噛は口を開く。それと同時に、細い肩へ触れた手に力を込めた。刹那、シャツの襟元を掴まれ、勢いよく引かれる。突然の事に容易くバランスを崩し、気づけば体勢が逆転していた。狡噛の背中は、先程まで名前が横たわっていた簡易ベットと接している。状況を理解する間もなく、鳩尾を思い切り踏まれ、一瞬呼吸が止まった。続いて、間髪入れず首を絞められ死を覚悟するが、すぐに解放される。
「なんだ、狡噛か」
「げほっ、く……殺す気か」
「ごめんごめん、つい」
「"つい"で首を絞めるな」
両手を見せて無抵抗をアピールしてくる。しかし、その声には少しも反省の色はない。起こすだけでも命懸けだ。喉をさすりながら説教をしてやると、今度は見慣れた瞳を向け言い返してくる。
「自分を守るためなら、なんだってするよ。それで、こんな所で何してるの?まさか本当に寝込みを襲いに来た訳じゃないでしょ?」
「赤井さんに……いや、少しお前の顔が見たくなった。それで俺が代わりに」
「ふぅん。確かに、起き抜けに狡噛の顔は新鮮だね」
「危うく殺されかけるとは思ってなかったけどな。ところで、いい加減退いてくれないか」
狡噛は、未だ自分の上に跨ったままの名前を仰ぎ見て言った。この体勢は色々とまずい。理性的に。しかし、そんな男心など彼女が理解するはずもない。平静を装い懇願すれば、名前は存外素直に従った。
「お腹減ったな」
「食うか寝るしか脳がないのか、お前は」
「はは、だって人間だし。三代欲求のうちの二つだよ。従順で何が悪いの?」
もう一つに全く靡かないのは、その反動だろうか。立ち上がり、名前が上着を羽織った。瞬きを一つすれば、さっきまでの寝ぼけ眼は消え、鋭い瞳が顔を出す。
「でも、会いに来てくれて良かったよ。実は狡噛に渡す物があったんだよね」
そう言いながらポケットを漁ると、何かを手渡してくる。何となしに受け取り見下ろして、狡噛は僅かに瞼を動かした。最初に目を引いたのは、薄い桃色。それは、栞だった。桜の花弁が、その美しさを封じ込めるようにラミネート加工されている。
「どう、綺麗でしょ。押し花。頭痛くなる本ばっかり読んでる狡噛に、プレゼント。花見に付き合ってくれた御礼だよ」
「手作りか、上手いもんだな」
「別に、道具があれば誰だって作れる」
彼女は謙遜をしない。事実なのだろう。それでも狡噛は、作ろうとすら思わない。恐らく、この国の人間の殆どがそうだ。偽物を受け入れ、満足している。桜然り、心然り、幸せ然り。
「人間が創造できないものにこそ、価値があると思わない?」
「自覚がないようだから言っておくが…シビュラに喧嘩売ってるのと同じだぜ、今の」
狡噛の指摘に、名前は静かに笑い返した。こんな危険分子を善良市民と見做している。槙島と出会っていなかったとしても、彼女が傍にいたのなら、遅かれ早かれ狡噛は、シビュラを信じ切れなくなっていただろう。だがそれは、神の喪失などではない。後悔などしなかったと断言できる。どちらにしても確かなのは、狡噛慎也にはシビュラよりも信じる存在があるということだ。