ただの気の迷い
※萩原夢と同じ夢主。松田視点。むしろ萩原夢かもしれない。
『お願いがある』
たった一言。用件だけが端的に記されたメールに、思わず眉を上げた。送り主は親友の恋人(仮)。尻にそんな注釈が付いているのには理由がある。短く且つ分かりやすく説明すれば、萩原研二がキープしている女−−−それが苗字名前だ。人間に使う言葉としては不適切だろうが、言ってしまえば取り置き。そんな上から目線で始まった関係も、今となっては形勢逆転どころの話じゃない。ベタ惚れなのは、明らかに萩原の方だ。デートの日は、正直言って一緒に飯を食いたくないくらいテンションがウザい。
話を戻そう。とある土曜の早朝、俺の携帯に件の女から冒頭の通り連絡が来た。それだけでは詳細が不明のため、とりあえず『なんだ?』と返してみる。するとベッドから起き上がって欠伸をする間に返事がくる。未だ覚醒しきっていないまま、画面の文字を視線でなぞった。
『カメラ、直してくれない?』
質問の意味を尋ねる前に、写真が送られてくる。そこには黒くて少し大きめのカメラが写っていた。買えばそれなりに高そうだ。見た目ではどこも壊れていそうにないが、嘘を吐くような女じゃない。ましてや、あいつが俺に嘘を吐くメリットが皆無。幸い機械イジりは得意だし、今日は暇だ。了承の返事をすると、お礼に何か奢るときた。ギブアンドテイク、有り難く受け取るとしよう。後から気付いたが、萩原にバレたら五月蝿そうだ。まあ厳密に言えば、こいつらは恋人同士じゃないわけで、俺がどやされるのも可笑しな話だ。
「あ、松田。こっち」
夜。指定された居酒屋に着くと、名前を呼ばれる。案内しようとする店員を制し近付いて、少し驚いた。いつも決まってパンツスタイルの苗字が、スカートを穿いていたから。動揺を悟られないように向かいの席に座った。とりあえずビールを頼んだ後、その横顔を観察する。まあ、美人の部類に入るだろう。だが記憶の限りではモテる方じゃなかった。万人受けする性格でもないから当然かもしれない。基本的に淡白で、必要最低限の会話しかしない。それでも俺の中では、やたらボディタッチしてくる奴等よりは好ましい女子だった。ただ、実際付き合うとなったら、かなり難易度は高いだろうと思う。
「早速なんだけど、これが問題のカメラ」
「おー…にしても、なんでカメラ?携帯で撮ればいいじゃねぇか」
「実は今度、萩原がドライブに連れて行ってくれるんだけど、その時に写真撮りたいなと思って。それに好きなんだよね、カメラ」
珍しく弾んだ声に、まるで俺の事を好きだと言われたのかと錯覚した。思わず見返せば、その視線は真っ直ぐにカメラに向けられている。そうだった。こいつはそういう女だ。ミステリアスと言えば聞こえはいいが、相手をする側からすれば厄介すぎる。思ったことしか言わないくせに、いくら会話を重ねたところで分かり合える自信がない。
「質感もそうだし。あとさ、ファインダーから見える景色って、自分の視界と同じでしょ。携帯で撮るみたいに一部分を切り取るんじゃなくてさ。そこがさ、なんとなく好き」
「相変わらずよく分かんねぇ女だな。つうか今更だけどよ、萩原に頼めばよかったんじゃねぇか?あいつも機械イジるの好きだって知ってんだろ」
「まぁね。でも松田と話すのも好きだから」
これだ。昔っからこいつは、いや、こいつらは仮の恋人を器用に演じている。萩原は他の女と遊ぶことをやめなかったし、苗字がそれを咎めることもなかった。そして堂々と俺のような他の男に笑いかける。質が悪い。巻き込むんじゃねぇよ、くそったれ。
「お前よ、そういうの止めろ」
「…そういうのって?」
本日何度目だと思いながら、頭を乱暴に掻いた。この女は勉強は出来るくせに、この手の事は一から十まで言わないと伝わらない。と、萩原が言っていた。鈍感を通り越してもはや恋愛というものを知らない古代人だ。
「好きとか、普通に言うなってことだ」
「松田もステーキ好きでしょ。同じことだよ」
「おい、人を肉と同じにするな」
つまり何か、俺は好きな食い物と同じ扱いってことか。それはそれでムカつく。ふざけた関係なのは知っていたが、その時は何故か妙に苛ついて、あんな事を言ったのだと思う。後から考えれば、らしくなかったし、とても萩原には言えない。そんな素振りはなかったが、苗字も驚いていたに違いない。
「もし俺がお前に惚れたらどうすんだ」
「…それで私も松田を好きになったら、めでたく両思い。萩原との契約は解消だね。でもその時はさ、私じゃなくて萩原を選んでよ。貴方達の関係の方がずっと尊いんだから。私みたいな部外者の所為で棒に振るなんて馬鹿らしい」
つまらない偽善じゃなく本心だと、何故かそう思った。この女は何が起きようと受け止める覚悟がある。言い換えれば、物事に執着がない。恋愛もまた然り。たぶん、こいつが居なくなるより萩原が居なくなる方が俺には堪える。それを本能的に理解しているんだろう。自分ではなく萩原を選べ−−−俺の中の優先順位を理解しているからこそのアドバイス。あいつが、萩原がこの女に惚れ込んでいることを知っているからか、また無性に胸の辺りがムカムカしてきた。まるで萩原に一切未練などないと、そう聞こえた。
「お前はそれでいいのかよ」
「さぁ、どうだろう。その時になってみないと分からない。たぶん、悲しいと思う。ふたりのことは好きだし。でも、仮の話だよね?そもそも萩原はそこまで私に執着ないでしよ」
「おっまえ……マジでヤバいな」
何を寝ぼけたことを。盛大に溜息をついて再びガシガシと髪を掻く。萩原が分かりづらい訳じゃない。まあ確かに、俺が昔馴染みだからというのもあるのかもしれないが、好意ダダ漏れだ。あれで気付いてないとかマジか。流石に萩原に同情した。それとも、無意識にブレーキかけているのか。もし自分も萩原を好きになったら仮の関係が本物になっちまう。それを恐れている。
「はっ、まさかな」
「何か言った?」
「いや、なんでも。あと今の話、ハギの前でするんじゃねぇぞ。ぜってー怒られっからよ」
止めだ、止め。このまま話続けると妙な気分になりそうだ。ペースを乱される。振り回されるのは御免だ。会話をぶった切って、カメラへと視線を移す。見たところ、どこか欠陥があるとかではなさそうだ。一度分解して確認するしかないか。
「萩原って、もしかして私のこと好きなのかな」
「……お前それ、まさか本人に訊いたのか?」
「いや。ただこの前会った時、上の空だったから他に好きな子ができたのかなって思ったんだよね。それで、仮の関係なんだから無理して会ってくれなくていいって伝えたんだけど」
「ぶっ、ははは!お、お前…やるじゃねぇか。すげぇ怒ってただろ、あいつ」
流石に堪えきれなかった。思わず吹き出して笑ってしまう。その時の萩原の顔は容易く想像できた。この世の終わりみたいな面をしていたに違いない。そりゃそうだ。惚れてる女にそんなこと言われれば、そんな顔にもなる。まぁよく考えれば、そんな関係を始めたあいつの自業自得なわけだし、同情してやる義理もないか。ここまで来て四苦八苦するなら、最初から引っ捕えておけってんだ。ただでさえ煙みたいな女だ。フラフラと風に攫われてどっか行っちまう。
「凄いね。どうして分かるの?幼馴染だから?」
「馬鹿、違えよ。男だからだ。で、その後は?何された?部屋にでも連れ込まれたか?」
「いや、いつも通り家まで送ってくれたよ」
「は……くっ、はは、ははは!はー、あのハギがねぇ…よっぽどだな。尊敬するぜ」
「あ、でもキスはされた」
ヤバい。なんか面白くなってきた。苗字は基本的に素直だ。質問すれば、迷うことなく答えが返ってくる。まさか本人をパイプにして俺に筒抜けだなんて、萩原も思ってないだろう。あいつの面目の為にもこの辺にしておくか。
「その時さ、もしかしたらって思ったんだけど考えすぎか。そもそも萩原ならいくらでも他の子を選べるもんね。仮初だけど、終わるとしたら寂しいな……楽しかった、とても」
まただ。また、この横顔。学生の頃に見せた、儚くて消えそうな雰囲気。俺はこいつのこの顔が心底嫌いだ。どこか全てを諦めたような姿勢。手を伸ばせば届く距離にあるのに、何故伸ばさない。どうして勝手に線を引く。お前が求めれば、必ずあいつはその手を取るだろうに。
「言っとくが…最後、ふざけた終わり方したら承知しねぇからな。どんな結末だろうが、あいつは、萩原は本気でお前と向き合おうとするだろう。そういう奴だ。そん時に中途半端な姿勢でいるようなら、ぶっ飛ばすぞ」
「なんか松田、お母さんみたいだね」
「てめぇ、今この場で一発ど突いてやろうか」
割と本気で凄んでみても、苗字は可笑しそうに笑うだけ。さっきまでの雰囲気から一転、さぞ面白そうに。この顔は嫌いじゃない。常に笑っている奴じゃないから余計に目を引くのかもしれない。萩原も、こういう所に惹かれたんだろう。
「もし振られたら、一緒に自棄酒してくれる?」
「お前……なんだよ、やっぱ好きなんじゃねぇか」
「好きか嫌いかなら好きだって、前にも言った」
"振られたら"だなんて、それはつまりこの女も萩原に惹かれているってことだ。だがそんな事態にはならない。あいつはやる時はやる男だ。チャンスを逃すわけない。これは仮の話、例えばの話だ。現実に起きることはない。なら、好きに答えてもいいだろう。
「そん時は見せしめに俺と付き合うか?」
「ゲームみたいなものって言った時はあんなに怒ってたくせに。でもまあ……考えておく。攻略キャラを変えてみるのもいいかもしれない」
苗字は真っ直ぐに俺の目を見て、悪戯っ子みたいに笑った。夜の街に蔓延っている厚化粧の女のような下品な笑い声とは正反対、クスクスと僅かに空気を揺らす。そして興味を失ったように、窓の外を見つめて嬉しそうに一言。
「あ、雨降ってる」
「なんで喜んでんだよ」
「雨の音を聴くと、よく眠れるから」
「ほんと変な奴」
珍しく口角を上げて跳ねるような声音で言うから、こっちも自然と笑ってしまった。そして視界に自分の手が映って我に返る。無意識に触れようとしていたことに気が付いて、乾いた笑いを零した。「なにやってんだ」と、頭の奥で声がする。こいつは親友の女だ。それに、どれだけ厄介か知っているだろうが。空を掴んだ手を誤魔化すように、口元を覆う。松田、と不思議そうに俺を呼んで苗字が覗き込んでくる。その瞳に映ったテメェの面があまりに情けなくて、顔を歪めた。
「なんでもねぇよ、クソが」
「笑ったかと思ったら怒って忙しいね」
そう言って、然程気にする素振りもなく携帯に視線を落とす。誰の所為だと思ってんだ。小さく舌打ちしてみても、顔すら上げない。そんな女に一瞬でも惑わされたことが気に入らない。本気じゃない。所詮はただの気の迷い。そう言い聞かせないと負けな気がした。