からっぽのままで蓋をして

※企画サイト: 吝嗇家様に提出させていただきました。本編第Z章第1話の補完です。


2113年2月8日、執行官宿舎。主人のいなくなった部屋で、響歌はひとり佇んでいる。ついさっき、彼は「じゃあな」と髪を撫でて去って行った。抱き続けた憎悪を巣立たせるために、全てを捨てて。刑事でいてほしいと思ったことなどない。自分が焦がれたのは、闇に塗れながらも瞳には光を宿した姿。刑事だろうと人殺しだろうと、どうだっていい。己の信念を貫く、それでこそ狡噛慎也だ。よかったと、心からそう言える。だから今、胸の中で暴れているのは、引き止められなかった後悔などではない。これはそう、断末魔の叫び。声の主は自分の内に居るあいつだ。

愛って何だと思う−−−学生の頃、やけに真面目な顔でそんな質問をしてきた男がいた。自意識が過剰なだけの矮小な奴だったが、ああいう人間ほどこの国ではよろしくやっているものだ。やはり理解に苦しむ。そして、響歌はその問いに、つまらなそうな表情でこう返した−−−形が無くて曖昧で、生きるには不要なもの。

何故いま、そんな記憶が蘇ってくるのだろう。理由は分かっている。一体いつ、この愛が生まれ、ここまで育ったのかを思い出そうとしているのだ。記憶の引き出しを一つひとつ開けて確かめていき、見つけた。「ああ、あの時か」と側頭部に触れながら、彼女は独り言つ。胸をひと撫でして、瞳を閉じた。生まれた瞬間がいつかは定かではない。だけれど、潜在意識として芽生えたのはまだほんの数ヶ月前のこと。それが瞬く間に成長し、今になって顕在化したのだろう。

**

2112年の12月。公安局広域重要指定事件104、桜霜学園女生徒連続殺害事件の後。狡噛が泉宮寺豊久と交戦するまでの僅かな間の出来事だ。槙島先生−−−残された音声データの中で王陵璃華子が発したその言葉に、狡噛は高揚していた。3年間追い続けてきた相手の輪郭が見え始めるのを、肌で感じたからだ。思考に没頭しそうになったところで、留まる。少し体を動かそうとトレーニングルームに足を運び、目に飛び込んできた光景に小さく声を漏らした。そこには先客が一人、よく知っている顔だ。いつものスーツ姿ではないウェアを着て、スパーリングロボと退治している。繰り出される攻撃を軽々と去なし、得意の蹴りが炸裂した。堪らずロボが倒れる。相変わらず痺れる威力だ。

「響歌」
「・・・ああ、狡噛か。また自分虐め?」
「人をマゾヒストみたいに言うな」

顔を顰めて返せば、クスクスと肩を揺らす。こうして話していると、あの闇を忘れそうになることがある。それほど眩く強い光だ。足先でロボをつつく様子を眺めていると、視線に気付いた彼女がこちらを振り向いて言う。

「ねぇ、ひと勝負しようよ」
「構わないが・・・どうした。お前から誘ってくるのは珍しい。何か裏があるんじゃないだろうな?」
「備えあれば憂いなし。動き出した予感がする、そうでしょ?貴方の強さを確認させて」
「俺がそう簡単にくたばると思ってるのか?」

思いも寄らない言葉に、ついふざけて笑った。返事はない。伏せていた視線を上げきる前に、身体が強張るのが分かった。反射によるものだ。たった今まで纏っていた柔らかな雰囲気は一瞬で消え去り、刺すような殺気が狡噛を襲う。思わず飛び退いた。本当に殺すつもりだと錯覚するほどの気配だ。舌打ちをして構えると、響歌は口角を上げた。分かってはいたが、この女はこういう所がある。楽しそうに笑い踊りながら命のやり取りをする、そういう質なのだ。

初手を受け止めた途端、逆側から顔を狙って蹴り込んでくる。狡噛は腕でそれを阻止し、反撃に出た。女を痛ぶる趣味はないが、本気でいかなければこちらが喰われる。スイッチの入った様子に、響歌は大きな瞳をさらに見開き、声を漏らして笑った。彼が放った拳を姿勢を落として躱すと、連撃を見舞う。まず腹に二連撃、続いて顎下へアッパー。最初の連打に至っては音は一回しか聞こえないくらい速かった。顎にパンチを食らいふらつきながらも、狡噛の脳は回転する。音もなく繰り出される攻撃はまるで忍者のようだと、以前佐々山が評していた。そんなもの本の中の知識でしか知らないが、こんな奴が蔓延っていたのだから戦乱の世というとは恐ろしい。

「余裕だねっ!」
「はっ、お前もな!」

休む暇すら与えず、再び突進してくる。狡噛は響歌よりさらに姿勢を低くし、細い腰を掴み持ち上げて床へ放った。咄嗟に受け身を取ろうとするのを押さえつける。両手首を拘束して見下ろせば、彼女は不機嫌そう顔をして息を吐いた。第三者が見れば、誤解を招きそうな絵面である。宜野座なんかは顔を真っ赤にして動揺するかもしれない。

「俺の勝ちだな」

狡噛が勝ち誇ったように笑う。一層眉間の皺を深くするのかと思いきや、響歌は表情を消してじっと見返してきた。感情の読めない瞳に思わず目を逸らしたくなるのを、意地だけで堪える。鏡のように自分を映す真っ黒な瞳は、苦手だが、同時に必要不可欠なものだ。どうかそこにいる自分が獣とならないように、常にそう願っている。いけないと戒めてみても、無意識に心が彼女を命綱にしようとするのだ。

「みっちゃんが居る」
「なに?」

呟くように響歌が言う。みっちゃん−−−彼女がそう呼ぶのは一人だけ。今は亡きあの男、佐々山光留だ。まさか幽霊でも見たというのか。いや、現実を愛する彼女に限ってそんなはずはない。

「狡噛の中に・・・拳を合わせるとよく分かる、幽霊と戦ってるみたいで気持ち悪い」

寝転がったまま戸惑う狡噛を指差して、はっきりとした声で響歌は言う。一瞬、意味が理解できなかった。しかしすぐに納得する。確かに自分の中に佐々山の影がチラつくのは必然だろう。思考、戦闘、刑事としての狡噛と佐々山光留の存在は強く結び付いている。切り離すなど不可能だ。彼女はその欠片を今のやり取りの中に垣間見たに違いない。それにしても、気持ち悪いとは些か棘がある言い方だ。

「お前なぁ、もう少しマシな表現しろよ。あの世で怒られるぞ」
「そうかな。逆の立場なら、みっちゃんも同じ事を言うと思うけど。それにあの世なんて存在しないよ、死んだら何もかも終わり。だからこそ貴方も、必死に生に縋る。それ故に、美しい」

うっとりと焦がれるように目を細める。つくづく厄介な女だ。こちらがその魅力に酔ってしまうくらい振り回すくせに、決してその心に触れさせてはくれない。すぐ傍にいるのに、遠い。暗い過去を経て、闇を見つめ、地に這いつくばり復讐を成そうとする姿が美しいだなんて、こいつの感性はどうかしている。そう思う反面、胸には生温かいものが湧いてくる。憎悪に呑まれた自分を肯定する人間がいるという事実が、狡噛に与えるのは希望か、それとも絶望か。

「なんでお前の犯罪係数が正常なのか、俺にはさっぱり理解できん」

呆れたようにそう言って、狡噛は身体を起こす。潜在犯の生き方に喝采を送る輩が、健常者の椅子に座っているのが不思議でならない。立ち上がった彼に続くことなく、響歌は天井を仰ぎながら返事をした。

「心が健やかだからかな。他がどうだか知らないけど私は殺意や悪意を抱くことに何の戸惑いもない。狡噛はどう?その憎悪、手放したいと思う?」

彼女は今度こそ起き上がり、欠伸をしながら肩を竦めた。そして挑発的に笑い、問うてくる。狡噛は思わず顔を歪めた。手放したいか−−−条件によっては頷いてしまうかもしれない。佐々山が死んだ現実も無くなるのなら、自分は戸惑うことなくこの憎悪を殺せる。ただ純粋に刑事として生きられていたら、そう思うことがなかったと言えば嘘になる。だがそんなのは所詮は幻想だ。戻れるはずなどないのだから、願うだけ不毛。今はただ、この憎悪が鈍ることのないように研ぎ続けるのみ。

「喧嘩なら買うぞ」
「ははっ、冗談だよ。安心して、ちゃんと知ってる。それは本物、私が保証する。それにさ、別にシビュラに肯定されたって嬉しくないでしょ。目に見えているものが全てじゃない。戦いも犯罪係数も、真実も。まぁ、シビュラ公認の善良市民の方が色々とやり易いってのは否定しないけど」

この国の人間からすれば、シビュラに否定されることは最悪の現実だが、響歌にとっては鴻毛よりも軽いものらしい。一体どんな人生を歩んだら、こんな人間が出来上がるのか。彼女を題材に論文が一つや二つ書けそうだ。内心そんなことを考えていると、ガラ空きだった狡噛の急所に衝撃が走る。

「ぐっ、お、まえ・・・クソが」

金的である。余所見をしているのをいい事に蹴り上げたのだ。呻き声を漏らし蹲りながらも、狡噛はなんとか言葉だけは強く出るよう努めた。額から脂汗が吹き出る。どれだけ痛いか、目の前の女にはきっと分からない。今も隣で油断大敵と言いながら腹を抱えて笑う始末。後で倍にして返してやると誓った。狡噛の痛みが引いてきた頃、響歌がぽつりと尋ねる。さっきの爆笑は何処へやら、やけに密やかな声だった。

「狡噛はさ、守破離って知ってる?」
「日本の芸道や芸術のあり方の一つ」
「さすが博識だね。守、指導者の教えを守り基本を身に付ける。破、工夫を凝らし基本を破る。離、基本を離れ個性を育てる」
「何の話だ、一体」
「私はあらゆる面で"守"の工程が欠けてるらしい。戦い方を教えてくれた人に言われたんだ」

皮肉か、それとも彼女を案じてのことだったのかは不明だが、その人物が言ったことは恐らく正しい。飲み込みが早く頭もいい彼女にとって、基本を覚えるのは容易いだろう。しかし、それは長所だ。欠けているという表現をするから短所に聞こえてしまう。浪費する時間が短いだけにすぎない。それはきっとその人物も彼女も理解している。話の核心はこの後だ。

「狡噛が言ったように守破離は芸術や武道のあり方のことだけど、私は他の様々な物事にも当てはまると思ってる。例えば刑事のあり方とか料理とか・・・あとは生き方とか」

確かになと狡噛が返す。刑事のあり方、然り。基本的な捜査の仕方は同じでも、武器が違う場合はある。知識、プロファイリング、人脈、征陸のような昔の刑事なら己の足。料理、然り。専門外だが、レシピは同じでも隠し味によっては全く違う出来になると縢が言っていた。生き方、然り。基本は皆、親から教えられ、本能で知っている。食べて寝て、心を健やかに保つ。しかし就く仕事も違ければ、末路も異なる。満足して往生する者もいれば、最悪な最期を迎える者もいる。型を破り道から離れた結果がこれでは、自分のあり方はとても誰かに受け継げるものではないなと狡噛は苦笑した。

「その人にそう返したら、守破離のどれも存在しないものもあるんだって言われてさ、何だか分かる?」
「さっぱりだ」
「・・・愛。その人が言うには、そもそも共通する基本が無いから、破も離も存在しないんだって。それを聞いたとき、何言ってんだかって思ったんだけど、笑い飛ばす資格すら私にはなかった。そんなわけないって言えるほど、私は愛を知らない。知らないものを真っ向から否定することはできない。たぶん私は、愛を知らないまま生きて、生きて、生きて、そして死ぬ」

響歌は膝を抱え、顔を埋めてそう言った。その声には憂いが滲み、音は儚げに消える。表情は窺い知れないが、恐らく無表情でいるのだろう。面白ければ笑い、許せなければ怒る。しかし悲しくて泣く姿は見たことがない。どうしたものかと狡噛は珍しく頭を悩ませた。この一癖どころか、癖の塊のような女に贈る言葉など持ち合わせていない。

「悔しいのか?」

せめてどんな言葉を望んでいるのか探ろうと、質問してみる。すると彼女はそっと顔を上げて、暫し悩むような素振りを見せたあと、首を横に振って「分からない」と呟いた。その声にいつもの歯切れのよさはなく、ひどく小さく弱い音だった。狡噛は耳を疑う。質問に対してこんな風に自信なさげに返すだなんて、らしくない。たとえ分からないとしても、普段の彼女なら毅然と答えたに違いない。

「だって私は、愛の尊さを知らないから。触れることのないまま死ぬことがどれだけ哀しいことなのか、私には分からない」
「そんなに知りたいなら、俺が教えてやろうか」

静寂が落ちる。数秒間、ふたりの脳内はほぼ同じ工程を辿っていた。両者共に一言一句その発言を咀嚼し、まず意味を理解しようと努めた。しかし、それが終わっても、響歌にはその真意を汲み取れなかった。狡噛本人は、何故そんな言葉を発したのかと、自分を尋問してみる。だがいくら悔いても、口から出てしまったのだから取り消すことはできない。長い沈黙に居た堪れなくなって、頭を掻きながら空転する脳を正常に動かそうとした。無意識に零れたそれは紛れもなく本心だ。教えられるほど愛とやらを極めてはいないが、隣の女と一緒なら探り探りの関係もやぶさかではない。ただ、自分は潜在犯であり、心には憎悪が巣食っている。目の前に憎しみの対象が現れれば、愛をかなぐり捨てて復讐を優先するだろう。たとえ彼女が泣き叫んで止めようとも。まぁ、天地がひっくり返ろうとそんなことは起きない。この女はきっと、笑って見送るに決まっている。

「狡噛はスパルタだから遠慮しておく」
「おい」
「それに、そんなことに感けている暇はないし。でももし、私が心から愛を知りたいと思ったとして、そのとき他に立候補者がいなければ、お願いしようかな」

**

その言葉に柔らかく笑った彼の横顔を、響歌は決して忘れないだろう。あの時きっと、この愛は主張を始めた。ここに居ると、叫ぶように。思考を現実へと引き戻し、悠然と瞼を上げる。視界には変わらず暗く静かな空間があるだけ。そっと唇をなぞれば、彼が遺していった熱が心を揺さぶる。響歌は堪らず座り込むと、声を上げて笑った。

「潔く死になさい」

満身創痍で足掻こうとする愛に告げる。彼と交わした最初で最後の口付けは、その餞となるだろう。そして再び、あの問いが脳を過った。愛って何だと思う。例えば今、そう誰かに尋ねられたとしたら、響歌はこう答えるだろう−−−器のような形をした、厄介な代物だと。それぞれ姿は違えど、その器を満たすことが愛し合うということなのだろう。それなら、出来上がったばかりの自分の器は、二度と満たされることはない。一生、からっぽのままだ。割るのは忍びないし、荷物になるほどではない。持ちきれなくなるその日まで、蓋をして仕舞っておこう。

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に痺れた!