幸せな水槽

※企画サイト: kindred様に提出させていただきました。

2113年1月某日の夕方、公安局内のテラス。ほぼ無人のその場所で、狡噛は缶コーヒーを片手に煙草を吹かしていた。誰も咎める者はいない。風のない空に煙が消えるのを見送って、夕陽に染まる眼下の街へと視線を移す。豆粒のように小さい道行く人々をぼんやり観察していると、彼女の声が脳内を過ぎった。

────シビュラはさ、海なんだよ。

常守朱が刑事課一係に配属される数日前、昨年の11月のことだ。国外で単独任務に就いていた同期が帰って来た。4年前のあの日、軽い挨拶を残し飛行機に乗り込んだときと何一つ変わらぬ姿で。世界で唯一平和なこの国に比べれば、さぞ劣悪な環境だったはずだ。それなのに、瞳には光を宿したままで、むしろその光度が増した気すらした。この3年で闇に呑まれた自分とは正反対。同じ監視官として配属されたが、結果はこの通り二極化することになったわけだ。そのことに驚きはない。当然の結果だと思える。彼女−響歌−は決して、闇に呑まれることはない。

──── 人は魚。広い海を泳ぐだけの存在。

帰国して来たその日に彼女と話をした。会話の内容は狡噛が部下である佐々山を失い、執行官へと降格することになったあの事件についてだ。そのとき彼女が放ったのが先の言葉。シビュラを海、その中で生きる人々を魚と評した。魚だから海の中でも息ができる。だから息苦しいことは、むしろ人である証明なのだ。

────私はその中で人間でありたい。

たとえ呼吸すらままならなくとも足掻いていたいと、そして狡噛にもそうであってほしいと、響歌は言った。その期待に応えたいと思いはするが、すでに沼へと足を踏み入れた身だ。このまま飲み込まれるのがオチだと自嘲する一方で、彼女の姿は暗く澱んだ沼底を照らす光に見えた。

「あれ、狡噛だ。上手にサボってるね」
「・・・自分はどうなんだ」
「休憩だよ」

なんとも気が抜ける声は、現実のものだ。寄りかかっていた柵から身を離し振り向けば、想像通り一人の女が立っていた。たった今まで狡噛の脳内を支配していた張本人である。疲労が溜まっているようには見えないが、悪びれる様子もなく休憩だと答えた。出動時は勿論のこと、事務仕事も卒なく熟すのだから要領はいいのだろう。それきり特に会話を続けることなく、響歌はベンチに座った。そして膝の上に乗せた本を開いて読み始める。それだけなら狡噛も何も言わなかっただろうが、あまりに見慣れない本に思わず突っ込んだ。

「なんだ、その本は?」
「何って図鑑だよ。今日は海の生き物達」
「図鑑?なんだってそんなもん・・・捜査の一環か?」
「まさか。どんな事件なの、それ」

怪訝そうに尋ねる狡噛に、表紙を見せてくる。そこには確かに『海の生き物図鑑』と書かれていた。図鑑など子供の頃にしか読んだことはない。なんとも言えない顔をする狡噛に気付いてないのか、響歌は笑う。

「小説を読むと頭使うから嫌なんだよね」
「それが醍醐味なんだろうが」

持ち歩くのも大変そうな本だ。分厚くて大きい。細い指で捲られたページには、美しい魚の写真がある。正直、何が面白いのか狡噛には分からない。それに、頭を使わずに読める本など、肉のないハンバーガーみたいなものだ。呆れたように返答する狡噛に、彼女はいつも通り微笑を浮かべて言った。

「別に読書は嫌いじゃないよ。ただ苦手で、生産性を感じられないだけ。これでも結構色んな本を読んできたけどさ、一度も主人公に共感できたことがないんだよね。だから、一々どうしてそう思ったのか、何故そんな行動をとったのかを考えて、凄い時間がかかる。でも結局、読み終わったあとも理解できない。労力の無駄。美味しいお菓子食べてる方がずっと有意義」

本から目を逸らすことなく淡々と述べていく。視線は紙面を追っているところを見るに、読みながら話しているのだろう。器用なものだ。読書家の狡噛に向かって堂々と労力の無駄だと言い切った横顔には、遠慮の色など微塵もない。しかし狡噛は、結論に同意はできないが、その理由には納得していた。

確かに、どんなジャンルのどんな物語にも、登場しそうにない女だ。独特な視点を持ち、目立つ見た目でもないのに視線を集める。そして何より、刑事らしからぬ精神。彼女はたとえ善良市民だろうと、軽蔑した相手には容赦なく牙を剥く。そんな人間だ。異常だと、そう言われることの方が多かっただろう。しかし社会から異常だと判断されている狡噛にとっては、その異常さがどこか眩しかった。本能の赴くままに生きる姿は動物らしくもあるが、その心は人間らしく呼吸をしている。今まで会った誰よりもだ。何も答えない狡噛を気にする素振りすら見せず、響歌は図鑑のページを捲った。息を吐いて隣に座り、覗き込んでみる。

「意外に文字が多いな。これはこれで頭使うんじゃないのか」
「全然、だって動物には共感できるから。彼らは人間みたいな複雑な心が無い分、素直だからね。お腹が空いたら食べる、眠ければ寝る、生きる為に敵を殺す。生きてるって感じがするでしょ。水槽に入れられているこの国の人間達とは大違い」

冷たい瞳で、国民達を嘲笑する。響歌に言わせれば、シビュラの下で生きる人々は人間らしさを捨てた者達なのだ。それに疑問すら抱かない彼らが、彼女にはきっと理解できないのだろう。そんな奴がその国民を守る仕事に就いているのだから面白い。シビュラは何故こんな精神構造の人間を刑事にしたのか、狡噛は今更ながら疑問に思った。

「水槽ってのは?」
「海にもコミュニティがある。数えきれないくらい。例えばここ、公安局刑事課もまた一つの水槽。シビュラという狭い海で、さらに不自由な水槽に入れられて私達は生きている・・・時々、思うよ。鮫や鯱みたいな強者が現れて、この檻を噛み砕いてくれればいいのにって。全てのコミュニティが崩壊してリセットできたら、私もこの世界を好きになれるかも、なんてね」

そんなことは起こらない。故に一生、この世界を好きになることはできない。響歌自身、分かっている。では何故、そんな表情をするのだろう。その横顔に宿った僅かな愁いに、狡噛は探るように目を細めた。彼女が心情を表に出すのは珍しい。否、心情と一括りにするのは間違いだ。喜怒哀楽の中の哀だけ、苦しみや悲しみを表に出すことは滅多にない。基本その顔は、無表情か笑顔、あるいは軽蔑の色に染まっていることがほとんどだ。以前と比べてここ最近、表情豊かになった気がする。人間らしくなったと言ってもいい。喜ばしいことだ。思わず口元が緩みそうになった。そして、彼女の唇は再び動き出す。

「狡噛は、魚を飼ったことある?」
「いや、ないな」
「そう・・・じゃあエンゼルフィッシュって知ってる?ほら、この魚」

そう言って図鑑を広げて見せてくる。綺麗な指先がその中の一匹を指差した。まるで読み聞かせ中の子供になった気分だ。彼女が示したページには、長いヒレを纏った縞模様の小さな魚が載っていた。説明書きの欄には"観賞用"、"熱帯魚"といった記述がある。肩を竦めて見せると、響歌は図鑑に視線を戻し笑みを浮かべる。その横で狡噛は新しい煙草に火を点けた。

「子供の頃、飼ってたことがあるんだ。ちょうどこの本のやつと似た色のが一匹、あと水色のやつが一匹。そしたらある日、水色の方が水槽を飛び出しちゃってさ。床でぴちぴち跳ねていたのを手で拾って水槽に戻してあげたんだけど、結局衰弱して死んじゃった」

響歌が何を言わんとしているのか、狡噛は直感的に理解した。彼女はその光景に、この世界の人々を重ねたのだろう。所詮、魚は魚。人になることはできない。それが何年前のことかは分からないが、少なくとも狡噛は、まだシビュラに何の疑問も抱いていなかった頃だ。普通の子供なら、人を魚に重ねたりしない。独特な感性は生まれつきらしい。

「今思えば残酷なことをしたのかな・・・あの子は水槽を飛び出したかったのかもしれないのに。私はその命を檻へと戻し、結果、摘んだ。彼と残された一匹のどちらが賢かったか、きっとこの国は誰もが後者だって言うんだろうね。そこで声を揃えることができないから、私は異物なんだ。ま、少しも悔しくないけど」

思い出すように目を細めて語りながら、喉を鳴らす。残酷だと言った瞬間ですら美しい唇は弧を描いていた。負け惜しみなどではないのだろう。その輪に入ることは、彼女にとっては死を意味する。右向け右の世界ほど退屈なものはない。だが、その退屈を良しとする者が大勢いるのも事実。ここでは、彼女の方がマイノリティだ。

「笑っちゃったよ。呼吸を止めて沈んだ片割れに見向きもせず泳いでてさ。同じ生き物なのに、まるで自分の方が高尚な存在だと思っているみたいで、すごく滑稽だった。ただ流れに身を任せてるだけのくせに・・・私は、たとえ命を削る生き方でも、死に物狂いで楽しみたい。人間なんてさ、みんな愚かなんだから、同じ阿呆なら踊らな損々ってね」

跳ねるような声音で笑う。今にも踊り出しそうな横顔に、狡噛の口元が無意識に緩む。死に物狂いで楽しみ踊る、決して比喩ではない。彼女は本当にそういう風に生きている。両手を広げて綱渡りをする姿を思い浮かべ、つい声を漏らした。煙草の灰が床に落ちる。それを誤魔化すように靴先で撫ぜれば、細かい粒子は風に巻かれ消えた。

「でも魚は、水の中でしか生きられない。彼がそうだったように、たとえ陸に上がったとしてもその命を削るだけ。魚のまま海で生を終えるか。それが嫌なら、人として足掻くか、どちらか」

儚げな声が鼓膜を揺らす。その音は微かに震えていた。たとえ楽になるのだとしても、彼女はその痛みからの解放など願わない。苦しさすら感じなくなることは、人から魚に成り下がった証拠だ。最大多数の最大幸福が実現されたこの社会で、彼女は世界に中指を立てる。

「泳ぎ切ってみせるよ」

そう言って微笑み、パタンと図鑑を閉じた。話は終わりということだろう。そろそろ日も沈む。まだほんの少し残っていた煙草を、空になったコーヒーの缶へとねじ込んだ。

「実はさ・・・こんな私にも、ひとつだけシビュラに感謝していることがあるんだ」
「お前が?冗談よせよ・・・勿体ぶってないでさっさと教えろ」
「私を、この水槽に放ってくれたこと」

あまりに柔らかな声音に、狡噛は思わず息を飲む。どんな顔をしているのかと盗み見て、釘付けになる。ドクンと、胸が大きく跳ねた。いつも見せる何か含んだような笑顔ではない。心を持っていかれそうになるのが何故か癪で、そっと目を逸らした。

「息苦しくて窮屈な場所だけど、飛び込んだのがここでよかった。心からそう思うよ。お陰で貴方達に逢えたから。苦しいけど、私はちゃんと幸せだった」
「そりゃどうも」

ぶっきらぼうな返事に、響歌はクスクス笑った。なんだかむず痒くなってきて立ち上がろうとしたその時、無防備だった狡噛の右手に何かが触れる。思わず引っ込めようとして、留まった。どこを取っても自分より小さなその手を、振り払うことができない。緩く握られていた拳を解くと、響歌は骨に沿って狡噛の手の甲を親指でなぞった。

「おい、離せ」

少し冷たい指先と滑らかな感覚に、いよいよ我慢ならずに声を上げる。しかし言葉ばかりで棘一つないそれに効力は無い。無骨で少しかさついた手の温かさに、響歌は目を伏せ呟いた。

「Cold hands, warm heart.」
「何だって?」
「手が冷たい人は心が温かいって、あれ、嘘だね。私の手はこんなに冷たいけど、心も同じくらい温度が無い。逆に、貴方は手も心も温かい」

これを素でやっているのだから、厄介だ。狡噛は何も紡げずに、されるがまま時が過ぎるのを待つ。それをいいことに、響歌はその手のひらへと唇を落とした。一瞬の出来事、少しの迷いもない突然の行為に、狡噛は息を飲み身体を硬直させる。

「ねぇ、狡噛。どうか変わらないでいてね・・・約束」
「破ったら死ぬとかじゃないだろうな」
「そんな効力は無いよ。ただの私の我儘」

やっとの思いで茶化す。その苦労を嘲笑うように目を細めそう返すと、響歌はそっと手を離した。そして立ち上がり、何も言わず去って行く。華奢な背中を見送り、狡噛は盛大に溜息を吐き出した。テラスにはもう自分以外誰もいない。日の落ちた暗闇で手のひらを見下ろせば、氷のように冷たい唇の温度が鮮明に蘇ってくる。呪いをかけられた気分だ。一生解けなくていいと思う自分にククッと喉を鳴らし、同じ場所に唇で触れてみる。甘い匂いが残っている気がして、髪を乱暴に掻いて重症だなと苦笑した。

「お望み通り、足掻いてやるよ」

侵されると分かっていても、手を伸ばしたくなる。禁書の棚にある本のように魅力的で、ページを捲る手を止めることができない。彼女という物語の一節に触れてしまった時点で、手遅れだ。ならば、貫くのみ。踠き足掻いて這い上がる。ひとりの女に焦がれる、ただの男であるために。

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に痺れた!