馬の合わない獣達

14時。報告書を仕上げて、狡噛は席を立った。昼食がまだだ。いつも通りカップラーメンで済ませようかとも思ったが、タイミングを逃したせいで他の面々はすでに席へと戻り業務を再開していた。そんな中、音を立てて麺を啜ろうものなら宜野座に文句を言われるのは目に見えている。監視官の頃は、静かに食えとよく怒られたものだ。

「あれ、狡噛だ。もしかして、これからランチ?」

気怠さを隠さず歩いていると、途中で見知った顔に出会った。狡噛とは対照的に、キャピキャピといつも以上に楽しそうだ。質問に頷けば、笑みを深くして提案してくる。

「なら一緒に食べようよ。今日はご馳走なんだ」
「ご馳走だと?あの食堂で?」
「違う違う。期間限定の和食レストランだよ」
「なんだそれはッ、おい、離せ。行くとは言ってない」
「まあまあ、いいから付いて来なって。美味しいもの食べたら、その仏頂面も少しはマシになるだろうし」
「・・・余計な世話だ」

こうなっては止めても無駄である。それに狡噛は、自分がこの女にめっぽう弱いことをよく知っている。半ば引き摺られつつも、その足取りは軽かった。

「見慣れた景色なのは気の所為じゃないな」
「うん、執行官宿舎だね」

不機嫌丸出しで尋ねた狡噛に、響歌は笑顔で肯定した。やはり、彼女に限って楽しく食事、となるはずはない。しかし例えば行き着いた部屋の主が、赤井や征陸、もしくは縢だったなら狡噛も気分を損なうことはなかっただろう。問題はこの部屋である。記憶が正しければここは────、

「どうも、響歌です。あと飢えた狼が一匹」
「すみません。手が離せないので、入ってくださって大丈夫ですよ」
「はーい、お邪魔します」

笑顔で返事をして、響歌は意気揚々と足を進めた。その背中を見つめ、狡噛も腹を括る。ここで逃げ出したら負けな気がしたからだ。相性が悪いから尚更。そもそも、響歌も響歌である。いくら監視官と言っても、女だ。赤井以外の男の部屋に上がり込み、食事を共にするなど正気を疑う。

「アン!!」
「ほわぁ〜、ハロちゃん!!おー、よしよし。お前さんはいつも可愛いなぁ」

絶句した。入室した途端、聞いたことのない声を出しながら、響歌は小走りで駆けて行く。そして近寄って来た白い塊を抱き上げると、頬擦りをし始めた。一拍遅れてやっと我に返り、狡噛は彼女の腕の中を覗き込む。

「犬?」
「そ、降谷さんの愛犬。すごく人懐っこい子でね。ご覧あれ、現代社会の闇を穿つように純粋なこの瞳。見つめ合うだけで心が洗われるでしょ、ほら」

完全に骨抜きである。潜在犯と拳でやり合っている女にはとても見えない。そんな捻くれた事を思いながらも、少女のような反応に、狡噛は顔を綻ばせた。手を伸ばし犬の頭を撫でてやると、強請る様に擦り付けてくる。なるほど確かに、随分と懐っこい。その時、狡噛の背後でクスッと誰かが笑う気配がした。

「狡噛執行官もそんな顔をなさるんですね」
「何が言いたい?」
「嫌だなぁ、怖い顔しないでください。喧嘩をしたいわけではないですから・・・それにしても、意外ですね。僕は貴方に嫌われているのだとばかり思っていたのですが、まさか遊びに来てくださるとは」

やはりこの男、底が見えない。不気味なほど自然な笑顔、息をするように吐かれる中身のない言葉達。本能でわかる────これは、虚像だ。こうして敵意を露わにしても、全く動じない。それどころか挑発してくる。狡噛はチラと響歌に視線を向けた。変わらず犬を撫で回している。この男の本質に、彼女が気付いていないはずがない。

「狡噛、ちょっと落ち着いて。降谷さんが胡散臭いのは私も概ね同意だけど、そんなピリピリしてたらハロちゃんが怯えるでしょ。それに今日は、喧嘩じゃなくて食事をしに来たんだし。彼の料理の腕だけは・・・保証するよ」
「至る所に棘がありますけど、ありがとうございます」

ハロを床に下ろし、響歌は宥めるように狡噛の肩を叩く。それから、未だ眉間に皺を寄せたままの彼に笑いかけた。その表情を見てしまえば、途端に何も言えなくなる。確かに彼女は人を揶揄うのが好きだが、好んで傷付けることはしない。そして、ふと思い出す。執行官に降格し再会した頃、狡噛のデスクに積まれたカップ麺の容器を見て、響歌は眉を顰めた。毎日こんな食生活なのかと聞かれ、腹に入れば何でもいいと答えたのを覚えている。今回の誘いも、彼女なりに気を遣ってのことなのだろう。

「了解だ、飼い主様」
「うん、いい子だね。撫でてあげる」
「……やめろ」

精一杯の抵抗でそう呼んでやると、反撃に遭う。愛おしそうな顔で髪を掻き上げるように撫でられて、狡噛は妙な気分になった。その所為で、振り払えばいいものを、視線を逸らすなどという苦しい返ししかできない。そんな彼らの様子を、降谷は興味深そうに見守っていた。

「そろそろ食べましょうか。冷めてしまいます。用意はできているので、席にどうぞ」
「わっしょく〜、わっしょく〜」
「なんだ、その歌は」

陽気に口遊みながら、響歌は促されるままテーブルへと移動する。この女は本当に自分の同い年なのだろうか。食への拘りが強いのは知っていたが、まるで腹を空かせた子どもだ。嘆息してから机上へと目を向けた狡噛は言葉を失った────なんだ、これは。目の前に並ぶのは、文字通りご馳走だった。作り立て特有の湯気と匂い。ごくり、と唾を飲み込んだ。

「どれも美味しそう〜。早速食べてもいいですか?お腹ペコペコなんですよ」
「ええ、どうぞ召し上がってください」
「いただきます……狡噛、何してんの?早く座りなよ」

手を合わせた後で佇んだままの狡噛に気がつくと、クイクイと小動物でも釣るように呼ぶ。小さく頭を振り、彼も響歌の隣に座った。と同時に、向かいに降谷も腰掛ける。楽しい遅めのランチの始まりである。

「やっぱり日本人は和食ですね。お味噌汁も美味しい」
「喜んでいただけて良かったです」
「それに、優しい味がします。いくら繕おうと、人は根っこから変わることはできないんですね」

箸を置き、響歌は微笑んだ。終始笑みを浮かべていた降谷は、複雑そうに視線を落とす。初めて見る表情に、狡噛は僅かに目を細めた。つくづく厄介な女だ。

「料理はどなたに?」
「……親友です」
「そうですか。彼も、優しい人なんですね」
「ええ、とても」
「貴方の中には、幾人かの影がある」

優しい人だと、過去形ではなく現在形で言われ、降谷の胸が軋んだ。響歌は静かにそう言うと、口元をティッシュで拭う。狡噛はその横で黙々と箸を動かし、口に入れた肉じゃがを咀嚼した。

「影が濃いのは、その全てが死者だからですね。誰かとの思い出は、死んだ後の方が人の心に色濃く残る。皮肉なことに、生きているうちは顧みないものです。瞬きをする間に命が消えるなんてないと、そう思っているから。掬い上げてこなかった記憶ばかりが、棘となり胸を刺す────ですが、貴方はそれを抜くことはしない。苦痛から解放されるとしても。私にはとても理解ができません。貴方も狡噛も、そしてあの人も・・・私には無い強さを持っているから、眩しいのでしょうね」

まさか同じ並びに加えられるとは思わず、狡噛は軽く咽せた。一方で話題の中心だった降谷は、諦めたように息を吐き、食事を再開させる。その口元は確かに弧を描いていた。彼女の声は心地が良い。話し方の影響もあるだろう。抑揚を持たせた、悠然たる口調。

「降谷さんは、どうして刑事になったんです?」
「今日は質問ばかりですね。そんなに僕に興味がおありですか?」
「ありますね。深く知れば、貴方を好きになれるかもしれない。私も、そして狡噛も」
「つまり、今のところ僕は嫌われていると」
「好感を持たれていると感じるなら、盛大な勘違いだ」

苦笑する降谷に、狡噛が即座に言い返す。既視感のある光景に、響歌は小さく笑った。赤井は去なすのが上手いが、狡噛は意外にもそうではないらしい。と、彼女はそんな風に分析したが、大間違いである。狡噛の苛立ちは、半分は響歌が原因だ。この男に近づけてはいけない。何故かそう思った。そこに嫉妬の類がないと言えば嘘になるが、恐らく降谷も響歌も、互いに恋愛的な興味は抱いていない。ただ危険だと、刑事の勘が告げているのだ。

「ある人を見つける為です。とても大切な女性を」

その答えに、響歌は表情を消した。思いも寄らない内容に戸惑ったわけではない。ただ、己と重ねたからである。彼女もまた、従兄の行方を捜している。この社会で姿を消すことは、とても難しいことだ。しかし最も簡単な方法がある────死。生命維持活動が停止してしまえば、巫女の目に映ることはない。

「彼女さんですか?」
「いえ、初恋の人です。どちらかと言えば、憧れに近いかもしれませんが。この見た目の所為で、幼い頃はよく揶揄われまして」
「成る程、経験があります。私の場合、名前と見た目が乖離していたからですけど」
「だからお前は捻くれてるのか」
「はは、まさか!捻くれてるのは生まれつきだよ。そんな戯言に影響を受けるような繊細な人間だったら、こんな生き方選んでない」
「だろうな」

狡噛の皮肉に鼻を鳴らし、響歌はどこか自慢げに笑った。その表情を見つめながら、降谷は再確認する────本当に強い女性だ。強くしなやかで、美しい。

「今は自分の図太さを誇りに思うよ。この道を選んでいなきゃ、出逢えなかった人達がいる・・・尊い絆ばかり。これからどんな結末が待っていようと、私が自分の選択を悔いることは絶対にない」

愛おしそうに己の胸を撫でて、響歌は断言する。後悔しないように生きるのは、誰にでも出来ることではない。なのにやってのけると、そう思わせるのが彼女だ。

「話の腰を折ってしまいました。続けてください」
「・・・あの頃の僕は心身共に幼く、揶揄われたらやり返す、そんな子どもでした」
「誰かさんは大人になってもそうだけどな」
「えー、誰のことかな」

降谷が態と含みのある言い方をすると、狡噛も便乗する。それに響歌は得意の悪ノリで返した。刹那の和やかな雰囲気に三人揃って微笑んだ後、降谷は会話を再開する。

「そんな僕を救ってくれたのが、その人です。怪我をすると、いつも治療してくれました。最後の頃は、関わりが欲しくて、態と擦り傷を作ってみたり・・・彼女の言葉は、今も僕を奮い立たせてくれます」
「人である以上、争わずにはいられない。人間は遥か昔から争いを繰り返している。それは心という厄介な代物があるからなのでしょうが、逆に心があるからこそ人です」

見下すような瞳の中には、微かな同情がある。そして自分もまた同じ人間なのだという皮肉。しかし、響歌は知っている。愛する者達もまた人間であり、大事なのは心の在り方だと。同じ生き物でも、違う生き方を選ぶことができる。

「それ以外は獣と同様、皮を剥げは皆同じ。皮膚の下は同色・同形の血と骨と肉で構成されているというのに、人間とはつくづく愚かしい生き物ですね。だけどきっと、愚かだからこそ美しい」

彼女らしい言葉を聞いて、狡噛は頬を緩めた。一方で降谷は、表情を硬くする。そんな彼の反応に、残りの二人が怪訝そうな顔を向けてきた。表に出してしまうとは不覚である。苦笑しつつ、降谷は複雑な心境を吐露した。

「その人が僕にかけてくれたのが、今の響歌さんと同じ言葉でした。不思議ですね。彼女は貴女とは違い天使のような人だったのに」
「・・・良い顔で落とすの、やめてもらえますか?」
「いや、ただの事実だろう。天地がひっくり返っても、お前は天使って柄じゃない」
「なんでこんな時だけ連帯感出してくるの?」

急に降谷の肩を持つ狡噛を、響歌は拗ねたように睨む。子どものような反応をされても癪に障らないのは、一種の才能かもしれない。彼女が持つ愛嬌がそうさせるのだろう。態とではなく、本気で拗ねているから、心を掴まれる。

「あ、降谷さん。マヨネーズあります?」
「日本人は和食なんじゃなかったか?」
「うるさい。和洋折衷なの」
「冷蔵庫にあるので、取って来ますよ」
「ああ、いいですよ。差し支えなければ、自分で行きます。開けても構いませんか?」
「ええ、勿論。向かって左側の棚にあります」

頷き席を立つと、響歌がキッチンへと消える。それを見計らったように、降谷が口を開く。狡噛もまた、彼を真っ直ぐ見つめていた。

「狡噛執行官は、本当に彼女のことが大切なんですね」
「ああ、その通りだ。あいつに危害を加えてみろ。俺はあんたを殺すぜ」

脅しではないと、降谷は瞬時に悟る。この男もまた、自分と同じ獣。愛しき者を害すなら、その牙を剥き出しにするだろう。ひどく野生的で、ひどく人間らしい。

「ご自由に。信じてもらえないかもしれませんが、僕も貴方やあの男とそう変わらないですよ。美しい獣に魅入られたうちの一人に過ぎない────それに、彼女に呪われるのは御免ですから」

力の抜けた笑みを浮かべ、降谷は言う。その表情は彼が初めて見せる素顔であった。

「あんた、もっと素を出した方がいいんじゃないか」
「好かれる為に演じているわけではありません」

折角のアドバイスを満面の笑みで突き返してくる。こういう所が気に食わないんだ。戻って来ると、響歌は頬を引き攣らせる狡噛を不思議そうに見つめた。

「まぁたそんな顔してる。ほら、笑って。にこーって」
「や・め・ろ」

両手の人差し指で、強引に口角を持ち上げられる。あまりに歪な笑顔に、降谷は思わず吹き出した。愛想笑い以前の問題である。もはや笑顔と呼べるのかすら怪しい。彼がその頭を鷲掴み抵抗すると、響歌も負けじと頬を摘み返す。これでは子どもの喧嘩だ。そこには、潜在犯と健常者の壁はない。彼女が笑えば、狡噛もまた表情を緩める。なんてことはない、二人の人間が触れ合っている、ただの日常の風景にすぎない。



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に痺れた!