この出逢いに乾杯

何故────そう問いかける権利など、自分にはない。そして、息子の選択を責めることもまた出来はしない。その心に影を落としたのは、紛れもなく父親である自分。では何故、同じ道を選んだのだ。

「伸元」

公安局内の空き部屋で、征陸は息子を呼んだ。目の前に立つ青年にはもう、父を慕っていた少年の面影は残っていない。この口から自らの名が紡がれることすら嫌悪するように、顔を歪めている。

「なんだ、今さら父親面か?家族を捨てたあんたに、俺の選択を非難する資格はない」

そう吐き捨てると、宜野座は床を踏み付けながら部屋を出て行った。一人残された征陸は、静けさの中で奥歯を噛み締め、拳を握る。行き場のない感情を、息と共に吐き出そうとした時だ。

「随分と拗らせてますね」

ひどく能天気な声が部屋に木霊した。突然のことに、征陸は咄嗟に振り返って身構える。ところが、その視線の先にあった光景に、思わず警戒を解いてしまった。オフィスチェアの背凭れに身を預けこちらを見つめているのは二つの瞳。そこには、少女がいた。黒いアーモンド型の目は、征陸を閉じ込めるように瞬きをする。

「一応言い訳をすると、最初にこの部屋にいたのは私です。そこに勝手に入って来て勝手に話し始めたのは貴方達の方なので、盗み聞きには当たらないかと」
「・・・そうかい。だがな、お嬢ちゃん。ここは子どもが入って来ていい場所じゃねぇよ」

諭すように言えば、少女はキョトンとしてから頷き、手を前に突き出してくる。彼女がそのポーズを取るとすぐに、ホログラムが出現した。そこには征陸が見慣れた警察手帳。目の前の少女の写真と、その下には彼女の身分を証明するというお決まりの文言が記されている。それを見て、今度は征陸の方がポカンと口を開けることになった。

「初めまして、征陸執行官・・・・・。本日付けで厚生省公安局刑事課特別対策室に配属されました、響歌・ルートヴィヒと申します。御子息とは同期になりますね。ちなみにこの部屋も今日から私達・・の職場なので、息子さんと語らうなら今後は別の場所をお勧めします」

ピクリと征陸が眉を動かす。自分は彼女の前で身分を明かしてはいない。成る程、鋭い娘だと、そう思った。先程の宜野座との会話から、征陸が執行官であると見抜いたのだろう。そして、相手が潜在犯と知ってなお、この態度。見下してくる人間は多いが、彼女は違う。軽蔑も軽視もしていない。

「ご助言感謝します、監視官」
「うわ、堅苦しい。もっと砕けて呼んでくれません?刑事としても人間としても、私より先輩なんですし」

敢えて敬語で返すと、少女────もとい響歌は子どものように顔を顰めた。表情豊かである。この年頃の娘というのは皆こうなのだろうか。分からなかった。なにせ征陸が若年層と関わる機会など滅多にない。あるとしても、その相手は潜在犯か、上司である監視官。こんな風にコロコロと表情を変えるような人間ではない。

「なら言わせてもらいますがね、潜在犯とは一線を引くべきですよ。でなきゃ、あんたもいつか呑み込まれる」
「呑み込まれる?何にです?」
「────闇、だよ」
「はぁ、闇ですか。中々面白い事を仰るんですね。シニアジョークですか?そもそも、私を含め漏れなく全国民すでに闇の中でしょう。シビュラの腹にいる以上は」

刹那、空気が凍てついた。つい数秒前まで無邪気な色をしていた表情が、美しく歪む。腹と口遊むのに合わせ、響歌は靴先で床を軽く叩いてみせた。まるで内からその腹を刺激するように。踊り出しそうな雰囲気のまま、彼女は征陸の手を取った。右手と同じように機械の左手を愛おしげに撫でて、歌うように語る。

「同じ闇なら、愉しまないと」

ひどく優しい声で言うと、彼女は天使のように微笑んだ。それこそが他と同じく、征陸が響歌・ルートヴィヒに魅入られた瞬間。そこで、映像が途切れた。懐かしく鮮烈な記憶を名残惜しく思いながら、征陸は瞼を開ける。一番に真っ黒な天井が視界に入り、続いて煙草のにおいが鼻を掠めた。数秒そうしていると、ペラと乾いた微かな音が聞こえた。今は聞く機会のあまりない、紙の擦れる音だ。視線だけを横に向ければ、部屋と同じく黒いシャツを纏った男の姿。

「悪いな、眠っちまって」
「構いません、ほんの一時です。夜はまだ長い」

ゆっくりと身を起こす征陸に、赤井は低い声でそう返した。まだ霞む思考を揺さぶるように、征陸は記憶を辿る。ああ、そうだ。昨晩は彼と響歌に誘われて、酒を飲んでいた。誰かの前で酔って眠ってしまうなど、焼きが回ったものだ。そういえば、その彼女はどこに行ったのだろう。心地の良いあの喋り声が聞こえない。部屋を見回そうとしたが、視線はある一点で止まる。目の前にその姿はあった。テーブルを挟んだ向こう側、赤井の膝に頭を預け、小さな寝息を立てながら丸まっている。日常なのだろう。彼も慣れたように左手で本を持ち、右手で響歌の髪を撫でていた。この光景を宜野座が見たら、顔を歪めそうだ。

「夢を見た」

征陸がそう呟くと、赤井はやっと顔を上げる。一度だけ瞬きをしてから、そっと本に栞を挟み、姿勢を正した。仕事中はワックスで固められている黒髪が、はらりと目にかかる。その下から澄んだ緑色が真っ直ぐ征陸を捉え、細められた。今まであまり意識していなかったが、整った顔立ちをしている。見目もさることながら、頭も良く、何より優しさを併せ持っている。いつだったか響歌が言っていた、この男は絶対にモテると。

────ですけど、私と出逢ってしまったのが運の尽きですね。あんなに優秀な手綱ですから、そう簡単に手離せませんよ。できることなら、一生共にいたいくらいに。

切なげにそう言って瞳を揺らした姿を憶えている。恐怖を抱くべき局面では笑ってみせるのに、妙なところで臆病で悲観的な娘だ。誰にでも弱点はあるものだと征陸は喉を鳴らした。

「内容を伺っても?」
「ああ、お嬢と初めて会った時のさ」
「・・・成る程、分かります。私もよく夢に見ますから」

正直に答えると、赤井は柔らかく笑い返す。その表情に潜在犯の影はなく、ただ愛しい相手への思いだけがあった。思えば、彼らの出会いについて聞くのは初めてかもしれない。新設部署だったため、響歌と赤井が公安局で働き始めたのは同時期だ。しかし征陸が知る限り、赤井は初めから響歌に心を開いていたように感じる。誰にでも愛想を振り撒く男ではないから、些か妙であった。

「お嬢がどうやってお前を懐柔したのか、興味があるな」
「大した絡繰りはありません、力技ですよ」
「ははっ、そいつは目に浮かぶ」

肩を竦め赤井が言えば、征陸もまた肩を揺らした。決して暴力や暴言を行使してなどいないのに、彼女の行動や言葉には胸を貫く威力があることをよく知っている。赤井も、そして征陸も、出逢った瞬間にそれを思い知った。

「出会った次の日に散髪されまして。矯正施設に乗り込んできたんですよ、こいつは。ガラス越しじゃなく直に話をさせろと言って。鋏を持ち部屋に入って来た時は流石に驚きました。あの瞬間、悟りましたね────この女は普通じゃないと」
「は・・・そりゃまた、中々の絵面だな。そもそもお前さんが長髪だったなんて初耳だ」
「わざわざ言う事でもないでしょう。綺麗な髪だと褒めた直後に刃を入れてきました」

苦笑しながら二本指でジャスチャーする赤井を前に、征陸は吹き出した。慈悲の欠片もない。響歌のことだ。社交辞令ではなく、本心から美しいと思ったのだろう。それでも、邪魔になるなら切り捨てる。取捨選択はお手の物だ。

「ですが、今は心から感謝しています。私を縛っていた鎖も、彼女は同時に断ち切ってくれた」

目を伏せ、膝の上で眠る響歌の髪を撫ぜた。すると彼女は気持ち良さげにその手に擦り寄る。まるで猫科の獣のようだ。気品のある毛並み、周りを魅了する愛嬌、そして時に牙を剥く野性。寝心地はあまり良くはなさそうだが、彼女にとっては何処よりも赤井の膝はお気に入りの場所なのだろう。

「俺も同じかもしれんな」
「どうでしょうね。貴方は未だに囚われているようにお見受けしますが」
「・・・容赦がないねぇ」

丁寧な言葉で痛い所を突いてきた。そういう所は彼女によく似ている。苦笑する征陸を見返す瞳は、吸い込まれそうな緑色だ。どこか宝石を思わせる色彩に、思わず顔を逸らした。

「誤解をしないでいただきたい。貴方と私は違う。貴方の場合、囚われているべき・・だという意味です。その思いは貴方を父親たらしめるもの、捨ててはならない。こいつに罵倒されたいと言うなら、止めませんが」

響歌を見下ろし、どこか挑発的に赤井は言う。罵倒より先に殴られそうだ。たとえ相手が征陸でも、否、征陸だからこそ彼女は許さないだろう。信じているから、大切だから、本気で怒るに違いない。その時、響歌が微かに声を漏らす。赤井はそれにピタリと手を止め、片眉を上げた。

「これは珍しい、いつになく早いお目覚めだな」

緩い動きで起き上がり、欠伸をする。赤井の揶揄いを聞きながら、響歌は薄く開いた瞼で征陸を見つめた。数回瞬きをすれば、いつも通りの大きな瞳が息を吹き返す。

「マサさん、私のこと呼びました?」
「いや、呼んでいないが」
「あれ、気の所為でしたか。今何時です?」
「3時47分だ」
「うーん、二度寝するには微妙な時間ですね。今日は非番ですし、起きてることにします」

大きく伸びをして軽く髪を整えると、響歌は慣れた様子で冷蔵庫から水を取り出し飲み干した。まるで自分の部屋だ。ペタペタと小さな足音を立てて戻ってくると、今度は征陸の隣に座る。

「ところで、何の話をしてたんですか?」
「赤井がお前さんと出会った時の話さ」
「ふふ、それは懐かしい。運命の出会いです」

その言葉に嬉しそうに目を細め、響歌は征陸の肩に頭を預けた。自分とは違う柔らかな気配に、少し心配になる。男の腕に凭れ掛かるなど、あまり褒められた行為ではない。

「マサさんと会った時のことも、よく憶えていますよ。あの時からずっと、私は宜野座が羨ましいです」
「羨ましい?そりゃまた意外だな」
「私もマサさんみたいな父親が欲しかったなぁ」
「・・・嬉しい言葉だが、実の息子に愛想尽かされてる身からすりゃ、複雑だね」

真っ直ぐな好意に征陸はなんとも言えない顔をした。彼女はいつも欲しい言葉をくれる。それを心から嬉しく感じながらも、その度に征陸の胸には一抹の影が落ちた。皮肉なことに、その言葉を本当に向けてほしかった息子は今も、自分を憎んでいる。奥歯を噛み締める征陸の複雑な心内を見透かしてなお、響歌は楽しげに声を漏らして笑った。

「はは、ご冗談を。本気で見限っているなら、嫌悪すらしないでしょう……って、盛大なブーメランですね」

一転、ゲテモノでも食したように響歌は顔を歪める。意味が分からず首を傾げる征陸とは正反対に、赤井はククッと喉を鳴らした。流石は相棒、全て語らずとも彼女の思考を理解しているのだろう。そんな赤井へと不機嫌そうに一瞥を向けてから、響歌は征陸に説明を始める。

「私はシビュラが嫌いです。つまり、先程の理論に従えば、私はまだ巫女を見限っていないということですね。逆を言えば、嫌悪すら抱かなくなった瞬間、この国での物語が終わる。嗚呼、その時が待ち遠しいです」

響歌はそう言いながら、指を組み態と神に祈るポーズをしてみせる。うっそりと目を細め、笑みを浮かべた。美しくもどこか不気味な雰囲気に、征陸は唾を飲み込む。一方、向かいに座る赤井は彼女と同じように口角を上げた。この男もまた、異常だ。

「それに、喧嘩ができるだけマシですよ」

パッと姿勢を正し、響歌は征陸に笑いかけた。眩しそうな表情だ。そこには確かに羨望が滲んでいる。何も紡げずにいると、彼女は宙を見つめながら切なそうな声で言った。

「私は、喧嘩すらできませんでした。ですが、貴方は違う。護るべき存在ものは、今も貴方の傍にあります。手遅れなんかじゃないですよ。だから、そんなに悲しい顔しないでください。私に祈る神はいません。なので、これは貴方へのお願い・・・というより命令です。生きて、生きて、足掻き抜いてから死んでください───約束ですよ、マサさん」

残響のようにその声が木霊し、遠ざかっていった。消えゆく寸前の意識の中、記憶の奥底で響歌が笑う。間に合っただろうか。自分は彼女に誇れる姿で在れただろうか。薄れる視界の真ん中で、息子の顔が歪む。護れたのだと、そう強く実感しながら、征陸は笑った。

 - back - 

に痺れた!