無傷の心などない

弥達は一足先に行ってしまった。一人で長椅子に腰掛けて天井を見つめる。もうすぐビュッフェ形式で披露宴が行われるそうだ。人も大勢来るらしいから体力回復に努めないとジリ貧になりそう。その前に少し休みたかった。

「美人がいると思ったら、名前姉さんだ」
「・・・風斗」

ああ、逃げ遅れた。これじゃ休めやしない。背後から抱きつかれる。これで15歳とは世も末。絡み付いている腕をやんわりと解いて、隣をポンポンと叩けば嬉しそうに座った。他の兄弟に見せる姿と比べたらまだ年相応なのかもしれない。

「仕事は忙しいの?」
「まあね、姉さんこそ疲れた顔してる。あのエロ坊主に何かされたの?」
「エロ坊主って・・・あながち間違っていないわね」

大体合ってる。否定しようとしたのにできなかった。エロも坊主もその通り。苦笑いを浮かべれば、得意気な顔。侑介には憎たらしい顔でも10も年上の私にとっては可愛い弟だ。

「あ、あの馬鹿女には会った?」
「馬鹿女・・・まさか絵麻ちゃんのこと言ってるの?」

仮にも姉なんだからと言おうとしたけれど、風斗の場合は琉生以外の兄弟にもそんな感じだ。決して悪い子じゃないのに、どうしてわざと敵を作るようなことするかな。

「いたっ、なにするのさ!」
「程々にしておきなさい」

口煩く説教するのは柄じゃないから、デコピンだけにしておく。アヒル口をさらに尖らせる顔に何人の女性が落ちたのだろう。

「風斗!!」

急に大声が響いて、風斗だけじゃなく私も肩を揺らしてしまう。声を辿れば、廊下の向こうから歩いてくる侑介とそしてもう一人−−−祈織だ。私がいると分かると、いつも落ち着いている瞳が見開いた。

「なんだ、名前姉と一緒か・・・勝手にふらふらすんなよ。捜す身にもなれっての」
「馬鹿は声が大きいな。子供じゃないんだから、放っておいてよ。むさ苦しい男共より名前姉さんといる方が刺激的でいいに決まってるでしょ」

侑介の性格じゃ反発するに決まってるのに、また憎まれ口を叩く。喧嘩が勃発する前に立ち上がる。ぴょんぴょん跳ねた前髪を撫でて、ポケットから取り出したものを侑介の手に乗せた。

「はいはい、喧嘩しない。風斗は私の相手してくれてたの、だから怒らないであげて。風斗もそういう言い方しないの。飴ちゃんでも食べて、ほら」
「名前姉・・・俺もう16なんだけど。てか、飴ちゃんって雅兄かよ」

文句を言いつつ怒鳴り返すことはしない素直な子だ。ガシッと風斗の腕を掴んで引きずっていく、ぎゃあぎゃあ騒ぎながら。案の定、祈織は私の横から動かなかった。まあ私も話をしたかったからいいけれど。

「かっこよくなったね、スーツもよく似合ってる」
「・・・僕の前では、無理して笑ったりしないで」

冷たい指先が頬に触れた。無理して笑わないで−−それは私の台詞。他の兄弟にも私にも心の多くは曝け出さないのに、昔からこっちの心には容赦なく触れてくる。そんな所は要と似てるなんて、言わない方がいいかな。

「無理はしてないよ、そこまで器用じゃない・・・この前は挨拶もしないでごめんね。椿から聞いた、怒ってくれたんでしょう?すごく嬉しかった、ありがとう。あの時の私の顔、要には内緒ね」

これは、心からの言葉。貴方が私のために怒ってくれて本当に嬉しかった。シーっと人差し指を立てて言えば、ふっと目を細められる。私の言葉一つじゃ、祈織の心を覆う氷は溶かせない。分かってるけど少し悔しいな。祈織の身に起きたことは知っている、私は傷ついたこの子を置いて行った薄情な姉。

「姉さんにはずっと笑っていてほしい。不愉快だけど、それができるのは要兄さんだけだってことも分かってる。だけど忘れないで、僕は何があっても姉さんの味方だから」
「あのね祈織、それは私も同じよ。いつだって貴方の味方。だから抱きしめてもいい?」

子供の頃とは違う、背伸びをしないといけない。屈んでくれるあたり本当に優しい子。指通りのいい柔らかな髪は昔のままだ。軽く頬にキスをすると、擽ったそうにする。

「背が伸びたね・・・あ!そうだ祈織、今度何か食べに行かない?もちろん私の奢り」
「姉さん、そういう所は椿兄さんみたい」
「いくら祈織でも怒るわよ」
「そんなに嫌なの?」

目を奪われる−−−祈織が笑った。いつか自然に笑えるように、私ができることは全部やろう。それはきっと要の願いでもある。祈織が大人になって、3人でお酒を飲めたらいい。

無事に結婚式が終わる。兄弟から歓迎の言葉を受けた絵麻ちゃんはとても嬉しそう。他の兄弟も穏やかに笑っている。少し離れた所からそれを見守って思う−−光が言っていた通り、厄介なことになりそうだな。
たとえ家族の形が変わっても、また皆で笑えればそれでいい。それに今は私自身、余裕がない。

「要!!」

お開きになって騒つく人混みの中、叫んだ。目当ての人物はちゃんと声を拾ってくれたようだ。視線が絡むと、家族には見せないあの熱の籠った瞳。それを合図に駆け寄る途中で躓いた私を、抱き留めてくれる。昔椿に借りた少女漫画にこんなシーンがあったな、なんてどうでもいいことを思った。

「おっと!熱烈だね、飛び込んでくるなんて」

この余裕を崩したい。私だけを見てほしい。その瞳をあの子に向けないで。欲望ばかりが浮かんでくる。だけど、これが私。本当の恋心きもちから目を逸らすのは、もう終わり。

腕を引っ掴んで、歩き出す。何も言わず付いて来てくれることに安堵しながら、端へと移動して向き合った。日本こっちに帰って来てから何度か話したはずなのに、久しぶりに顔を見た気がする。

「こんな所に連れて来て、期待しちゃうよ」
「ねえ、要」
「ん?」
「っ・・・貴方の隣は、まだ空いてる?」

恋人同士だったのに、会話をするだけで心臓がうるさい。先を促す顔があんまり優しいから、言葉が詰まるわ、声は震えるわで恥ずかしくなる。学生の頃みたいに頬が熱くて、ちょうどあのタトゥがある辺りを見つめた。数秒経っても返事がなくて、顔を上げる。

「なに、その顔」
「ひどいなあ、兄弟一のイケメンにそれはないんじゃない・・・参ったな、俺いまどんな顔してる?」
「質問してるのはこっちなんだけど・・・情けない顔」

正直に答えれば、くすっと笑われる。絡まっていた視線が解かれて、長い指が金色の横髪をくしゃりと撫ぜた。伏せられていた目が私を射抜く。ずっとそう、見つめられると動けなくなる。

「生憎、ずっと空席なんだ。誰かさんが席を立ってからも埃が被らないようにしてるんだけど」
「それじゃあ、早めに予約しておかないと駄目ね」

思いの外穏やかに笑うことができた。目の前で息を飲む気配がして、小さく名前を呼ばれる。そして気づいたら視界が暗い。腰に回る腕の感触で初めて状況を理解した。

「予約なんかじゃなくて、今すぐ奪ってくれない?」
恋心わたしが自分を許してこの気持ちに真正面から向き合えるまで、あと少しだけ時間を頂戴。全力で走る・・・だからっ、待っていてほしいの」
「あんまり待たされると30になっちゃうよ」

だから全力でと言っているのに、要は私がそこまで鈍足だと思っているのだろうか。まあ、比喩なのだけれど。もう2年も待たせてしまったのだ、さすがにプラス3年するほど馬鹿ではない。言い返そうとして顔を上げたら、その端正な顔が近づいてくる。反射的に両手で頭を掴んで阻止した。

「人の話、聞いてた?」
「ええー、キスも駄目なんて厳しすぎない?俺もう既に挫けそうなんだけど」
「それでも坊主なの!?」

一度は別れた相手だ、つまり今は恋人ではない。決して他人でもないけれど。ここは外だからいい。もし自分の部屋なんかでキスをされようものなら、なし崩し的に最後までいってしまいそうだ。

"恋心わたしが自分を許す"なんて、どうでもいいのかもしれない。要は私の愚かさすら愛してくれるだろうから。だからこそ、その優しさに寄りかかってはいけない。そんな心情全てを見透かしたように笑ったと思えば、額に落とされる唇。

「待ってるよ、可愛い俺だけのお姫様」
「さすがにお姫様はやめてくれない?」

耳に残るリップ音と甘い瞳だけで、身体が熱くなる。よく7年もこの男と付き合っていたな、と自分を褒めたくなった。

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とヒロインの関係が好き