「もしもし・・・・要?」
返事がない。まさか何かあったのだろうか。倒れたとかだったら一大事だ。思わず立ち止まってしまう。
「ねえ、どうかしたの!?大丈夫?」
大きな声を出す私を、道行く人達が怪訝そうに見る。堪らず走り出そうとしたら、腕を引かれる感覚がして身体が後ろへ倒れた。私を受け止めたのは地面ではなく胸板。こんな時に変質者に会うなんて最悪だ。こんな通りで堂々と、いい度胸だ。咄嗟に持っていたバックを背後に振りかざす。
「うおっ!」
左耳に当てた電話の声と、右耳で拾った声が重なる。はっと振り向けば、同じように電話を片手にバックを受け止める要の姿。ジャケットということは仕事ではないらしい。この男は何をしているんだ。こんなイタズラはドラマでしか見たことない。あれだ、電話中に『後ろ向いてみて』とかいうやつ。
「まさか殴られるとは・・・名前?」
本気で心配したから笑い返せなかった。ふいと踵を返して歩き出す私を、慌てた様子で追いかけて来る。速足で歩いてもコンパスの長さが違うのだから、すぐに隣に並ばれた。
「もしかして怒った?」
「当たり前でしょ。何かあったと思うじゃない」
「ごめん、姿が見えたから少しイタズラしたくなってさ。お詫びに夕食ご馳走するから」
そう言って、さらりと手を取られる。言い返してやろうとしたのに、あまりに嬉しそうだから何も言えなかった。連れて来られた店はオシャレでかなり高級。しかも要と一緒だと女性の視線が突き刺さる。以前の自分がどうやってバリアを張っていたのか謎だ。
「そういえば和眞さんは?何も聞かずに連れて来ちゃったけど平気?」
「今日は外で食べるらしいから大丈夫」
思い出したように訊かれる。他の女の子には事前にちゃんと確認するんだろうな、絵麻ちゃんとか。ああ嫌だ。せっかく一緒にいるのに、こんなこと考えなきゃいけないなんて。気づかれないように息を吐いた。
ワインで乾杯して笑って話す私達は恋人同士に見えるのかな。私は本当に、貴方に相応しい?
店を出て並んで歩く。歩幅を合わせてくれているのが分かる。2年前は気づかなかった小さな優しさを見つける度にまた好きになるのが、なんだか悔しい。ふと空を見上げたら、センチメンタルな気持ちはどこかへ行ってしまう。思わず声が漏れた。
「あ!ねえ見て、星がすごく綺麗!!」
冬の夜空は星がよく見える。もちろんもっと空気が澄んだ場所の方が綺麗だろうけれど。年甲斐もなく興奮してしまって、要が一言も発していないことに全く気づいていなかった。
「名前」
妙に真剣な声で名前を呼ぶから首を傾げてしまった。
目を合わせて後悔する。ああでも、これは後悔とは言わないのかもしれない。少なくとも
そんなことを考えているうちに腕を引かれる。抵抗できなかったわけじゃない、しなかったのだと思う。
私はズルい。いつも要に言わせて、行動させている。あの日『待っていて』と言った唇は、呆気なく奪われた。隙間なく覆われて、閉じかけた目で見たのはあの熱に浮かされた瞳。
「んっ、かな、め」
解放されたのは一瞬。耳に届いた自分の声に恥ずかしくなる。満足に酸素を得られぬまま、降ってくる口付けに応えるので精一杯だ。迷う舌先を逃がさないとばかりに捕らえられる。心臓まで吸われている気分だ。足の力が抜けそうになって縋り付けば腰を抱かれる。トドメとばかりに下唇を食んでペロリと舐められた。
「はぁっ、堪らないな。全部舐め尽くしたい」
覆い被さるように抱きしめられて、耳元で囁かれた言葉に全身が沸騰したように熱くなった。好きだと叫びたい。その優しさに縋りたい。じわりと涙が滲んできて鼻を啜れば、ぴくりと腰に回った腕が動く。
「っ、ごめん。抑えられなかった」
珍しく取り乱している。我に返ったように口元を手で覆って呆然と。なんて言えばいいの。謝罪も違うし、お礼を言うのも変だ。気まずいけれど、ずっとこのままでもいいと思う自分に戸惑う。
「謝るのは私の方」
「・・・どうして?」
「昔から要に言わせてばかり・・・待たせておいて、わたしっ、キスされて嬉しいって思って、
止めきれなかった涙が頬を伝う。顎から落ちる前に、その雫を優しい指先が掬った。愛してると言えない理由が分からない。プライドか、意地なのか。ひとつだけ言えるのは二度と間違えたくないってことだけ。
「笑って言いたいの」
「分かってるよ、俺が何度だって拭ってやる」
全力で走っているのに、まだ届かない。見えない壁が邪魔をする。たぶんそれは、過去の私の置き土産。
「え!?スノボ?行く!」
年が明けた1月2日の夜に、棗から電話がきた。なんでも、弥の誕生日祝いを兼ねて苗場に行くらしい。朝日奈家とは、途中にあるサービスエリアで合流するそうだ。ちょうど去年の色々なストレスを発散したいところだったし、二つ返事でOKした。父さんに言うと『若いねえ』と快く見送られる。
「え、昨日仕事だったの?疲れで倒れたりしないでよね、洒落にならない」
「お前・・・代わりに運転しようか?だろ、そこは」
小言が始まった、ここは寝たふり。棗とふたりの時は結構無言だ。椿といると絶対こうはいかない。寝正月を決め込んでいたから、深夜だけど眠くはないと思っていたのに気づけば意識は沈んでいた。話し声で目が覚めて、運転席を見ると棗の姿がない。
「そこにいろ!」
聞こえた声に外を見れば、ちょうど棗が走り出すところだった。何事なの。覚醒しきっていない脳のまま外へ出ると絵麻ちゃんがいて、その視線の先から棗がトートバックを片手に歩いて来る。
「何かなくなってるものはないか?」
その問いにやっと状況を理解した。どうやら、ひったくりに出くわしたみたい。それはそうとこの二人、いつの間に仲良くなったんだろう。会話から彼女のマフラーは棗があげたものらしい。へえ、と思いながら眺めていると椿が姿を見せた。
「そのマフラーあげたの棗だったんだ…ムカツクっ」
「はぁ!?」
棗だけじゃなくて私も驚いた。まさか椿もあの子が気になっているなんて・・・。たぶん棗は気づいてないだろうけれど、何か不穏な空気は感じ取ったみたい。
嫌な予感がする。杞憂に終わるといいなと、夜空を仰いで思った。
スキー場に着いて荷物を部屋に置く、私は絵麻ちゃんと同じ部屋だ。意気揚々とボードを履いて、いざ行こうとすると肩に手を置かれた。
「名前、俺と滑ろうよ」
「驚いた・・・要も来てたの?」
「ええー、なっちゃんと合流したときも居たよ?」
「今日はストレス発散に来たから暫くしてからね」
何か言っている要を残してリフトへ。頂上に着くと、見知った顔が見えた。雪に溶け込むような白い髪が帽子からはみ出ている。
「椿」
「ああ、名前・・・・ふぁに、してんだよ」
ほっぺたを掴んで横に伸ばす。こんな腑抜けた顔は見たことない。何回か伸ばしては縮ませを繰り返す。私は要みたいに口が上手い方じゃないから、こんなことしかできない。大人しくされるがままだから、椿も私の意図を汲んでくれたみたいだ。
「せっかく来たんだから楽しまないと損だと思う」
「っ、分かってるよ!」
強い口調で言い返されるけれど、驚かなかった。イライラしてるのは見て分かるし、その原因も。"好きなことには全力"が発揮されちゃったわけだ。まあ確かに可愛いし、いい子だもんな。
「ほら滑ろう!」
だけど私が口を出せるのはここまで。私には椿の全ては分からない。手を勢いよく引けば、迷う瞳をしたままだけど付いて来た。
「世話焼いてんのは俺の方だったと思ってたんだけどな・・・名前って意外にすげえよな」
「名前お姉ちゃんに付いて来いや!!」
「どんなキャラだよ!」
何回か滑ると、天候が怪しくなってくる。やっぱり山の天気はなんとやら。一旦休んだ方がいいかもしれない。ボードを外して中へ入って、飲み物を買おうと自販機の前に立ったそのとき。
「どうしたの!?」
鼓膜を揺らす雅臣兄さんの声。あんなに焦った声を出すのは家族に何かあったときだけだ。小銭を入れたのも忘れて姿を探した。見えたのは要に抱えられた絵麻ちゃん。まさか、怪我をしたのだろうか。慌てて駆け寄りながら要の顔を見て、はっとする。だけどすぐに合点がいって、頭によぎるのは−−−祈織の姿だ。