「兄さん、彼女の足は平気なの?」
「名前・・・うん、問題ないみたい」
「絵麻ちゃん、はいこれ。あんまり好みじゃなかったらごめんね。お茶にすればよかったかな?」
「いえ、ありがとうございます」
要の歪な笑顔の影響だろうな、この子も上手く笑えてない。怪我をして不安なだけじゃないだろう。揺れる瞳を見ていたら勝手に腕が伸びた。
「え!?名前さんっ、あの・・・」
胸元に導くように抱きしめる。急なことに絵麻ちゃんはもちろん、雅臣兄さんもきょとんとしているけど、気にしない。こうされると安心することを身を以て知っている。だけど今、要はここにいないから。
「少し落ち着いたかな・・・ごめんね、急に抱きしめたりして。私はもう行くけど、今日はしっかり休んで」
「はいっ、あの・・・」
「うん、少し様子を見て来る。あまり心配しないで、たぶん要はそれを望んでないから」
笑う余裕がなくて、真顔で言葉を紡いだ。それから寂しげな背中が去って行った方へ急ぐ。皆から見えない廊下の先で独り佇む要がいる。下を向いていた視線がゆっくりと上へ。その唇が私の名前を刻む。
「隣に行ってもいい?」
「もちろん」
その手を握れば、小さく震えているのが分かった。優しくて強い要が怯えている。手を引いて、廊下にあるベンチに並んで座った。ガラス越しに見える雪景色が憎らしい。これ以上、私の大事なものを傷つけないでと毒づきたくなる。何も言わずにただ手を繋ぐ。
「雪みたいに溶けて無くなればいいと思う?」
「要らしくない、"何"が?」
「意地悪だな、分かってるくせに」
「−−−思わない。どんな記憶も思い出も、無くしていいわけない。そのおかげで強くなれる、
例えば漫画や小説みたいに記憶が消せる力があるとして、祈織はあの記憶を手放したいと思うだろうか。私には想像すらできないから、きっと真にあの子を救う存在にはなれやしない。
「生きることを義務だと思ってほしくない。
「名前・・・・」
望みばかりが溢れてくる。あの子が独り立つ薄氷の上を私は渡れない。慰めるつもりで来たのにこれだ。私が泣いてどうする。要は泣かない、祈織もそうだ。それが時々、どうしようもなく苦しい。
その日は寒かった。夕方に外を見ると雪がちらついている。ああ、嫌だ。しかも今日に限って忙しい。残業決定だな、と顔を歪めながら目の前の仕事を捌く。やっとの思いで終えたのは23時半。ヘトヘトの身体を引きずってロッカーの戸を開けたとき、ポケットの携帯が揺れる−−−梓だ、珍しい。
「梓、ごめん。たった今仕事終わったところで、
「名前、私です。繋がってよかった」
「右京兄さん?なんで・・・・まさかっ、祈織に何かあったの?」
脱ぎたての白衣が床に落ちる。今日は
話を聞きながら頭を整理する。迎えに行く予定だった右京兄さんに急用が入って、それで代わりに絵麻ちゃんに頼んだ。駅前で待つように言ったらしいけれど、彼女は祈織の事情を知らないわけだし、ごった返していた駅から大学に向かったことは無理ないなと思う。そして自分を待つ彼女の姿を見て、祈織が倒れた。
「疲れているところ申し訳ないですが、お願いがあります。祈織は前と同じ病院に搬送されて、今は要と彼女が付いています。傍に居てやってくれませんか?」
「ねえ兄さん、傍にいてほしいのは、絵麻ちゃん?祈織?それとも・・・・要?」
「揚げ足を取っている場合ですか、返事は?」
「承りました、お兄様」
散らばった荷物をカバンに詰め込んで走る。ああ、寒いなこの野郎。脳内で悪態をついてみる。頬を氷柱で突かれている気分、耳当てがほしい。暖房が恋しい。息も絶え絶えでロビーへ駆け込んだ。
「すみません。今日運ばれた朝日奈祈織の病室は、
「ああ、貴方は確か祈織さんの!ちょうど今、お兄さんと妹さんが病室に」
看護師が私の顔を覚えていたことに驚くけれど、そんな事よりその顔が不安に染まったことで胸が一層重くなる。指差された方へと速足で進んで、半開きになった扉に立ち止まる。
「これだけじゃ、まだ足りないの?今度も僕の邪魔をするの?」
「祈織・・・許してくれ。でも俺は必要ならそうする。何度でも。お前を・・・救うためなら」
なに、今の声。あれが本当に祈織の声なの。足が地から根を張っているみたいに動かなかった。そのとき頭をかすめた思いに狼狽する。中に入ったらとても冷静じゃいられそうになくて、必死に足を引きずってロビーへ戻った。手の甲に爪を立てる。だって、こうでもしないと叫びそうだ。
「名前?」
「要・・・右京兄さんから聞いた。遅くなってごめん」
「そっか・・・っ、その手何したの?」
「ああ、平気。ちょっと引っ掻いただけ」
私を心配している場合じゃないのに、本当優しすぎるんだから。ちら、と絵麻ちゃんを見ると心ここに在らずといった様子。当たり前か、祈織が倒れて、たぶんその過去も要が話しただろうし。
「名前、暫く彼女のことを頼む。俺は先生と話して来るから」
頷けば、また歪な笑顔を張り付けて行ってしまう。絵麻ちゃんの肩を抱いて、椅子に座らせる。突然13人も兄弟ができるだけでも大変なのに、それぞれの想いや過去にも振り回される。まあ家族になれば、良くも悪くも影響を受けるのは必然−−−頭をよぎる父の姿に小さく笑う。
「もしかしたら誰かに聞いたかもしれないけど・・・私さ、こう見えて研究職に就いてるの」
「え・・・あ、はい。梓さんに聞きました、アメリカに行っていたのもお仕事の関係だって」
「まあそれが理由じゃないと思うけど、理論的に物事を考えるタイプなのよね」
絵麻ちゃんが真意を探るように私を見た。うーん、なかなかのリアクション。なんの脈絡もないこと言い始めるヤバい女って顔してる。
「ねえ、今からいくつか質問してもいい?」
「質問?でも私・・・計算とか得意じゃないですよ」
「違う違う。そんな難しいことは聞かないよ、YESかNOで答えてくれればオッケー」
不安そうに見返す瞳に笑いかける。できるだけ明るく振る舞っているつもりだけど、作り笑いは苦手だし。彼女が小さく頷いたのを確認して人差し指を立てる。
「それじゃあ、問一。絵麻ちゃんは、今日祈織を迎えに行った時点であの子の過去を知ってた?」
「っ、いいえ。さっき要さんから聞いて、わたしっ、何も知らずに・・・迂闊に行動してっ、
泣き出しそうになった彼女の唇を塞ぐ。やっぱり苦手だな、人を慰めるのって。私には不向きだって分かってるけど、この状況でただ隣に座ってるほど図太くはないつもり。
「問二。祈織がこんな事になって、嬉しかった?」
「そんなことっ、あるわけないです!」
「そうだよね・・・じゃあ最後の質問。絵麻ちゃんは祈織のこと、大切かな?」
「・・・はい、大切です」
ちゃんと目を合わせて答えた彼女が眩しい。私は20年以上あの家族といるんだから愛着があるのは当たり前だけど、この子は1年も経っていないのにな。それもあの兄弟の力か。
「では採点します!お姉ちゃんの結論は、今日の絵麻ちゃんには何一つ責任はないってこと」
「あ・・・・っ、名前さん・・・」
結局泣かせるんじゃ意味ないな。ぽろぽろ涙を流す妹を慰めるのは貴方の役目じゃないの、と戻って来て驚いた顔をしている要を見つめた。それなのに微動だにしないから、仕方なく彼女の頭を自分の肩に導いた。
小さな啜り泣きの音だけが響く。
「少し休んだ方がいいね。膝枕してあげよっか?」
「え!?でも・・・、ご迷惑じゃ」
「いいなぁ、妹ちゃん。君がしないなら俺が貰っちゃうよ、名前の膝」
今にも寝転がりそうな要の頭を軽く叩く。少しは調子が戻ったみたい。絵麻ちゃんは照れたように頬を染めながら、おずおずと横になった。最初は身を固くしていたけれど、15分もしないで寝息を立て始める。
「ほんと敵わないな」
顔を覗き見れば、ひどく疲れた顔をしてる。手を伸ばしてスッとその目元を撫でた。涙は出てないのに、泣いている気がした。
「貴方も眠った方がいい。肩なら空いてる」
自分の左肩を指差して言えば、少し瞳を潤ませて。それを見ないように前を向いたら、ふっと笑う気配のあとに肩に重みを感じた。
「ねえ、要。私さっき最低なこと思った。
私の独白に、要の指が小さく動いたけれど何も言われなかった。小さく息を吐いて、天井を見つめる。物凄く疲れているはずなのに、やけに目が冴えて結局一睡もできずに朝が来た。