敦side

雲間から覗いた細い月が、仄かに長い影を小路に落としている。その陰を踏んだ先輩がふと止まって、空を見上げた。雲でほとんど覆われているというのに、何かに導びかれるように僅かな銀白色の月の光が一直線に先輩を差している。

今日、ヨコハマは守られた。綺麗な夕焼けに彩られた町並みを「いい眺めじゃないか。君が守ったんだ。君の街だ」と太宰さんに言われた時、僕はずっと町を眺めていた。太宰さんも僕を見てから町を眺めた。
しかし今思えば、先輩だけ僕達に背を向けて町ではなく空を見上げていた。何か感慨深いものがあって物思に耽っているのかなとその時は思ったが、もしかしたらそうではないかもしれない。先輩が空を見上げる時は何か僕達と先輩には越えられない一線があるような気がして、胸がざわめく。

太宰さんの、ーーーあの、「ポートマフィアの幹部」だった太宰さんの先輩だ。僕達の知らない何かがあってもおかしくはない。空を見ている先輩は何だか、僕達の知っている先輩とは少し別人のような雰囲気がある。
そんな気がして、鏡花ちゃんの歓迎会が終わった後、外を歩く先輩につい声をかけてしまった。

「先輩は、よく空を見ていますよね」
「そう?」
「はい。空を見上げている先輩は、なんだか僕たちの知っている先輩とは別人のように見えて...ここではないどこか遠くに行ってしまいそうな感じがします」
「ここではないどこか、か。良いかもしれないね」
「えっ」

その言葉は僕を驚かせるには十分だった。太宰さんが聞いたら「どこかへ消えるつもりかい!?ならば今すぐ私と心中しよう!!」なんて言い出しそうだ。しかし、ヨコハマを守って安堵しているところだというのに、躊躇う様子もなく先輩そう言った。その瞳は相変わらずヨコハマの町ではなく、空を映している。

「それって....ヨコハマから出ていくってことですか!?守ったばかりなのに!?」
「役目を終えたら清く退場するのも乙だよね」
「な、何言ってるんですか!?先輩がいないと困りますよ!!」
「.....」
「僕を救ってくれたのも戦い方を教えてくれたのも太宰さんと先輩で、先輩がいなければ危ない局面もありました。先輩がいたからここまでこれたし、これからだってきっと先輩は僕の前を「敦君」

妙に威厳と落ち着きを加えた声だった。世界の騒音が消え、未だに月を見上げている先輩の声だけが脳に響く。冷たい風に髪が揺られ、先輩の表情はよく見えない。

「君は、どう生きたい?」
「きゅ、急にそう言われても...」
「ヨコハマは確かに君達の居場所かもしれない...たけど世界は広い。そして世界中には沢山の人がいる、各々が色々な"世界"を持っている」

そこまで言うと、ふと先輩は僕を見た。端麗な顔立ちに一瞬眩しさを覚える程煌かな瞳だった。

「私はね、人生をかけて色々な"世界"を冒険したいのさ」

僕が尊敬する太宰さん、そんな太宰さんが尊敬と敬愛と恋幕を寄せている「太宰さんの先輩」。
それだけで、何となく凄い人のような、背中が遠い人のような気はしていた。だけれど、今日はそれがいつもより顕著に感じた。背中が遠いというより見ている次元が違うのではないかと感じる程に、その姿はどこか凛々しく、声には抗弁を許さぬ響きがあった。

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どんよりとした灰色の雲の隙間から月の光が差していた。
どんなに周りが暗くても邪魔がいようとも自分の意思を貫き道を切り開く様は、流れに身を任せて生きている人からしたら、目的無く彷徨うように生きている人からしたら、あの光のように見えるのだろうか。

「君はどう生きたい?」

私はどこかの組織や国に忠誠を誓っているわけではないし、誰かを追いかけているわけでも、守りたいものがあるわけでもない。言ってしまえば生粋の自由人だ。だからこそ、この先探偵社から消えることも十分にあり得る。そうやって知らぬ土地へ行く私は別人に見えるかもしれない。

ギルドの手からヨコハマが守られた時、太宰くんや敦君は己が守った町並みを見ていた。でも私はそうしなかった。私にとってヨコハマは世界中に無数に有る都市の中の一つでしかないからだ。それ以上もそれ以下もない。ヨコハマに飽きれば違う国の違う地域に行くだろう。

「きゅ、急にそう言われても」
「ヨコハマは確かに君達の居場所かもしれない...だけど世界は広い。そして世界中には沢山の人がいる、各々が色々な"世界"を持っている」

行きたいところに行く、生きたい場所で生きる、道が無ければ自分で作っていく。そうして歩いた軌跡が私の生き様だ。遠くに行きたければ遠くへ行くだろう。知りたければ知りにいくだろう。見たければ見に行くだろう。例え残すものがあろうとも、危険があろうとも、裏切ることになろうとも、躊躇わず、前へ。

「私はね、人生をかけて"世界"を冒険したいのさ」

その分、私の掲げる自由とは自我が強い生き方だ。だから自分が善人でないことは理解している。

ーー
敦君と別れてから数時間経っただろうか。月を覆っていた雲は綺麗になくなり、銀白色が一層強く輝いている。そして、隣には彼がいた。

「ギルドに内乱を誘発、白鯨は下降してヨコハマは壊滅...の予定だったのかな」
「貴方は今回表舞台には出てきませんでしたね」
「私はこの世における一個の旅人に過ぎない、守ろう救おうだなんて荷が重いよ。私の役目じゃないさ」
「ふふ....貴方はヨコハマがどうなろうと差して問題ではないのでしょう」
「そうだね、"世界"を廻ることの方が重要だ」

7,8年前だろうか、それはポートマフィアにも武装探偵社にも入る前のことだった。銀白色の月が異様なほどに輝いていた夜、私は"フョードル・ドストエフスキー"という、恐らく同年代の青年に出会った。あの時のことは今でも鮮明に思い出せるーーーーー。

XX年前ーーー

黒い空に銀紙でも張ったような明るい月だ。川面に映った月が波に砕けて、ひっくり返した宝石箱のようにきらめいている。ゆらゆらと揺れる水面を見ながら静かに呼吸をすると冷たい空気が身体に入り込んだ。都会から離れたこの場所は、生活音もなく、人の声もない。風の音と水の音が微かに聞こえるだけで、そこはまるで切り取られた世界のように美しく静寂だ。

「自らの異能を結晶化して取り出し、それを躊躇いもせず相手に渡す人を、私は初めて見ました」
「...ん?」

静寂を破った声は綺麗に透き通るような声だった。後ろから聞こえたそれに振り向けば、異常にまで明るい月に照らされた黒髪の青年がいた。

「...では、初めて見たご感想は」
「変な人ですね」
「個性的ってことかなありがとう」
「褒めてないです」

水面をわたってくる風が、頬や項に涼しく染みた。黒髪とコートを靡かせている彼は、黒い手袋に覆われた手に結晶を持ちながら、私ではなくその結晶を不思議そうに見ている。

「その結晶に込められた異能はアルセーヌ・ルパン。どんなものでも盗みだせる能力だ、たとえそれが自分の異能であろうと。だから私は敵さん差し上げたわけなのだけど、....あとは君の見ていた通り」

話は簡単だ、敵が私の能力を欲していた。言う事を聞けば命は生かしてやるなどと脅かしてきたので断っていたら、「お前が屈服しないのなら殺して能力を奪ってやる」と言ってきた。まぁ想定内だ。しかし別に私はこの能力に執着していない。だから欲しいのならどうぞ、と自分の異能を盗み出し、それを結晶化して渡したわけだ。相手は物凄く変な顔をしてから、しっかりとその結晶を握りしめ、しかし「何を企んでいるのか分からないから殺せ」なんて理不尽にも私の命を狙ってきた。人がせっかく欲しがっていた能力を提供してあげたというのになんたる仕打ちか。と思いながら逃げてきたわけだ。
その一部始終を彼は見ていたのだろう。姿を敵前に現したりはしなかったが、気配と視線はずっとあった。

彼が今その結晶を持っているということは、恐らく敵は彼が殲滅したか捕らえたかして、異能の結晶だけを奪ったということだ。律儀に返しに来たのだろうか。

「返してほしいですか?」

そう聞くあたり、律儀というわけではないのかもしれない。未だにこちらを見ず結晶を見ている。

「どちらでも」
「..............なるほど、自分の一部だとか、自分の分身だとは考えない人でしたか」

ようやく彼がこちらを見た。

「私は私、異能は異能。一緒くたにされるのは困るな」
「おや、大半の人間は能力に驕るか縋る、もしくは一心同体と考えるというのに」
「そうだね、私には到底理解できないよ」

肩を竦めた私に反応したかのように、彼の手のひらにあった結晶は浮遊して、私の間の前まで来ると、胸元ですぅっと消えてしまった。特に身体に変わりはないのだが、また異能が戻ったのかと自分の手を見ていれば、少しばかり間があいて、ふむ...と頷いたような声が聞こえた。

「寧ろ異能が貴方を選んでいるという感じですね....貴方に聞きたいことがあります」
「どーぞ」
「.....異能力とは、何だと思いますか」
「初対面の人間に随分深い質問をしてくるね」

私の持つ異能力、アルセーヌ・ルパン。この能力は実態の有無に関わらず盗める能力だ。悪人からしたら喉から手が出る程欲しい能力かもしれない。正義を掲げる人からしたら小癪な能力でもあるだろう。打算的な人間からすれば便利すぎる能力かもしれないし、無垢で純粋な人間であれば使い道がないのかもしれない。しかし私は、そのどれにも当てはまらない。この能力はそんなごく一般的な想像の範囲で収まるものではなく、一般人の尺では計り知れないような独創的で前衛的な能力だと思っている。
早い話が、異能とは使う人によって価値を変えるのだと考えている。

しかし同時に、私の人生に影響を与える程のものではないとも思っている。人生において必須かと言われれば否だ。能力があってもなくても私は私で消えもし変わりもしない。それがないと生きていけないなんていう意志薄弱な生き方はしていない。
あれば生かすことはできるだろう、しかし無いと困るものでもない。何故ならば、異能があろうと無かろうと私は私で、生き方は変わらない。ということだ。

そう、長々と説明してもいいのだが、私に質問しておきながら瞳を閉じてしまった彼に長話は無用かもしれない。少し考えてから、ふと視界に入った白い帽子を指さした。

「それ」
「はい?」
「君の帽子みたいなもの」

すると、閉じられていた瞳がゆっくりと開く。ふいに自身が身に着けている帽子を手に取り、それぞしばし見たあと、今後は心を覗き込むように私を凝視した。

「.....わけがわかりません」
「アクセサリーみたいなものと言ったんだよ。使い手によって価値は変わる。魅力的に見えるかもしれない。でも無くても困らない。異能力があろうとなかろうと生き方は変わらない」
「異能があってもなくても変わらない?」
「変わらないよ、異能の有無で人生が左右される生き方はしない」
「そんな世界があるとでも?」
「あるよ、私の世界だ」

私を見ていた瞳が鋭くなる。警戒するような、軽蔑するような、鋭利で容赦のない視線だった。しかしそれに怯むこともなく彼を見ていれば「そうですか」と忌忌げ眼光を向けられる。それから興味のなさそうに踵を返した。私を殺しもせず一方的に話を終わらせ、あたかも最初から私など存在していなかったかのように背を向け歩き出した彼は、きっと私への関心を無くしたのだろう。何かを見定めようとして、取るに足りないと判断し、敵にすら成り得ないと判断されたのかもしれない。それはそれで構わない....のだが。

「というのが私個人的な答え。ただ、客観的に答えるなら事情は違ってくる」
「・・・」

なんとなく、彼の求めている答えはこちらじゃないか、という気がした。
「君は、"大半の人間は能力に驕るか縋る、もしくは一心同体と考える"と言ったね。でもそれは裏を返せば、自我を異能に支配されているということにもなる」

彼がぴたりと足を止めた。

「異能がなければもっと自由な人生だったのかもしれないのに、........罪深いよねぇ」
「!!」

ぶわりと大きな風が吹き、私の来ていたコートがばたばたと煽られて風の音と混ざる。彼が目を見開いてこちらを向いたような気がしたが、片手をひらひらと振りながらゆっくりと歩き出す。

「こんなことを聞くくらいだ、君にも願う世界があるんだろう」
「...」
「好きにすればいい、私も好きにするからね」

なにか聞こえたような気がしたが、足を止めるまででもないと思い、そのまま歩き続ける。すると、後ろからもう一度、今度は確かに待ってくださいと声が聞こえた。その途端、目の前に彼が急に現れる。しかし何だか幻影を見ているようで、首を傾げながら後ろを振り向くと、彼は後ろにいた。では目の前の彼はなんなのか。そうして何がしたいのだ。

「.....帰らせてはくれないのかな」
「.....」

顔を顰める私を余所に彼は人差し指を口に当て、じっと私を見ている。何かを吟味しているようで、ぴくりとも動かなくなってしまった。引き留めておいてなんなんだ、せめて何か言うか反応するかしてくれ、そして目の前の分身みたいなものを消してくれ。思わずジト目を向ければ彼はゆったりを美しい笑みを浮かべた。

「気が変わりました」
「...」
「貴方、私と来ませんか」
「うーん........君は私の何に興味を持ったのかな?」

何を考えているのかよく分からない。でも何かを期待されて、ーーーいや、試されているような、見定められているような、何か明確な意図を持った赤紫の瞳がぐっと細められた。

「人間は簡単に物事を自分で考えていると思い込みます。思考を操られているとは考えたがりません。ですが貴方はその限りではないかもしれません」
「......つまり?」
「貴方に私の異能が効くのか気になります」
「ここで試せばいいのでは」
「焦る必要はないですよ、私はしばし貴方を観察していたいので」
「じゃあ私も観察しようかな、君がこの世界に何をしようとしているのかを」


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「矛盾してないか?」
「貴方がそうさせているのですよ」

出会った時と同じような黒い空に銀紙でも張ったような明るい月だった。川面に映った月が波に砕けて、ひっくり返した宝石箱のようにきらめいている。ゆらゆらと揺れる水面を見ながら静かに呼吸をすると冷たい空気が身体に入り込んだ。都会から離れたこの場所は、生活音もなく、人の声もない。風の音と水の音が微かに聞こえるだけで、そこはまるで切り取られた世界のように美しく静寂だった。唯一異なるのは、後ろではなく横にフョードルがいることだ。

「貴方と初めて出会ってからかなりの月日が経ちましたが...未だに、貴方のような奇想天外な人には出会った試しがありません」
「それは残念だね」
「そうでもないです。年月が経過する度、やはり貴方は変な人なのだと再認識できます」
「貶していないか?」
「褒めているのですよ」

横目でちらりとフョードルを見れば、彼は珍しく目を吊り上げて、赤紫の瞳だけをこちらに向けていた。整った眉、少し長めの自然な美しい睫毛、細く筋の通った鼻、口角の上がった唇、色白の肌、そこに差す銀白色の月の光。こんな美しい顔でこの世に幸をなんて言いながら、悪より悍ましい何かを抱えているなんて、人は見た目によらないものだなぁと考え、それは自分も同じなのだろうかと再度月を見上げる。

「貴方のような人がいなければいないだけ、私は貴方に自分の能力が効くのかを思考することになる」
「存分に思考してどうぞ」
「殺されたくない、とは言わないのですね」
「君だって死の救いを、とは言わないじゃないか」
「......そうですね」

肌寒い風に髪を揺らす彼は意外なほどに穏やかな表情でこちらを見つめていた。彼の赤紫の瞳が深く澄み渡っている。透き通っていながらも、底が見えないくらい深い泉のようだ。覗き込めば吸い込まれてしまいそうな艶やかな光を灯している。やがてフョードルは知的な皮肉を含んだ抑制された笑みを唇の端に浮かべた。

「共に行動しても敵対しても貴方を完全に理解することはできませんでした。いえ、そもそも敵なのか味方なのかも分かりません。異能だってあれから何度取り出したか分かりませんよ。やはり貴方は変な人です」
「君にとって私は永遠に変な人なわけね」

今度は、眉を下げ少しだけ口元を緩めた。相手を挑発しているわけでもなく蔑んでいるわけでもない、作り笑いでもなく苦笑いでもない、ゆったりとした笑みで、どこか楽しそうに、どこか困ったように、じっと私を見て、それからこくりと首を少し傾けた。

「パルトニョールシャでしょうか」
「....パルトニョ、え、なに??」
「相棒、敵手、パートナー、恋人、伴侶など色んな意味があります、ロシア語です」
「広義だね」
「えぇ.....それだけ貴方が自由な人なのです」

優しいような皮肉なような独特の微笑みを浮かべていたフョードルが目の前に立つ。

「....ほどほどにしていただかないと、執着してしまいますよ、私が」
「構わないよ、君が何かしたところで私の生き方は変わらないからね」
「貴方は良くても僕の生き方が変わってしまいます」
「それは君の人生だ、君が望むようにすればいいさ」
「人の人生を変えてしまうなんて、貴方も十分と罪深いですね」
「フョードル」
「なんです?」

「それが私の持つ"世界"だ、付いてこれるなら付いてくるといいさ」

しばし固まったように私をみて、何度か瞬きをしてから、やがて浮び始めた残虐な微笑は、明るい月夜の中を毒汁のように流れた。


ーーー............なるほど、太宰君が惚れるわけです

「え、何か言った?」

その瞬間、ふわりと風を感じたと同時に優しくて穏やかで驚くほど柔らかな唇の感触がした。長めの黒い前髪が私の前髪と重なり、愛でるように直接手のひらで頬を撫でられ、もう一度、今度は唇が触れるか触れないかのところでぴたりと彼の動きが止まる。時間にして数秒の出来事のはずが全てがスローモーションに移り、映画か何かを見ているのだと脳が錯覚を起こす。しかし、目の前の彼がそれを見過ごすはずがなく。

「貴方の世界に私がいればいいと、そう思ってしまいました」

その声だけが静寂の中を漂った。ぴくりと無意識に動いた私の指に彼のひんやりとした指がゆっくりと絡む。再び唇が合わさって、過ぎていく時を防ぐように重ねられた唇は離れなかった。そこでようやく事態を理解する。はっとして、やっと視線を合わせた私に気付いたフョードルが、下唇に噛みついた。


「痛い、いきなり何するんだ」
「太宰くんに先を越されるのは癪なので」
「.........はぁ?」