春。本丸の桜は見頃を迎えていた。
暖かい風に撫でられるたび、やわらかな花弁をはらりと散らす。
見る者の心を魅了する春の風物詩に、刀剣男士達は(例外もいるが)胸を踊らせていた。
もちろん、私もだ。


「ちょっと散歩に行ってきますね!」


八つ時までには帰ってくるんだよ、という燭台切の声に返事をし、私はワクワクしながら庭へ出た。

大きく息を吸えば、微かに華やかな香りが鼻を抜ける。
心地よさを感じながら、ゆっくりと息を吐き出した。
初期刀の言葉を借りれば、これが雅なのだろう。
胸の中をこの香りでいっぱいにしたくて、何度も深呼吸してむせこんだところを蜂須賀を見られてしまい、お小言が始まる前に私はその場から逃げ出した。



本丸の周りを縁側に沿ってゆっくり歩く。見慣れた景色も、桜と一緒なら特別なものに感じる。
カメラを持ってくればよかったと少し後悔しながら辺りを見回していると、本丸を埋め尽くす桜色からだいぶ浮いている青色が目に入った。
音を立てないよう、ゆっくりと近づいてみると。

あ、山伏だ。

風通しのいい縁側にいるジャージ姿の彼は、目を閉じ、座禅を組んだまま全く動かない。
息が止まっているのではないかと不安になり胸を見れば、規則的に動いていて安堵した。
寝てるのかな?
顔の前で手を振ってみても、何も反応はない。
やっぱり寝てるみたい。
起こさないようにその場を去ろうとした時、彼の髪が目に入った。
雲ひとつ無い空のように澄み切った青色の短髪は、春のそよ風で小さく揺れている。
普段は頭巾(宝冠だっけ?)に包まれているそれに、小さな好奇心がふつふつと沸き上がってきた。

ちょっとぐらいなら、大丈夫だよね?

出来る限りこっそりと手を伸ばす。
起こさないようそっと髪に触れてみれば、予想よりもずっとずっとやわらかい。
そのふわふわとした感触は、五虎退が連れている子虎を思い出させた。
わぁと感嘆の声があがりそうになるのを、ぐっと堪える。
ここまでとは思わなかった……!
小さな好奇心は、どんどん膨れ上がってくる。
そういえば、私は山伏の顔をちゃんと見たことがない。
カッカッカッ!と大声で笑う姿に励まされてはいたけれど、そこまで意識したことはなかった。
そう気付くと、山伏が起きる心配より自分の好奇心が上回った。
膝を抱えながらそっと隣に座り、今も眠り続ける彼の顔を見つめてみる。
青空色の髪、健康的な肌色、スッと通った鼻筋、ほんのり色づいた唇、凛々しい眉、閉じられた目を飾る長いまつ毛と目尻に塗られた朱色。
ぼんやりとはいえ、整っているとは思っていたけれど。
これは、本当に。


「……綺麗」


人間離れした美しさに思わず出た声。
ハッとして山伏を見れば、目を開ける様子はない。
ホッと胸を撫で下ろしたが、すぐに別の感情が湧き上がる。
は、恥ずかしい……!
ポロっと出てしまったとはいえ、突然何を言っているのか。
私は、山伏が起きていないことを改めて確認し、音を立てないように急いでその場を後にした。





「おーい、兄弟。燭台切が呼んで……どうしたの、その顔?」

兄弟が不思議に首を傾げているが、それどころではなかった。
燃えるように熱い顔を隠すように手で口元を覆い、「何でもない」とだけ答えて縁側を離れた。
寝てなどいない。瞑想していただけだ。
目を瞑っていても、主が近づいてくることはわかった。
主なりに音を立てぬよう歩いているようで、ここで目を開けては気を遣ってくれているのに申し訳ない。
だから、そのまま瞑想していようと思ったのだ。
それが結果がまさか、こんなことになるとは。
主のたった一言で、ここまで心を動かされるとは。

「……拙僧も、まだまだ修行が足りぬな」

誰にも聞こえぬよう呟いた言葉が桜の花びらに紛れてそよ風に飛ばされるよう願いながら、燭台切殿の元に向かった。