「御手杵」
いつからだったろう。
「好きよ、御手杵」
こんな風になったのは。
「俺も好きだよ、主」
「俺は刺すしか能がないからな」
そう言った俺を、蜂須賀は不快そうに睨みつけた。
最初は何で睨まれるのかわけがわからなかったが、今では気にしなくなった。
わけを聞いても、俺にはよくわからなかったしな。
悩んだって仕方ない。こいつと俺は違う。
「別にサボるわけじゃないぜ?
主がやれって言うなら、ちゃんとやるよ」
ヘラヘラしながら鍬を持つ俺を見て、蜂須賀は呆れたように溜め息をついた。
俺なんか気にしなければ余計に疲れることなんかないのになぁ。
そう思うのだが、前にそう言った時に胸倉を掴まれたから口には出さない。
いくら俺でも、そのくらいは覚えられる。蜂須賀は、怒らせたら怖い。
まぁいいや。少し乾いた土を掘り返そうと鍬を振り上げた、そのとき。
「御手杵」
内番服を着た蜻蛉切がそこにいた。
「どうしたんだよ、蜻蛉切。今日は遠征だろ?」
固い表情をしていた蜻蛉切が、気まずそうに顔を逸らした。
これだけで、何を言いにきたのかわかってしまう。
「遠征には、日本号が行った。畑当番は俺が替わる。
…主がお呼びだ」
だと思ったよ。
「あー、わかった。じゃあ、あと頼むな」
出来るだけ二人の顔を見ないようにしながら、蜻蛉切に鍬を押し付けて槍を取りに俺の部屋へ向かった。
「主、入るぜ」
返事を待たずに障子を開けると、そこには薄暗い部屋の中で綺麗な桜が咲いている寺の絵を見つめる主がいた。
「また描いたんだな。今度はどれくらいかかったんだ?」
「1時間」
「いつもよりかかったな」
「気に入らなくて、途中で描き直したのよ」
そう言って、主は嬉しそうに描き上げたばかりのキャンバスを俺に差し出した。
淡い色合いながらも力強く描かれた桜が、細かく描き込まれた寺の存在感をより引き立てている。
槍の俺でも、何だかすごい絵なんだろうなというのはわかる。
歌仙の言葉を借りるなら、これが雅なんだろう。実際に、主の絵を見た歌仙がそう言ってたし多分そうだ。
「いいのか、これ」
「えぇ、いつもの通りにお願い」
俺は、主からそっとキャンバスを受け取り、背もたれがついた椅子に立てかけた。
「あぁ、わかった」
そのまま、槍でキャンバスを椅子ごと突き刺した。
綺麗だった桜と寺が、椅子と一緒にただのゴミになった。
「次はね、ぬいぐるみを作ってみようかしら。御手杵より大きいの」
「へぇ、いいんじゃないか。どれくらいでできるんだ?」
「1時間半くらいかしら」
「絵よりかかるのか」
「絵より、手間がかかるのよ」
パチパチと音を立てながら燃え上がる先ほどのゴミを前に、主は柔らかい優しい顔で次に刺されて焼かれるものの話をしている。
次はぬいぐるみで、その次はどうしましょう。また絵がいいかしら。料理はダメね、燭台切に怒られちゃう。花もダメ、歌仙に怒られちゃう。音楽もダメね、あれは壊せないわ。
そう楽しそうに言いながら、熱く燃え上がる火を見て微笑んでいる。
主は、自分で作ったものを俺に壊させてはこうやって火を放つ。
そして毎回、俺にも火が全てを燃やし灰にする様を見せつける。
「この力強さがあなたにはお似合いよ」と言って。
火は苦手だって知ってるくせに。
その火も、何度も見せられるうちに何で苦手なのかわからなくなった。
中身をどこかに落としてしまったような、そんな喪失感は見て見ぬ振りをするのが一番楽だ。
ふと、主の顔を見る。
火で明るく照らされる主の横顔は、あの薄暗い部屋で見るより美しく眩しかった。
「綺麗なのにな」
「あの絵のこと?」
「主のこと」
主は少し目を丸くしてから、すぐにクスリと微笑んだ。
「御手杵の方が、ずっと綺麗よ。私なんかよりずっとずっと、ね」
主の指が、優しく俺の頬に触れる。ひび割れたガラスでも扱うような、優しくも臆病な手つき。
白く柔らかい小さな手は、心地が良かった。
艶やかな髪を風で揺らしながら、長いまつげで飾られた大きな目を細めて笑う。
「お部屋に戻りましょう、御手杵」
本当に綺麗なのにな。中身を覗かなければ。
「御手杵は素敵ね」
主は、腕枕されたまま俺の胸板をスッと撫でた。
汗ですっかりべたついた肌には、少しこそばゆい。
「そんなことねぇよ。他の二本と比べたら肩身狭いしな。
俺は、刺すことしかできない」
「だから素敵なのよ」
主は胸板を見つめながら撫で続ける。
俺は、うわ言のように素敵よと囁く主の髪に指を通した。
絹のようは髪は、スルリと指から滑り落ちる。
あれだけ動いても、ボサボサにならないんだなぁ。
ずっと触っていたら、くすぐったいわと主が笑った。息が、胸にかかる。
この後は、また絵を描くのかな。それとも、さっき言ってたぬいぐるみか。
琴を弾くのかも。花を生けるかもしれない。
最近来たやつらの鍛錬に付き合うのだろうか。それとも、燭台切と料理を作るのかな。
全部やるんだろうな。そして、全部できてしまうんだろう。
「俺は、あんたみたいになりたい」
胸板を撫でていた手がピタリと止まる。
顔は上げないまま、主は呟いた。
「私は、あなたみたいになりたい」
主は撫でていた手を引っ込めて、身体を寄せてきた。
主の柔らかい肌を、腕で、胸で、腹で、脚で、触れた場所全てで感じる。
「ねぇ、御手杵」
「ん?」
「好きよ」
そう囁いた主の目に、光はない。
「俺も好きだよ、主」
俺は、主の身体に腕を回して力を込めた。
主の目と唇は、弧を描いていた。窓から差し込む月明かりが作られたかのような美しさを際立たせる。
「主、もう一回しようか」
俺も、こんな歪んだ顔をしてるんだろうか。
俺は縁側に座り、月を眺めていた。
薄い雲がかかる空に浮かぶ月は妙に歪んでいて、頭の中に彼女らの姿が浮かぶ。
妙に腹が立って、かき消すように首を振った。
「浮かない顔だな、蜂須賀」
ふと顔を上げれば、そこには湯のみを二つ乗せた盆を持つ山姥切が立っていた。
山姥切国広。彼女の初期刀。
「何でもないさ」
「あいつらのことか」
そう言いながら、俺の横に座った。
「何だ、わかってるんじゃないか」
「無駄に長く居るわけじゃないからな」
山姥切は、俺に茶を差し出した。
悪いなと言って受け取った茶に口を付ける。熱いものが喉を通っていく感じが心地いい。
横をちらりと見れば、山姥切も茶を飲みながら歪んだ月を見ていた。
月明かりが彼の綺麗な髪を輝かせる。その姿がやけに様になっていて、彼も名だたる名刀の一つであることを強く感じさせた。
この本丸の山姥切は、あまり卑屈さを感じない。ボロボロの布は肩にかける程度だ。
最初はそれが普通だと思っていて、演練で他の山姥切を見て驚いた。
理由を聞けば、「あいつが主だと、そんな暇はない」と言われて妙に納得してしまった。
自分以上に卑屈な人がいたら、そうもなるか。
「主が自分の中身を表に出すようになったのは、御手杵が来てからだ」
山姥切は、月を見たままボソリと呟くように言った。
俺は何も言わなかった。
「すれ違うやつらがみな振り返るような美しさ。
霊力も豊富で清らかで、演練では他の審神者に羨ましがられる。
料理や裁縫も得意だ。華道や茶道の腕前は歌仙も認めてる。絵や音楽にも長けている。
武術だって並の人間じゃ勝てないだろう。肝も座っていて主としての技量と度胸もある。
写しの俺でも、主の刀剣であることは誇らしい。常にそう思っている」
山姥切は少し早口で主の魅力を語る。
その内容は、最近ここに来た俺でも首を縦に振るものばかりだ。
確かに、美しく気高く芯のある人だ。だが、それは審神者としての話。
「あいつは、何でも出来すぎたんだ」
そう言った山姥切は、湯のみに視線を落とした。
茶に映る月は、より歪んでいる。
「前に、主が酔った時にこぼしたことがある。
昔から何でもそれなり以上に出来た。だから、極めることが出来なかった。
誰かと切磋琢磨なんて出来なかった。何か初めてもすぐ飽きてしまう。
夢中になれることがないと人間は死んでいるも同然だ、と」
「だから、御手杵なのか」
俺の問いに、目線だけこちらに向ける。
その目が、その通りだと言っていた。
「羨ましいんだろう、御手杵が」
よく頭をぶつける。躓いて転ぶ。刀装は失敗か上手くいっても並。
料理も焦がす。掃除をすれば何か壊して余計に汚す。何をしても何かやらかす。
不器用が服を着て歩いているような御手杵でも、戦になれば人が変わる。
御手杵が出陣すれば、誉はほぼ彼のものだ。
切ることも薙ぐことも出来ないが、刺すことに関しては本丸の誰よりも特化している。
どんな強敵相手にも臆せず立ち向かい、必ず道を切り開く。
彼は、刺すことを極めている。
何でも出来てしまう主が唯一出来ない、極めることが出来ている御手杵が羨ましくて仕方ない。
「それが楽しくて仕方ないんだろうな」
今まで感じたことがなかった劣等感。空だった心を埋め尽くす嫉妬。
笑顔の下に隠した「全てが退屈だ」という感情を一瞬で消し去ってくれる快楽から逃れられなかった。
「主は、弱いんだ」
そう言った山姥切は、茶を一気に飲み干した。
何だが、心のモヤモヤしたものが取り払われたような気がした。
彼女がああだから、彼もああなのだろう、と。
「俺もね、御手杵にあの関係は嫌にならないのかと聞いたことがあるんだ」
俺は、湯気が立たなくなった湯のみを見つめた。
茶に映る月は、やはり歪んでいる。
「そしたら、彼は言ったんだ。
主を見てると胸が苦しくて目の前が黒くなる。ああしてないと、俺はダメなんだ。
主には悪いけど本当に俺は刺すことしか出来ないから、こうするしかないんだ。とね」
これを聞いたとき、御手杵が何を言っているのかよくわからなかった。
天下三名槍の一本である東の御手杵。主に引け目を感じることもないだろうと。
しかし、山姥切の話を聞いて彼が何を言いたかったのかやっとわかった。
「彼も、主が羨ましいんだろうね」
何でも出来る彼女が。涼しい顔でこなせる彼女が。
人の身を得ても、人らしいことが出来ない自分と比べてしまって。
自分は武器だと、槍だとわかっているのに。
刺すことが出来るだけでは満足できなくなるほどに、羨ましい。
だから、自分の腕の中にしまっておきたくなってしまった。
何でも出来る彼女でも、自分の前では無力な人間になるのだと思いたいんだろう。
「ああしないと、彼が潰れてしまうんだろうね」
「主も、な」
俺は、湯のみに残った茶を飲み干した。
すっかり冷えてしまっていた。
「湯のみは片付けておく」
「すまないな」
湯のみを手渡せば、山姥切をそれを盆に乗せて厨へ歩いていった。
ふぅと息を吐き、空を見上げる。
月は相変わらず歪んでいる。
「羨ましい、か」
醜く浅ましい嫉妬という感情に胸を支配されながら、彼女らはお互いに好きだと吐き続けるのだろうか。
そうだとしても、俺も山姥切も彼女らをどうにかしようとはしないだろう。
彼女らが己を保っていられるなら、それでいい。
俺は立ち上がり、自分の部屋へと向かった。
俺達の話を盗み聞き、歯を食いしばる槍二本には気付かない振りをした。
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