「二人羽織しないと出られない部屋……?」
 「ただし後ろの人は服から頭を出すものとする……」

 無機質な白壁に、四方を囲まれた狭い部屋。そのうち一つの壁面に掲げられた文章を、なまえ、それから大瀬は、それぞれ呆然として順番に読み上げていった。

 気がついたらここにいた。部屋に並んで座り込んでいた。二人の間には青く染め抜かれた一枚の羽織。それ以外何もない。経緯については一切不明だ。けれどもなんとなく、二人は同じ考えの下あっさり納得していた。たぶん夢だろう。でなければ、こんな意味不明なまでに都合のいい現象が、この世で起こり得るはずはないのだから。

 「どうしましょう……」

 それでも恐る恐る、なまえは尋ねた。夢とは言え、あまりにも自分の意識が、隣にいる大瀬の存在がはっきりし過ぎている。何でも好きにやってしまえ、というふうにはとても思えなかった。
 大瀬にしてもそれは同様で、なまえの問いかけにきっぱりと首を横に振る。

 「やめた方がいいです」
 「どうしてですか?」
 「そんなことをしたら、自分と接触したそばからなまえさんの身体が腐ってとけて跡形もなく崩れ落ちて羽織のシミになってしまいます」

 半ば予想どおりの反応に、なまえは眉を下げる。夢なのにリアルが過ぎるのは、いいことなのか残念なことなのか。大瀬の言葉の裏にはいつも、相手のことを最優先に思う気持ちが隠されている。それは決して悪いことではないのだが、せめて夢の中でくらい、もう少し楽に振舞ってくれてもいいのに、と思う。

 なまえは胸中で嘆息して、もう一度目の前の壁面を見上げた。二人羽織しないと出られない部屋。出られない、とは、目が覚めないというふうに読み替えるべきか。本音を言えば自分はそれでも構わないが、現実問題としてそれでは周囲に迷惑がかかる。
 隣にいる大瀬はいつもどおりだ。彼の方から進んで協力を申し出ることはないだろう。ならばここは自分が思い切ってやるしかなかろうと、なまえは意を決した。結局のところ、どうせ夢なのだから。

 「でも、大瀬さん。出られないと困りますよね?」
 「……自分は……」
 「……すぐ済みますので。失礼します!」
 「え? あっ、なまえさん……!?」

 大瀬の返事を待たずに。本当は、聞くのが少しつらかったから。
 なまえは行動に出た。羽織を掴み取り袖を通し、素早く大瀬の後ろに回る。自身の身体が大瀬の背に付かぬよう、数センチの間隔を開け、めいっぱい腕を前に突き出す。ふんわりと羽織がふくらみ、大瀬の両肩もその内側へと収まった。

 「できました!」

 誰に向けたものかわからないが、勇ましくなまえは宣言した。狭い部屋の中に、その声がばかに誇らしげに響く。

 ややあって。壁面の文章が、スッと一瞬ぶれてすり替わった。

 『腕が短いので却下』
 「条件の後出し!」
 「ずるい……」

 思わず抗議する二人だが、受け付けないとでも言うように壁面はまた黙す。なまえはなんだかむきになる自分を感じつつ、しかしそれを押さえることもできず大瀬に向かい声をかけた。

 「こうなりゃやっちゃってください、大瀬さん」
 「え、何をですか」
 「大瀬さんが後ろになってください」
 「えっ……!?」
 「だって、やらなきゃ出られないんですよ。これ以上大瀬さんのお時間を取らせるわけにはいきません」
 「で、でも……」
 「一瞬でいいですから。触れないようにしてくれたら、いいですから」

 振り返る大瀬の目が、逡巡に揺れる。なまえの胸はまた少し痛む。
 やがて、言葉を選ぶようにゆっくりと大瀬は口を開いた。

 「……出られたら、どうぞそのお召し物は捨ててください」
 「……わかりました。ありがとうございます」

 なまえは少し無理をして、笑った。

 そして役割を交換する。大瀬が羽織に袖を通し、なまえの後ろへ、慎重に慎重を重ね近づく。なまえがしたように数センチの間隔を保ったまま、腕を伸ばす。羽織が広がり、なまえの両肩を覆った。

 「ど、どうでしょう……」

 二人、祈るような気持ちで壁面を見上げる。文章はすぐに現れた。

 『もうちょっと』
 「もうちょっと!?」
 「そんな……うぅ……」

 大瀬の腕がぷるぷると震え出す。それに気づいたなまえはいよいよいたたまれなくなった。

 「〜〜っ、大瀬さん、もう一回失礼します!」
 「えっ、あ」

 ポスッ。と、軽い音が聞こえそうなほどのやわらかさで。
 なまえは大瀬の身に背を預けた。

 これでどうだ。堂々と、壁に向かいそう聞いてやるつもりだった。けれども、なまえの半開きになった唇から言葉が出てくることはなかった。
 背を預けた大瀬の胸が温かで、意外にもしっかりと自分の重みを支えてくれたから。腕を前に回されているぶん、まるで抱きしめられているかのような錯覚にさえ陥る。

 対して大瀬はと言うと、静かに頭の中をぐわんぐわん回していた。何が起きているのかわからなかった。わからないなりに、腕の中にあるなまえの存在を鮮烈に感じている。自分より小さくて細いからだ。すっぽりとそこに収まる彼女の姿を、なぜかごく自然なものと感じている自分の頭は爆発しろ。

 二人きりの部屋の中、知らず二人の世界に入り込む二人を壁は静かに見守っていた。やがて先程の文章がまたスッとぶれ、新たな一文が掲示される。

 『合格』

 しかし、二人がそれに気がつくことはなかった。


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