夜闇に沈んだ戸外を、綿雪がちらつく。
 窓明かりを跳ね返し、白にも灰色にも見えるそれ。次々と、空から無数に、音もなく降り続ける。
 いおくんが確認した天気予報では、今晩から明後日にかけて、記録的な寒波が列島全域を覆うという。気づけば、縁側に面した庭の地面も、うっすらと色を変え始めている。
 その様子を暖かな部屋のうちから眺めつつ、夕食後の時間、皆さんと話をしていた。
 明日の朝には、積もってるかもしれないね。

 そしてその、翌日。

 いつの間にか、自分は眠りから目を覚ましていた。意識と無意識の境も曖昧なほど、静かで穏やかな朝。
 数度のまばたきの後、網膜に像を結ぶのは自室の天井。縄やら袋やら端切れやら、いろいろなものを垂れ下げているためにごちゃついたそこは、窓外からの光で白々と照らされている。

 もぞもぞと身じろいで、寝袋のジッパーを開けた。途端、全身に染み透る冬の朝の冷気。瞼の上に少し残っていた眠気も、一息に吹き飛ばされてしまった。
 靴下を履かない素足で、氷さながらに冷えた床を踏み出す。震える両腕をさすりながら、すぐ傍の窓へと顔を近づけた。

 窓は白かった。曇っているからじゃない。その向こう側の景色が、光を反射しているからだ。
 上げ下げ式のそれを思わず押し上げて、少し開いたところで慌ててまた閉める。一瞬吹き込んだ風が、めちゃめちゃ寒かった。それでも、弾む心はちっともしぼまない。

 話していたとおり、一晩のうちに雪は積もっていた。見慣れた家周辺の景色も様変わりしている。昨日まで、ただ冬枯れていただけの木々や地面。目に映る範囲のそのすべてが、真新しい雪の色に塗り替えられている。
 厚い雲の隙間から、薄日が差した。いよいよ輝きを増すその風景に、自分はしばらくの間、ぼんやりと見惚れていた。


 その日の朝食には、ミルクスープが出された。色とりどりの野菜や分厚いベーコンがしっかりと煮込まれていて、いつもながら、自分がこんなものを頂いていいのかと慄くほどおいしい。それなのに、うっかりおかわりまでさせられそうになった。食べながら、この後写真を撮りに行くつもりだと漏らしてしまったからだ。
 膨れて温まったお腹を抱えつつ、コートとマフラーを着込む。カメラを首にぶら下げ、自分は早速、玄関ホールへと降り立った。
 今日は日曜日。仕事をされている皆さんも、リビングや自室で、それぞれに朝食後の時間をまったりと過ごしている。
 一名を除いて。

 式台に座り込み、冬用に置いてあったスニーカーの紐を結んでいると、背中から声がかかった。

 「もう、またそんな底の擦り切れた靴で行く〜」

 振り返ると、コードレス掃除機を片手にしたいおくん。たぶん、洗い物も済んだので、これから廊下の掃除に取りかかるところだろう。自分の靴のほうを覗き込み、きゅっと眉根を寄せている。

 「今日なんて絶対雪が染みるし、転んじゃいますよ? 僕のブーツ貸してあげます」
 「滅相もないです。自分なんてこのボロ靴で十分です」
 「じゃあせめて、手袋もつけてください。今から編むから」

 今から?

 「だ、大丈夫です」

 紐を結び終え、逃げるように立ち上がる。いおくんなら本当にやりかねない。というか、やる。
 立ち上がった拍子に、揺れたカメラを手で押さえる。それを見つつ、いおくんは腰に手を当て、ふん、と鼻を鳴らした。

 「仕方ないなあ……いってらっしゃい。本当に、気をつけてくださいね」
 「……うん。いってき、ます」

 そのやりとりがなんだか照れくさいような気がして、ぼそぼそとそう応え、自分は玄関の扉を押し開けた。


 外に出ると、また昨夜のように雪が降り始めていた。白い、綿か羽のようにふわふわと舞う雪片が、より白を塗り重ねた景色へ、音もなく吸い込まれていく。
 積雪は音を吸収すると言うけど、本当にそうで、絵に描いたような静寂が周囲を包んでいた。ほう、と息をつけばそれすらも白く、耳にこだまするように聞こえる。

 傘は持っていかないことにした。さく、さく、と気持ちのいい音を立てながら、靴底を埋めるくらいに積もった雪の上を、自分は門の方へと歩き始めた。


 防犯のため普段は閉めている門も、今日ばかりは朝から開けてある。閉めたまま積もってしまっては、この後の出入りが大変になるからだ。
 周辺のちょっとした雪かきは、昨夜止めたにもかかわらず、やはりいおくんが早朝、起き出してやってくれたらしい。普段から朝が早い理解さんも、半ば強行突破で手伝ったそうな。いおくんは好きでやっているにしても、理解さんの働きっぷりにはいつも頭が上がらない。

 恐れ多さと申し訳なさに首を縮めつつ、自分はそこを通り過ぎた。足元ばかりに目をやっていたので、すぐには気づかなかった。

 門の外、両側に木々が生い茂る、緩やかな坂道。
 その真ん中にぺたんと座り込む、人の後ろ姿があることに。


 気づいた瞬間、自分は凍り付いたようにその場で足を止めた。その人の座り込む地点から、まだ三メートルほど手前のところだった。

 降り続く雪の向こう、座り込んだまま、恐らく虚空を見上げるその後ろ姿。肩まで流れる黒髪に、黒い上着、雪の上に広がる黒のスカート。セーラー服だ。と、いうことは、学生。
 当然、誰? という疑問が頭に浮かぶ。日曜の朝、こんな雪の日に、どうして制服姿でうちの前に座り込んでいるのだろう。そもそも、座り込んでいること自体、ただならぬ状況だ。だってこんな、積もった雪の上に、直に。

 こちらの気配に、向こうも気づいたのだろうか。ゆっくりと、その首が振り返る。

 夢の一場面を切り取ったかのような瞬間だった。

 透けるように白い肌。流れる血潮を映した赤い頬。黒檀の髪がさらりと揺れて、その背に落ちかかる。
 こちらを見つめる瞳は、吸い込まれそうなほどに深い夜空の色。うすらと開いた小さな唇に、雪のかけらが触れては、恥じ入るようにとけて消えていく。

 どうしてかはわからない。自分の目に映るその少女は、輝くばかりに美しいはずなのに。

 それを塗りつぶしてしまうほどの孤独を、そのときの自分は、確かに彼女から感じていた。


 どれほどの時間、そうしていたのか。たぶん、ほんの数秒の間だろう。
 少女の目が、二、三度まばたきした。夢の残り香が、長いまつげの上でぱちぱちと弾ける。
 そこでようやく、自分が呼吸すら忘れていることに気がついた。

 思い出したように吸い込んだ空気は冷たかった。肺がひっくり返りそうになる。それでも何か言わなければと、どうにかこうにか、自分は声を絞り出した。

 「あの……」

 けれども出てきたのは、その二音だけ。自分でもつくづく弱そうに聞こえる声が、降る雪の向こうへあえなく吸い込まれていく。

 それでも、その子の耳には届いたらしい。

 「あ、すみません。お邪魔ですね。退きます」

 鈴を転がすような、とは、こういうことを言うのだろう。そんなことを思ってしまうほど心地よく、けれども自分に負けず劣らずの、幽かな声だった。

 返事の後、その子は徐に立ち上がった。雪の上に広がっていたスカートや、黒いタイツで包まれたふくらはぎから雪のかたまりがぱらぱらと落ちる。
 そのまま音も立てず静かに歩いて、その子は道の端に退いた。そして、どうぞ、と言うように、こちらへ目配せしつつ会釈までしてくれる。

 「あ、どうも……」

 あまりに自然な流れに、思わず自分も会釈を返しつつ、その場を通り過ぎようとした。

 って、いやいやいや。違うだろう、湊大瀬。

 少し行き過ぎたところで、慌てて振り返る。目が合うと、その子はまた、まつげを揺らしてぱちぱちとまばたいた。
 あ、何から尋ねようか、考えていなかった。

 自分は数秒悩んで、悩んで、口を開いたり閉じたりして、挙句の果てに一つだけ問いかけた。

「寒くないですか?」

 馬鹿、寒いに決まっているだろう。心の中ですぐさまツッコミを入れる。けれども、口でする会話の怖さとはまさにこういうところで、一度言ったことは取り消すことができないのだ。
 案の定、その子はまた数度まばたきして、やがて口元だけで微笑み、言った。

 「寒いです」

 ですよね。自分もまた、心の中でだけ頷き返す。

 ところが、そこでふと、妙なことに気がついた。普通という感覚が備わっていない自分の目にも、どこか異様に映るその子の姿。
 何だろう。違和感の正体を探して、目を向けた先。彼女の足元を見て、自分は驚いた。

 「あ、あの。靴は……?」

 彼女の足には、靴がなかった。ここは外、そして何度も言うが、積もった雪の上だ。タイツに包まれた足先は、じかにその浸食を受け、黒い色をより濃くしていた。
 問いかけを受けてその子は、その子自身、困ったように首を傾げた。

 「あ、その……気がついたら、履いてなくて」

 どういうことだろう。履いてくるのを忘れたわけでもなく、どこかで失くしたということでもない。それだってまず滅多にないと思うけど、気がついたら履いていなかったとは。そんなこと、あるだろうか。

 そうこうしているうちにも、空から降る雪の幕はどんどん密度を増す。自分にも、彼女の肩の上にも、音もなく静かに、白い雪が降り積もっていく。
 よくよく目を凝らして見ると、彼女の身体は震えていた。唇の色も、かすかに青紫がかっている。いったいいつから、ここでこうしていたのだろう。わからないけれど。少なくとも、このまま放っておくわけにはいかない。

 自分は考えた。どうすればいいだろうか。
 まず靴を履いていないから、自分の靴をお貸しする。いや、でもこんなゴミが履き潰したゴミみたいな靴を人様に貸すだなんて、そんな失礼なことできるわけがない。
 それなら、彼女を負ぶって、自分が足になりご自宅まで送り届けようか。でも、こんなクソ吉の背に身を預けるなんてきっと死んでも嫌だろうし、情けない話、自分もそこまで体力に自信があるわけではない。
 どうする。彼女は寒そうにしている。とにもかくにも、なるべく早く暖かいところへお連れしたほうがよいだろう。
 そこでふと、自分に考えが浮かんだ。そうだ、そうすればいいんだ。とりあえずそうしてもらえれば、後のことも落ち着いて考えられるはず。
 思い切って、自分は尋ねてみた。

 「あの……じ、自分の家は、すぐそこなんです。よかったら、休んでいかれませんか」

 言ってから、その内容を再度吟味して、そしてまた重大な過ちを犯したことに気がつく。

 「あっ、いえ、その! 変な意味でなく!」

 慌てて訂正するも、かえって不審になった。状況はさておき、これでは誰がどう聞いたって女学生を自宅に誘い込もうとする変質者だ。
 わたわたする自分を見て、その子は目を丸くしている。
 ああ、ほら見ろ、自分がよかれと思ってやることは、全て余計なお世話で裏目に出るんだ。これ以上不愉快な思いをさせないよう、いっそ立ち去ることが賢明ではないか。そう思い始めたとき、その子はようやく口を開いてくれた。

 「いいんですか……?」

 えっ、と思い、改めてその顔を見る。目を丸くしているのは、確かだった。けれどもそれは、こちらの不審に驚いてのものとはどこか違うように思える。
 なんと言えばいいのだろうか。何か、思ってもみない言葉をかけられたときのような。自分も、家で皆さんといるとき、しばしばこんな顔をすることがあるような。わからないけれど。

 嫌ではない、ということで、いいのだろうか。

 そう判断して、自分はまた、おずおずと頷いた。

 「とにかく、温まったほうがいいと思います、から。……こっちです」

 そうして、彼女を促すように、ゆっくりと踵を返した。


 家の全貌が見えるところまで来ると、後ろをついてきた彼女が、驚きつつもその色を押さえた声で呟いた。

 「ずいぶん大きなおうちですね……」

 それに自分は少し振り返り、応える。

 「あ、いえ、一人で住んでるわけではないです。シェアハウスをしているんです」
 「シェアハウス?」

 彼女がこてんと首を傾げる。そのときには既に、自分たちの足は玄関ポーチを踏んでいた。

 「自分のほかに、六人いらっしゃるのですが……」

 言いながら、玄関の扉を開ける。掃除機をかける音がしていて、けれども次の瞬間には、ふっと止んでいた。

 「あれっ、早かったですね大瀬さ……って、えええええ!? 大瀬さんが女の子連れてきたあああああ!?」

 どんがらがっしゃっしゃーん。


 いおくんのシャウトとどこかへ転がっていく音は、この家の住人イチよく響く。


2023.06.03 更新




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