詳しい話は後でするとして、自分はひとまず、玄関の中へとその子を招き入れた。
 自分の後に続き、おずおずとホール内に足を踏み入れる彼女。靴を履かない足が床に濡れた跡をつけ、制服のあちこちについた雪が、ぱらぱらとその上へ落ちかかる。
 その様子に気がつくと、いおくんは少しだけ息を飲んだ。

 「ええっと、状況はわからないけど……」

 戸惑うように呟き、けれども一瞬のうちにその表情を切り替える。

 「とりあえず、このスリッパ使ってください。それから、タオルに……着替えも用意したほうがよさそうですね。洗面所へ行きましょうか。こっちです、ついてきてください」

 そして廊下の向こう、バスルームへと彼女を案内してくれる。
 自分は玄関に立ったまま、歩いていく二人の背中を見送った。心配だけど、自分が行ったってどうしようもない。ここはいおくんに任せるのがいちばんいい。

 いったん自室へと引き上げ、自分も着替えを済ませた。机の上にカメラを置き、ふと振り返り窓の外を見る。雪は相変わらず降り続けている。この様子だと、今日一日にかけても更に積もるだろう。写真どころではなくなってしまったけど、それよりも、あの子をこの寒空の下、放っておくことにならなくてよかった。そんなふうに安堵する自分もなんだか嘘くさくて、窓から室内へと目を戻し、ひとり重いため息をつく。

 リビングへ下りてみると、そこには皆さんの姿も集まり始めていた。いおくんのシャウトを聞きつけ、様子を見に来たのだろう。

 「あっ、オバケくん。さっきの何? どしたの?」

 自分に気がついたテラさんが、不思議そうな顔でそう尋ねる。当然、ほかの皆さんも似たような表情をしている。自分は自分でやったこととはいえ、急にいたたまれない心地がした。
 どこからどう、説明すればいいのだろう。

 「え……と……」

 頭の中でぐるぐると考えつつ、口を開きかけたそのとき。リビングの扉が、ガチャッと音を立てて開いた。

 「あれっ。皆さん、下りてきたんですか?」

 先に顔を覗かせたいおくんが、黒い目をぱちくりとまたたいて言う。
 彼が呼んだようなものだけど、そんなこと言える立場にないので自分は黙っておく。
 続けて姿を見せたその子は、先ほどまでと出で立ちが変わっていた。黒いセーラー服から着替え、上下ともに紺色のジャージ姿だ。見るからにオーバーサイズなそれは、いおくんが取り急ぎ用意してくれたものだろう。
 リビングへと足を踏み入れる一歩手前で、びくりとその肩をこわばらせた。

 「あっ。ごめん、言ってなかったね。この家の住人の皆さんです。皆さん、こちらは……大瀬さんのお客さん、かな?」

 紹介しつつ、いおくんは首を傾げた。申し訳ないことに、自分もどう言えばいいのかわからない。
 けれどもその子は、やがて気を取り直すようにぴしっと背筋を正した。スリッパを履いた足を少しだけ踏み出し、リビングの照明の下にその身をさらす。

 「おじゃまします」

 たどたどしく下げた頭と硬い声音には、緊張の色が滲んでいた。


 なにはともあれ、まずは身体を温めたほうがいい。いおくんもそう思いシャワーも勧めてくれたようだけど、そこまで世話になれないと拒まれたそうだ。
 それならせめて火に当たってもらおうと、自分たちは暖炉前のソファに彼女を座らせた。遠慮がちに、三人掛けの左端へ寄って、縮こまる彼女。いおくんは気を利かせて、その膝にブランケットもかけてくれた。

 「皆さん集まってるし、お茶でも淹れましょうか」

 そうして八人分のお茶を用意するため、ささっとキッチンへ行ってしまう。

 「…………」

 これ、自分は次にどうすればいいのだろう。

 一瞬の沈黙のあと、代わりに動いてくれたのはふみやさんだった。

 「まあ皆、座ろうよ」

 そう声をかけて、彼女の左手にある一人掛けのソファに腰かける。
 それにいちばんに応じたのはテラさんだ。「そだね」と頷きつつ、ふみやさんの向かいのソファへ。次いで天彦さんが「失礼します」と彼女に微笑みかけつつ、三人掛けソファの右端へ。猿川さんは、突然の来訪者に警戒しているのだろうか。少し距離を取って、ダイニングテーブルの椅子に腰を下ろした。
 そしてどういうわけか、理解さんはどこにも座らなかった。暖炉前のスペースから一歩引いたところで、彼女の横顔を眺めつつ少し難しい顔をしている。
 それなら自分も、と思い、ぼんやりと皆さんの様子を見守っていると、「ちょっと」とテラさんの声がかかった。

 「オバケくんも座って」

 そして目線で示すのは、三人掛けソファの真ん中。彼女と天彦さんの間だ。

 「ぅえっ」

 思わず見返すと、その顔にはこう書いてあった。

 『君が連れてきたんでしょ』

 はい、まったく、おっしゃるとおりです。
 
 自分はそうっとソファを回りこんだ。天彦さんの前を失礼して、指示されたとおり、二人の真ん中にそろそろと腰を下ろす。その際、ちらっとだけ左隣を窺ってみた。彼女は唇を引き結び、正面のローテーブルに視線を固定したまま、じっとしていた。

 「お待たせしました〜」

 タイミングよく、いおくんが戻ってきてくれる。紅茶のいい香りを漂わせるカップを皆さんの手元にてきぱきと配って、その後、テーブルを挟み彼女と差し向かい、ラグの上に正座した。自分もそうすべきだったとハッとするけど、今更だ。

 「……さて」

 そして一拍置き、いおくんは話を切り出してくれた。

 「お名前、まだ聞いていませんでしたね」

 隣で、彼女が居ずまいを正す気配がした。ややあって、いまだ緊張の抜けない声が答える。

 「細川あかり、です」

 自分はその名前を、頭の中で繰り返した。あかりさん。彼女の雰囲気によく似合う名前だなと、呑気にそんなことを思う。
 いおくんは「うんうん」と頷き、話を続けた。

 「あかりさんね。あっ、僕は本橋依央利。で、ええと……そちらの、大瀬さんとはお知り合い?」
 「大瀬さん……」

 彼女は呟き、その名が指す人間を探すように少し目線をさまよわせた。やがてその夜空を写し取ったような瞳が、自分の姿を捉える。にわかに心臓が、どきっとした。

 「ちっ、違います! あの、」

 そして咄嗟に、つんのめるような勢いで自分は口を開いていた。
 それはとんでもない誤解だと、伝えてあげなければいけないと思ったからだ。年頃の女の子が、いや、年頃の女の子でなくても、こんなクソと知り合い扱いされたら絶対嫌に決まっている。
 加えて、自分には義務があると思った。彼女がどんな様子で外にいたのか、それを皆さんにも説明しなければならない。

 「彼女とは、ついさっきお会いしたばかりです。門の前に、一人でいらっしゃって。コートも着られず、とても寒そうに見えたので、思わず……」

 けれども、口に出して己の行動を顧みるうち、自分は改めてそのおこがましさに気がついてしまった。考えてみれば、べつに彼女のほうから何か頼まれたわけでもない。それなのに、寒そうだったからなんて憶測だけで強引にも家まで連れてくるだなんて。
 これはもう、死ぬしかない。

 「すみません、クソがクソみたいな要らない気を回して……。頭を冷やしついでにそのまま外で凍死してきます」

 そう思った自分は腰を浮かせていた。

 「いや、それは大丈夫だから」
 「そうですよ、大瀬さん。座ってください」

 しかしそんな自分をテラさん、続けて天彦さんがやんわりと制してくれた。自分はそこで、ハッと我に返る。
 恐る恐る横を見ると、こちらを見上げる彼女と視線がかち合った。目を丸くしたその表情は明らかに、自分の突飛な発言に面食らってのものだ。
 途端、今度は猛烈な恥ずかしさがこみ上げてくる。ああ、やってしまった。初対面の人の前で、また無様を。何のために口を開いたのか、その当初の目的も忘れて、自分のことばかり。
 やっぱり今すぐ凍死したい思いに駆られるけど、今度こそぐっとこらえ、自分はソファに座り直した。

 「で、話戻すけど。門の前にいたってことは、ウチに何か用だったの?」

 仕切り直すように、テラさんが話を継いでくれた。
 その問いかけに対し、しかし彼女はふるふると首を横に振る。

 「いいえ」
 「? じゃ、何でまた」

 重ねて問われ、今度は少し考えるように目を伏せる。
 一秒、二秒、三秒ほどの間が開いた。そして口を開いた彼女の声は、か細く、いかにも自信なげなものだった。

 「わかりません……」

 その返事に、彼女以外の全員が虚を突かれた顔をする。自分ももちろん、そこに含まれていた。
 自分は、隣で俯く彼女の横顔を盗み見た。ほとんど無意識だろう、口角は下がり、眉間が寄っている。頭の中にあるものを必死で探っているようなその表情。
 自分はふと思い出した。そういえば、外で靴がないことを尋ねたとき。あのときも彼女はこんなふうに、困りきった顔をしていた。

 「わからないって……それはどういうこと?」

 皆さんの疑問を代弁して、テラさんが再度問いかける。

 「思い出せないんです……。自分がいつから、どうしてあそこにいたのか」
 「まったく? それまで何をやってたか、とかも?」
 「はい……」

 ゆっくりと首を頷かせ、それきり彼女の口から続く言葉はなかった。

 少しの間、沈黙が下りた。その場にいた全員が、それぞれに考え込む顔をしていた。
 いったい、彼女の身に何があったのだろう。疑問と、かすかな不安が首をもたげる。

 静かで暖かな部屋。けれどもそこに漂う空気は、どこか張り詰めたものに変わり始めていた。

 「……でも、何もかも覚えていない、ってことはないんだよね?」

 その空気を少しでも和らげようとしてか、今度はいおくんが口を開いた。

 「自分のこととか、おうちのこととか」
 「……はい」

 問われて、彼女は重たげに目を伏せたまま、それでも小さく頷いた。
 その返答に、いおくんは少しほっと息をつく。

 「よかった。それじゃあ、もうしばらく休んだら、ひとまずご自宅に連絡してみよう。僕のスマホ、貸してあげるから」

 そしてそう提案しつつ、ズボンのポケットからスマホを取り出した。こと、と硬い音を立て、ローテーブルの上に置かれるそれ。彼女はそれを見てまた頷くのだろうと、自分は思いこんでいた。
 けれども、その反応はまた予想に反したものだった。

 「連絡は……しないでおくことは、できませんか」

 小さく呟くその声は、冬の空気のように冷え枯れていた。

 当然、いおくんはまた戸惑う。

 「え……それは、どういうこと? 何か事情があるの……?」
 「……すみません。こんな、お世話になっておいて、申し訳ないですが……」
 「それはいいけど……でも、大丈夫? 心配されてるんじゃ......」
 「……それ、は」

 それまで黙っていた理解さんが、初めて口を開いたのはそのときだ。

 「そうは言っても、君は未成年だろう?」
 「は、はい」
 「それなら、我々も未成年を保護しておいて何もしないわけにはいかない。まずはご自宅へ連絡するのが筋だ。でなければ、警察に相談しなければ」
 「警察……」
 「理解くん、いきなりそれは……」
 「わっかんねーな」

 と、そこで猿川さんまでも声を上げた。

 「さっきからぼそぼそと。そんでおめぇはどうしてーんだ。はっきり言え」
 「猿、今は私が話をしているんだ」
 「っせーな、俺はそのガキに聞いてんだよ」
 「なんだと!?」
 「あぁ!? やんのか!?」
 「ちょちょちょ、二人とも今喧嘩はやめて!」

 にわかに色めき立つ、室内の空気。いおくんが立ち上がり仲裁に入るけど、理解さんと猿川さんは火花を散らすのをやめようとしない。
 自分は半分ソファから腰を浮かせ、言い合い続ける二人をおろおろと見比べた。隣では、彼女が首を俯かせる角度をますます深くしている。どうしよう。完璧にやってしまった。自分のせいで、ここにいる全員を困った状況に陥らせている。

 「あ、あのっ……」

 解決案は何も浮かばないけれど、とにかく何か言わなければと自分は口を開いた。それとほぼ同時に、「え、ちょっと」とテラさんが何事か気がついたように声を上げる。状況が錯綜している。何が何やらわからず、自分は反応が遅れた。ぐらりとこちらへ傾いた、彼女の体に。

 えっ、と思ったときには、ポスッと。左の肩に重みが加わっていた。

 「……え。えぇっ!?」

 口から頓狂な叫びが飛び出る。横を見れば、自分の肩にもたれかかる彼女の頭頂部。
 ふみやさんが口を「おっ」の形に開いた。天彦さんが「おや」と声を上げる。
 もはや彼女とは関係のない話で、掴み合いを始めそうだった理解さんと猿川さんも口をあんぐりと開けた。「んなっ……!」「はあ!?」
 二人の間で潰されていたいおくんも「何、突然の見せつけ!?」と騒ぐ。

 大混乱に陥りながらも、そのとき自分は急激に気がついた。
 衣服を通して伝わる彼女の体温。冷えたはずのその身体が、やけに熱を持っていることに。
 思わずその額に、手を触れていた。

 「熱があります……!」

 ***

 話はそこで一時中断となった。
 このときも真っ先に動いてくれたのはいおくんだ。自分に寄りかかり、朦朧とする彼女を見て「寝かせてあげよう」と言ってくれた。物置に予備の布団を置いてあったはず、とリビングを出ていき、次いで天彦さんが「お連れしましょう」と軽々彼女の体を抱き上げる。
 自分も咄嗟に立ち上がって、でも、何もできることなどないと気づき立ちすくむ。

 「行ってやんな」

 声がして振り返ると、テラさんが促すような目でこちらを見ていた。彼女を抱えたまま、天彦さんも微笑み返してくれる。
 自分は迷いつつ、先を行く天彦さんの背中を追いかけていった。


 リビングに戻ると、待っていた皆さんが一度にこちらを振り向いた。

 「とりあえず、202号室で休んでもらったよ」

 いおくんが状況をそう伝えてくれる。天彦さん、それから自分を先に部屋へ押し込みつつ、後ろ手に扉を閉めた。

 物置から布団を取り出して、自分たちは空き部屋の一つ、202号室へと上がった。そこに布団を敷いて横にすると、彼女はすとんと、それこそ落ちるように眠ってしまった。熱もあるけれど、その様子からはむしろ、強い疲労感のようなものが伺えた。彼女ほどの年齢で、こうも疲れ果ててしまうことがあるだろうかと思うほどの。
 しばらく寝かせておくしかなさそうだ。そう判断して、自分たちはひとまず部屋を後にした。額に貼った熱冷ましのシートが、少しでも彼女を楽にしてくれることを願いつつ。

 「そっか」

 話を聞き、ふみやさんがソファに腰掛けたまま頷いた。

 「大丈夫なの?」

 向かいで、テラさんが心配そうに尋ねる。
 いおくんはその場で腕組みし、うぅんと難しい顔をした。

 「どうだろう……だいぶ冷えてたみたいだから、風邪ひいちゃったかな。何にせよ、しばらく様子見ですね」
 「目を覚まされたら、薬を飲んでもらってもいいかもしれません。解熱剤はありましたか?」
 「もちろん、ありますよ。準備しておきます」

 天彦さんの言葉に頷き、いおくんはまた働き始めようとする。けれどもいったんその動きを止めたのは、テラさんのため息だった。

 「に、しても……何もわからなかったね。いったい何がどうしたっていうんだろ」

 その言葉に、すかさず反応したのは理解さんだ。

 「やはり、警察に届けるべきです」
 「おめぇ、まだそれ言うのかよ。もうどーでもいいだろ、どうせ部屋空いてんだから」
 「そういう問題じゃない。貴様は黙っていろ」
 「んだとぉ!?」
 「うーん。でも、本人の口から何も聞けてないし……」
 「思春期の少女のことですから、単なる家出……であればいいのですが。それにしても、何も覚えていらっしゃらないという点が気になりますね」
 「仮に警察に届けたとして、そうしたら、ご自宅にも連絡がいくわけですよね? ……もしも、ですよ」

 家に帰りたいと思えない、特別な事情があるとしたら。

 いおくんのその言葉に、一瞬場が静まり返った。

 「……だとしたらなおのこと、然るべき場所に相談すべきです」

 そう意見を述べる理解さんの声も、どこか重々しく響いた。

 「大瀬は」

 ふいに名前を呼ばれ、自分は顔を上げた。ふみやさんが、いつもと変わらない平静な目でこちらを見つめている。

 「大瀬はどう思う」
 「……じ、自分……は……」

 言いかけて、また俯いてしまった。迷っていた。
 自分は。


 「……わかりました」

 理解さんが、静かに、けれども決然として口を開く。

 「彼女に対して、皆さんの良心が咎めると言うなら……私が行ってきましょう。警察にきちんと経緯を説明して、上手く取り計らってもらうようお願いしてみます。……結果、うちで預かるにしても、話はそれからだ」

 そして踵を返し、リビングを出ていってしまおうとする。

 「理解くん、」遠慮がちに、引き留めようとするいおくんの声。けれども、理解さんは振り返らない。

 「待って……」

 どうしてか。気がついたら自分は、叫んでいた。

 「待ってください!」

 びくりと肩を揺らし、理解さんが驚いた顔でこちらを向く。その背に、自分は取りすがった。

 「ダメです」
 「お、大瀬くん?」
 「ダメです、理解さん。やめてください」
 「っだから、大瀬くん。君ならわかるだろう? これは感情論でなく、法律上の問題で……」
 「わかります、わかってます! 理解さんの心配も、皆さんの心配も。ごめんなさい、自分のせいです。自分が考えなしに行動したばかりに。でも……」

 必死に訴えながら、自分は思い出していた。窓の外で、降り続く雪。頬を凍てつかせる空気。白い景色の中、浮き上がる彼女の姿。
 こちらを振り向く瞳と、初めて目を合わせた瞬間を。

 あのときの彼女の目は、この世界のどこにも向けられていなかった。

 暗いかなしみで視界がふさがる。
 持て余すさみしさが胸を抉る。
 真っ黒な孤独が、全身をでたらめに塗り潰していく。

 知っている。
 自分は彼女を、彼女のあの目を。知っているんだ。

 唐突に、そう思った。

 「……お願いです。今、彼女の手を、離さないでください。今、離してしまったらきっと……彼女はもう、ここには戻りません」

 戻れないんです。

 そう言い足して、下を向いた。
 しん、と静まり返った空気が、足元を漂っている。

 「……責任は、自分が取りますから」

 もう一度顔を上げ、祈るような気持ちでそう呟いた。


2023.06.17 修正




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