翌日は、彼女、あかりさんにとって少し大変な一日となった。


 「ええええーーーー!? あかりさんいなくなっちゃったあーー!??」

 突如耳をつんざいたシャウトに、自分はデスクに突っ伏していた身を跳ね起こす。

 一瞬、今が何時で、自分がいったい何をしているんだかわからなかった。
 まだぼんやりする頭をふりふり背後へ目を向けると、窓の外には薄水色に澄みわたる冬の晴れ空。どうやら、すっかり日は昇りきっているらしい。

 そういえば、と自分は思い出す。昨夜は皆さんとの話し合いの後、自室へと引き上げ、少し作業をしていたんだった。立ち上げていたはずのPCの画面は暗くなっている。いつの間にか、寝落ちてしまったようだ。
 思い出したように身体の冷えを感じて身ぶるいするけど、徐々に覚醒する頭のほうはやけにすっきりしていた。数日来の緊張が少し和らいで、夢も見ないほど深く眠れたからだろうか。

 と、そんなことよりも。自分は慌てて立ち上がった。先ほどのシャウトは、いおくんのものだった。声が近かった。隣室からだ。何て言っていた?

 あかりさんが、いなくなった?

 自室から出ると、すぐ隣、202号室の扉が開け放されていた。そっと近づき中を覗き込んでみると、こちらへ背を向けた格好で、やはりいおくんが立ちつくしている。手に持った何かを、見つめているようだ。

 「いおくん?」

 声をかけてみると、勢いよく振り返った。

 「大瀬さん! こっ、これ!」

 そして大慌てで自分のほうへ駆け寄り、その手に持っていた何かを突き出した。

 それは一枚の紙片だった。手のひら大の正方形をした、いわゆるブロックメモとか呼ばれるやつ。薄い青で色付けされたその表面には、文字が書きつけてあった。黒いボールペンで書かれた、小さく筆圧の弱い、見慣れない筆跡。

 『体調が戻ったので、おいとまします。本当にご迷惑おかけしました。直接お礼を言えずすみません。いつか絶対に、ご恩は返します。 細川』

 自分はぽかんと口を開けた。咄嗟には、それくらいのことしかできなかった。
 おろおろと両手を振りながら、いおくんが言う。

 「朝ごはんどうかな、と思って来てみたんですよ。そしたらあかりさんがいなくて、代わりにこの書付が置いてあって……どっ、どうしよう?」

 そのとき、廊下の向こうから複数の足音が近づいてきた。

 「ちょっと。今度はいったい何の騒ぎ?」

 そう言って、最初に顔を覗かせたのはテラさん。ほかの皆さんもそれに続き、部屋の前に姿を見せる。
 ひょいと中を覗き込んだ猿川さんが、目を丸くして言った。

 「あ? オイ、あのガキはどうしたんだよ」

 ぽかんとしたまま戻ってこられない自分を置いて、いおくんが説明してくれる。

 「いなくなっちゃった……」
 「はあ?」
 「身体は動くようになったみたいなんだけど。そしたらさっそく、こんな書付を残して……」

 言いながらいおくんが指さしたその紙片を、部屋に入ってきたふみやさんがすっと自分の手から取り上げた。
 黙したまま、そこに書かれた文章にさっと目を走らせると、やがて自分のほうを見て言った。

 「大瀬みたいだな」

 どこか笑いを堪えるようなその声音。テラさん、理解さん、天彦さん、猿川さんもそれを覗き込み、それぞれに納得したような顔で頷いた。

 「ほんとだ」
 「確かに」
 「よく似たセクシーを感じます」
 「こいつはもっと素っ気なかったけどな」

 自分の隣でその様子を眺めていたいおくんも、ぽんと手を打った。

 「言われてみれば」
 「え……うぁ……」

 自分はなんとも形容しがたい恥ずかしさに襲われた。
 もしかして、もしかしなくても、皆さんはあのときのことをおっしゃっている。自分が過去イチのクソムーブをかましてぶっちぎり優勝を飾ってしまった、あのときのことを。

 「まあ、ペットは飼い主に似るって言うし」

 フォローするかのような口ぶりで、ふみやさんが言った。

 「おい、伊藤ふみや」

 すかさずテラさんがツッコミを入れる。
 「しかし、」と天彦さんが顎に手を添え呟いた。

 「全く気がつきませんでした。いつの間に出ていかれたのでしょう」
 「昨夜ごはんを下げにいったのが八時半くらいだったから、早くともそれ以降ですね」
 「早朝かもしんねーぞ。理解、おめぇなんか気づかなかったかよ」
 「いや。五時以降、誰かが玄関を開けるような気配はなかった」
 「じゃあ、それよりもっと前。俺たちが寝静まってる間か」

 皆さんの推理を聞きつつ、自分はふいに不安になって尋ねた。

 「あ、あの。今は何時でしょうか」
 「そろそろ八時になるけど。ていうか君、よく寝てたね」

 テラさんがすこし呆れたように教えてくれた。
 今が朝の八時。あかりさんがこの家を出ていったのは、たぶん五時よりもっと前。既にけっこうな時間が経ってしまっている。
 先ほど窓から見た限りでは、今日も空はよく晴れている。そのぶん放射冷却で気温はぐっと下がり、今自分たちがいるこの部屋でさえ、コートの一枚でも羽織っていたくなるほどの冷え込みだ。

 これが外だったら。あの子は、またあの制服一枚の心許ない格好で、もう数時間もどこかをさまよい歩いているのだろうか。

 「……探さなきゃ」

 言葉は口を突いて出ていた。
 部屋の外へ足を向けようとする自分を、テラさんの声が引き留める。

 「結局、行く宛てがあったのかもしれないよ?」
 「……それならいいです。けど……」
 「……心配、か」

 そして、ひとつため息をついた。

 そこでいおくんが、思い出したように声を上げた。

 「っていうか! あかりさん、靴持ってないですよね?」

 その発言に、皆さん目を丸くする。そういえば、そのことを知っているのは自分と、玄関で彼女を出迎えてくれたいおくんだけだった。

 「え。まじ? それは初耳なんだけど」

 テラさんが眉を寄せ呟く。猿川さんがそれに続けた。

 「何だそりゃ。んじゃ裸足で出てったってことか?」
 「うん、たぶん。スリッパも置いてってあるし。あぁもう、これから要るだろうと思って一足作ったのにぃ〜」
 「作ったんですか……いや。しかし、少女の足で靴も履いていないとなると、そう遠くへは行けないはずです」
 「時間は経ってしまいましたが……手分けして周辺から当たってみましょうか」

 そうして、皆さん連れ立って部屋を出ていかれる。テラさんは少しぼやいていた。「もー、寒いの嫌なんだけど」「んじゃてめぇは来なくていーぜ」「君に言われると無性に腹立つな……」猿川さんと小突き合いつつ、その姿もドアの向こうへと見えなくなった。

 すこし、呆気に取られる。
 そんな自分を、最後に部屋から出ようとしていたふみやさんが振り返り、微笑んだ。

 「大瀬のときもこんな感じだったよ」
 「え……」
 「なんだかんだ皆、お節介だよな」

 自分は胸の奥で、言葉がつかえて出てこなかった。

 どうしてこの家の人たちは、ここまで人にやさしくできるのだろう。

 「まあ、とりあえずとっ捕まえて、話聞いてみよう」
 「……と、とっ捕まえて」
 「そう。大瀬のときみたいに」
 「ぅ……そ、その話は、もう……」

 笑いながら、ふみやさんはゆったりと踵を返す。その背中を、自分も慌てて追いかけた。

 ***

 七人も人がいるのだから、手分けしたほうが早い。あんまりぞろぞろ連れ立っていくと、かえって怯えて逃げられるかもしれないし。
 そういうことで、自分たちは七手に分かれてあかりさんの捜索に出た。手がかりはまったくないので、とにかく行き当たりばったり、探すしかない。
 けれどもそれは彼女にしても同じことで、所持金も、おそらく土地勘もない女の子が行ける範囲はきっと限られる。それほど広くもない街の中、これだけの人手があればすぐ見つかるだろう。自分たちはそう踏んでいた。

 ところが、どうやら彼女は人目を避けるのが上手かった。街中の、それぞれ思いつく場所を一通り当たってみたけど、なかなか見つからない。
 途中、状況確認のため皆さんでメッセージをやりとりしたとき、猿川さんが『猫みてーなやつ』とぼやいていた。猿川さんには、迷い猫を探した経験でもあるのだろうか。

 結局、彼女が見つかったのは、捜索を始めてから一時間近く経過した頃。
 ふみやさんからメッセージの発信があった。

 『見つけた。川沿いの公園? みたいなとこ』

 続けて、地図が送られてきた。開いて確認すると、赤い印の立ったそこは奇しくも、自分の現在地との距離が一キロにも満たない場所だった。
 皆さんから続々と、了解した旨の通知が届く。それを最後まで見もせず、自分はスマホをコートのポケットに押し込み走り出した。


 そこは確かに、公園と呼ぶのも憚られるほど、ひっそりとした場所だった。
 街でいちばん大きな川の流域にあるものの、広場や球場なんかが整備された地点より上流にずれている。そのうえ周囲には木々が生い茂り、遠目にはその中心に空間があるということすらわかりづらい。これでは、近隣住民ですらその存在をあまり知らないのではないだろうか。
 それでもふみやさんが『公園?』と称したのは、十坪ほどの土地の隅っこに東屋が設えられているからだった。
 いつ建てられたのかもわからない、木製と言うよりは石のようにも見える煤色の屋根。その下のベンチに、二人は並んで腰かけていた。

 あかりさんもだけど、ふみやさんも。こんなところ、よく見つけたな。そんなふうに感心しつつ近づいて、しかしなんだかあかりさんの様子がおかしいことに自分は気がついた。
 あかりさんは俯いていた。どういうわけか、その顔を制服の両袖口でじっと押さえたまま動かない。
 隣に座るふみやさんが、自分のほうを見上げて言った。

 「大瀬。ハンカチとか持ってる?」
 「え?」

 自分は目をまたたく。

 「持っていませんが……」

 答えると、ふみやさんはなぜかほんのり笑ったまま「そっか」と頷いた。

 「いや。泣いちゃったから」
 「泣い……えぇっ!?」

 自分が素っ頓狂な声を上げると、慌てたようにあかりさんが片手をかざした。

 「すみません、大丈夫です。もう大丈夫です」

 顔は俯けたままだけど、確かにその声は涙交じりにくぐもっている。
 自分はそうっと、ふみやさんへ視線を向けた。

 「……泣かせてしまったのですか?」

 思わず、そう尋ねる。
 ふみやさんはやはり微笑を浮かべたまま、「そう見える?」と問い返してこられた。

 ちょっと見えてしまうから、こわい。

 そのやりとりの後、ようやくあかりさんが顔を上げた。
 泣いたせいか、真っ赤になってしまった鼻の頭。肌の色が白いぶんよく目立つ。頬もうすらと赤いのは、こちらは寒さのせいだろうか。ぱちぱちとまばたきする睫は、涙に濡れたまま固まってしまっている。

 おかしな話だけど、そのときの彼女の表情に自分は少し安堵を覚えていた。なんと言えばいいのだろう。ここに来て初めて、彼女の年相応なあどけなさを目にした気がする。
 出会ったときからどこか浮世離れしていて、家にいても、ずっと緊張が抜けない様子だったから。

 ふみやさんが横を向いて、あかりさんに問いかける。

 「落ち着いた?」

 あかりさんは小さく頷いた。

 「はい」
 「そっか。よかった」

 微笑みを返すと、ふみやさんは立ち上がった。

 「そういうことで。大瀬、あとよろしく」
 「あ、はい……っぇえ!?」

 自分が飛び上がって振り返る間にも、さっさと歩き出しているふみやさん。

 「いや、実はちょっと急いでるんだよね。今日、行きつけのケーキ屋の新作発売日でさ。売り切れちゃう」

 言いながらもその声と背中は東屋を離れ遠ざかっていき、そのまま木々の向こうへと姿を消した。


 森閑とした冬の空気が、少しの間、自分たちの周囲を包みこんだ。


 「「…………あの」」

 思いがけず声がかぶって、自分たちは向き合ったままぎょっとする。

 「大瀬さんからどうぞ」

 両手を差し向けて言ってくれる彼女に、自分はぶんぶんと首を横に振った。

 「滅相もないです。その、あかりさんから」
 「いえいえ、大瀬さんから」
 「いえいえ」
 「いえいえ」
 「いえいえいえ……」

 繰り返しているうちに、日が沈みそうだった。
 自分たちはまたしばし黙りこむ。
 やがて、おそるおそる、誠に恐縮ながら、自分のほうから口を開いた。

 「……身体のほうは、もう、いいのでしょうか」

 その問いかけに、あかりさんが少し顔を上げる。

 「はい……昨日の夜から。動けるようになったから、もう、出ていかなきゃと思って……」
 「そう、だったのですか……」

 出ていく。その言葉に、自分は身勝手な感情を覚える。それは他の誰でもない、彼女自身がそう決めたことなのに。
 寂しい、だなんて。
 頼まれもしない世話を焼いておいて、そのくせ、彼女の意志を尊重しきれない自分が嫌になる。

 「けど、」

 あかりさんは言葉を続けた。知らず今度は自分のほうが俯いていて、その目線を再び目の前の彼女へと向ける。

 ベンチに座ったあかりさんは、じっとこちらを見上げていた。
 その瞳に宿ったひたむきな光に、自分は一瞬、目を奪われる。

 桜色の唇がすこし震えて、言葉を紡いだ。

 「……さっきの方に、教えてもらいました。わ、私も……いていい、って」

 自分は、ああ、そうかと思う。
 ふみやさんが、話してくれたんだ。昨夜のことを。彼女をうちに受け入れるという、自分たちの意志を。
 それに涙した彼女の気持ちも、同時に思う。

 彼女は今までずっと、さまよい歩いていたのかもしれない。それは今朝、この街の中だけでなく。どこか自分たちの知らない、遠いところで。
 何の根拠もない。けれども、ふと、そんな考えが頭に浮かんだ。

 あかりさんが、もう一度口を開いた。
 その声は震えていたけれど、どうしてか自分の耳にまっすぐ届く。

 「大瀬さんが、そう、言ってくれたんですね」

 「……ありがとう、ございます」そう言って、彼女はゆっくりと、深々と頭を下げた。
 自分はしばらくの間、そんな彼女のつむじを呆然と見つめていた。


 ややあって、思い出したようにパッと頬が熱を持つ。

 「あっ、あの! 頭を上げてください! そんな、自分はそんなふうに言ってもらえるようなことは何も……本当に、ただ今日まで無駄に息をしていただけで!」
 「……息?」
 「えっ? あ、あー。その、息っていうのは、えぇっと……」

 しどろもどろに両手を振り動かす自分を、そろそろと顔を上げたあかりさんは少し不思議そうに眺めていた。
 けれども、やがてその表情も花のつぼみのようにほころぶ。

 こちらへ向けられた目が、やさしく細くなった。何かまぶしいものを見つけたときのように、うるむ瞳が静かにまたたく。
 今度は自分のほうが、すこし不思議に思う番だった。
 どうしてそんなに、まぶしげな顔をしているのだろう。
 低空を廻る冬の日の光は、そのときまさに、あかりさんの背中側から差していたと言うのに。


 やがて、連絡を受けた皆さんのうち、天彦さんといおくんが先に到着した。
 いおくんは例の自作したという靴を持参していて、歩いているうちにタイツも擦り切れてしまったあかりさんの両足にそれを履かせた。
 これで楽に歩けると喜ぶあかりさんだったけど、残念ながらそれは許可されなかった。彼女はあまり覚えていないだろうけど、また天彦さんにいとも容易く抱え上げられてしまった。けれどもさすがに日中の外でそれは恥ずかしいと言うことで、おんぶに変更となった。天彦さんの背中で縮こまる彼女は、申し訳ないけれど実際よりさらに小さく見えた。

 他の皆さんへも続報を入れてから、自分たちは歩き出した。
 自分たちの家へと向けて。

 ***

 ケーキを食べに行ってしまったふみやさんの帰宅を待って、自分たちは改めて、それぞれに自己紹介をした。
 時刻は正午近くなっていたので、お昼を食べながらの賑やかな会となった。


 「改めまして! 本橋依央利だよ。何か困ったことがあったら、いつでも真っ先に僕を頼ってね!」
 「お世話になってます。どうぞよろしくお願いします」

 「僕はテラ。テラくんでもテラさんでも、好きに呼んでいいよ」
 「テラさん……あの、すごくきれいですよね。モデルさんとかやってますか……?」
 「え、なに。めっちゃいい子」

 「天堂天彦です。ワールドセクシーアンバサダーを務めております。どうぞよろしく、あかりさん」
 「ワー……セク……?」
 「天彦さん、女子高生にそのノリはまずいですよ」

 「草薙理解です。これからよろしくお願いします」
 「よ、よろしくお願いします」

 「伊藤ふみや。さっきはごめんね。どうしてもケーキ食べたくてさ」
 「こちらこそ、お時間取らせました」

 「俺は自己紹介なんかしねーぞ」
 「え?」
 「いや、するよね」
 「しねー」
 「する」
 「絶対しねー」
 「あ、あの。ごめんなさい。無理にしていただかなくても」
 「猿川慧だ! なんかぶっ飛ばしてーやつとかいたら言ってこい。喧嘩教えてやる」
 「え、あ……ありがとうございます……?」

 皆さんに囲まれやりとりするあかりさんを、自分はダイニングテーブルの端っこからこっそりと眺めていた。

 涙の跡はすっかり消えた顔。わいわいと盛り上がる皆さんのことを、一生懸命その目で追いかけている。
 公園で話したときも感じたけれど、その表情や仕草には、ここに来た当時よりもいくらかあどけなさがにじむ。もしかすると、これが彼女の素の様子なのかもしれない。

 そんなことを思うと、なんだかほわほわとした気持ちが湧いてきて、自然と口角が上がっていた。そのことに気づき、自分は慌てて湯飲みに口をつける。危ない、めちゃめちゃ気味の悪い面を晒してしまうところだった。

 けれども次の瞬間、ふいにこちらへ顔を向けたあかりさんと、ばっちり目が合ってしまった。
 やば、と思うものの、いきなり逸らすのも失礼だ。ほんの一瞬、凍りついたように見つめ合った後、口を開いたのはあかりさんだった。

 「……あの。大瀬さんの、下の名前も教えてもらっていいですか?」
 「……え?」

 湯飲みをそっとテーブルに戻し、自分は首を傾げた。
 下の名前。どういうことだろう。大瀬とは、一応このクソ吉の、下の名前に当たるのだけれど。
 あかりさんのはす向かいでそのやりとりを聞いていた、猿川さんが言った。

 「大瀬はそいつの下の名前だぞ」
 「……え?」

 今度はあかりさんのほうが首を傾げた。こてん、とわずかに斜めを向いた頬。それが、どういうわけかみるみるうちに赤く染まっていく。

 「ごっ……ごめんなさい、私てっきり、苗字だと。馴れ馴れしいことして、すみません」
 「えっ? あ、いえ、そんな。 よくあることです……っていうか自分もそうでしたし、むしろこんなクソを名前で呼んでいただいてたことのほうが申し訳ないというか……」
 「んん? これ、もしかして僕のせいかな。大瀬さんのこと、いつもどおり呼んじゃってたもんね」

 何気ない調子で、いおくんが言った。けれども、あかりさんの頬の紅潮は引かない。よほど恥ずかしかったのか、それともやっぱり、クソを名前で呼んでいたという事実にまた熱が出てしまったのだろうか。自分はハッとした。絶対後者だ。
 腰を浮かせかけ、けれどもふと戻ってきたあかりさんの視線が、それを制した。

 「あ、あの」
 「は、はい」
 「もしよかったらなんですけど。このまま、名前で呼んでてもいいですか……?」
 「へ……」

 言われて、その意味を解するのに自分は数秒の間が必要だった。

 え。そんなこと、いいのだろうか。

 思って、迷って、ふと気づく。あかりさんだけでなく、なぜか、テーブルに着く皆さんの視線までもがこちらにじっと注がれていることに。
 なにこれ。どういうこと?

 「……ダメでしょうか」

 けれども、しゅん、と伏せられた睫に、自分の口は勝手に動いていた。

 「大丈夫です」

 その瞬間、なぜかその場がワッと沸いた。
 だからそれは、どういうことですか?


 そんな調子で皆さんのおしゃべりも箸も進み、やがてテーブルいっぱいに広がった食器も粗方空となった。
 いつものように、いおくんが腰を上げる。

 「さて。皆さん、お皿下げてもいいですか?」

 「うん」とか「はい」とか「おう」とか返事がある。自分も小さく頷いた。
 カチャカチャと音を立て、ウキウキといおくんが食器をまとめ始めたとき。
 それはいつもと違う、七人だけのときにはなり得ない流れだった。

 「あの。私、やります」

 たぶん、自分だけではない。その場にいた全員の目に見えたはず。

 いおくんの頭上にピシャーンと稲妻の走る、その瞬間が。

 けれども当然、あかりさんはそんなことつゆ知らず。至極まじめな調子で続けた。

 「お世話になるのに、何もしないではダメですから。私一応、家事は一通りできるつもりです。慣れるまでご迷惑かけるかもですけど、精一杯がんばりますので」

 一生懸命そう伝えてくれるけど、その間、いおくんからの反応は一切ない。てきぱきとお皿を片付けていた両手も、石のように固まっている。

 「まずいまずい」

 誰かの呟きを合図に、自分達は立ち上がりかけた。都合の悪いことに、隣り合って立っていた二人の距離を取ろうと試みる。
 けれども、一瞬遅かった。

 「まさか……それが狙いだったの……?」

 いおくんが、ゆらりと顔を上げた。
 その表情を見てしまったあかりさんが、どんぐりみたいに目を丸くする。

 「信じらんない……これでまた一人ぶんの、それも女の子とかいう新鮮な負荷が増えると思ってずっとワクワクしてたのに、こともあろうに家事をやらせろ? それ本気で言ってるの? ……依央利ヒステリックーー!!!!」

 いおくんが爆発した。
「うわあ、止めろ〜」と皆さんが止めにかかる。それでもいおくんは怯まない。その手にいつの間にやら握られた契約書を振り回し、わあわあと叫んでいる。

 「絶対許さない! うちの奴隷は僕一人で十分! そうだ、この子も契約しちゃえばいいんだ! ホラあかりさん、ここに押して! 大丈夫、拇印でいいから!」
 「未成年によくわからん契約させるな!」

 ツッコミながらテラさんがあかりさんを引っ張ってきて、自分の後ろに押し隠した。

 「がんばれ保護者!」
 「しっかりしろ保護者!」
 「えっ!? う、ぅええぇぇ……!?」

 皆さんの制止を振り切り、いおくんがこちらへと迫る。

 「あれぇ? 大瀬さん何してるんですか? さっそく保護者面? ってかちょうどいいや、あなたも契約まだですよね? 二人まとめてわからせてあげますよ」
 「うっ、ううぅぅぅぅ……!」

 いつもながら尋常じゃない圧に、思わずバイブレーションする自分。その頬に、いおくんは二枚の契約書をぎゅうぎゅうと押しつける。いつの間に増やしたんだ。
 逃げたい。けど、そういうわけにもいかない。ここで自分が逃げてしまったら、正式入居初日にあかりさんがなんだかよくわからない契約を結ばされてしまう。未成年なのに。
 契約を。嫌です。契約を。嫌です。契約を…………。


 そんなトンチキ攻防がしばらくの間続いた。

 あかりさんはというと、自分の後ろで終始目を白黒させていた。当然だ、本来なら喜ばれるであろう申し出を、何かよくわからない理由で猛然と突っぱねられたのだから。

 結局、あかりさんは家事をしないことになった。それならせめて自分のことは自分でと食い下がってもいたけれど、それも却下されていた。こっそりやればいいよと口添えしたら、聞こえていたのかいおくんに凄い目を向けられた。

 それじゃあ、自分は何をすれば。戸惑うあかりさんに、理解さんがきっぱりとした口調で告げた。

 「学生の本分は勉強でしょう」

 その言葉を聞いた瞬間の、愕然とした表情。本当に申し訳ないけれど、自分は少し笑ってしまった。

 大騒ぎな一日になったけれど、かえってこのくらいが良かったのかもしれない。
 何にせよ、自分はこっそりと願う。

 仲良くしてくれるといいな。


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