などと言ってはみたものの、それから数日の間、自分はそのときのことを思い出しては震えと冷や汗が止まらなかった。
 湊大瀬(21)、初めての啖呵。死にたい。


 あの後、無言で見つめ合う自分と理解さんを、そっと執り成してくれたのはいおくんだった。

 「ま、まあ、二人とも……いったん落ち着こうよ。思うに、今すぐどうこうしなくてもいいんじゃないかな? 本人が寝込んじゃったから、ご自宅には連絡のしようがないし。まずはあの子の体調が落ち着くのを待って……警察とか、そういうところに相談するにしてもさ、経緯を話せばきっとわかってくれる……よね?」

 ただ、後半はいおくんも自信なげだった。言いつつ、ほかの皆さんに目配せしてみるもテラさんは「知らんけど」、猿川さんからは「大丈夫じゃねーの?」といい加減な返事しかなかった。ふみやさん、天彦さんは黙って、それぞれに何か考えているように見えた。

 「……わかりました」

 声がして、ハッとする。同時に袖を掴んでいた手もやんわりと解かれ、自分は理解さんのほうを見上げた。

 「確かに、今すぐ駆け込んでも本人があの状態ではどうしようもない。依央利さんの言うとおり、まずは彼女の回復を待ちましょう。……けれども、大瀬くん」

 理解さんの瞳が、つと自分へと向けられた。眼鏡の奥のそのかがやきはいつものとおり知的で理性的で、けれども寄せられた眉間のしわには、自分にもわかる、少しの心配がにじんでいた。

 「君は責任を取ると言ったが。いつも言っているように、ここは共同生活の場だ。……そういうことは、君だけが負っていいものじゃない」
 「……理解さ、」
 「少し、疲れました。部屋で休んできます」

 また伸ばしかけた手は、今度は彼に届かなかった。理解さんは自分と、それから皆からもふいと目を背けると、そのまま静かにリビングを後にした。

 残されたのは、しばしの静けさ。
 呆然と、理解さんが去っていった扉のほうを見つめる自分に、いおくんがまた声をかけてくれた。

 「……大瀬さん。僕は、大瀬さんの行動、間違ってないと思うよ」

 呆けたまま言葉の出てこない自分だったけど、気にせず彼は続ける。

 「だって、こんな日に、あんな格好でひとりでいる子、ほっといていいわけないもん。だから、なんだろ……たぶん理解くんも、そこはわかってくれてるよ」

 しゅんと垂れ下がる眉尻が、なんだか自分の代わりにそうしてくれているように見えた。そんなこと思う資格なんてないのに、心のどこかではすこしだけ救われて。
 それなのにそのときの自分は、「ごめんなさい」も「ありがとう」も、返すことができなかった。


 そのあと、自分は一日、部屋に引きこもって過ごした。とてもじゃないけれど、皆さんに顔向けできなかった。それでも彼女の様子だけはどうしても気がかりで、見つからないよう、隙を見て隣室の扉をほんの少し開けて覗き込んでみた。

 何もない、殺風景な部屋に敷かれた布団の上で、彼女は昏々と眠り続けていた。

 ***
 
 結局、彼女が目を覚ましたのはその翌日のことだった。時刻は夕方近くなっていたけれど、そのときには、心配されていた熱も落ち着いていた。
 けれども、安心したのも束の間。今度はまた別な不調が彼女の身に現れた。どういうわけか、身体に上手く力が入らないと言うのだ。
 いったい何が起きているのかは、彼女自身にもわからないようだった。どこか普段と違う苦痛や不快感があるわけでもない。それなのに、起き上がってしばらくもすると、力尽きたように動けなくなってしまう。そのせいで、家の中を動き回るのも難しかった。
 実際その日、部屋から出て、階段手前でくずおれてしまう彼女を自分も目の当たりにした。まさに糸が切れたように、といった唐突さで、慌てて駆け寄って覗き込むと、彼女は目を白黒させて、自らの手足を呆然と眺めていた。

 そんな彼女をいおくんは心配して、一度だけ、往診の先生を呼んでくれた。いおくんが商店街で懇意にしている老先生で、事情を説明すると、いおくんの頼みならと何も言わず引き受けてくれたらしい。めちゃめちゃ話のわかる、いい人だ。

 そのときいおくんは仕事に出ていたため、僭越ながら自分が対応させてもらった。診察を終え、部屋から出てきた先生に話を聞くと、先生は「うーん」と首を捻った。丸い顎に丸い眼鏡、その上の丸い禿頭をつるつると撫でながら、すこし難しい顔をする。

 「本人の言うとおり、症状以外どこも異常はなさそうだ。至って健康。しかし、えらく疲れとるふうにも見えるね。神経からくるものとも考えられるけど……そこまでは検査してみんことには、なんとも」
 「そう、ですか……」
 「まあ、食事は摂れとるようだから、もうしばらく休ませて様子を見てやってください。何かあれば、いつでも呼んで」

 依央利くんにもよろしく。そう言って、先生は大きな往診鞄片手に、来たときと同じように軽く帽子を上げつつうちを去っていった。自分は深々と頭を下げその背を見送り、やがて足音も聞こえなくなる頃、ようやく玄関の内へと引き返した。

 靴を脱いで上がると、ひとまず、彼女の使う部屋へと向かった。扉の前に立ち、ノックする直前で少し迷ったけど、えい、と思い切って手を動かした。まだ、起きているだろうか。
 木製のそれを叩く硬い音が二度響いて、ややあって、小さく返事する声が聞こえた。

 部屋の中に入ると、彼女は布団の上で半身を起こしていた。照明はつけておらず、窓から差す冬の陽光が妙に白々しい。
 元々使われていなかったそこに、床を延べただけの空間。枕元には彼女のために用意された日用品が、ホームセンターなんかでよく見る半透明な収納ボックスに入れてぽつんと置かれている。まだあまり使用感のないそれはこの風景の中やけに浮いて見えて、自分はふと、理由のわからない寂しさを感じた。

 それでも彼女は、自分のほうを見てすこし微笑みをうかべる。

 「……えと。お医者さん、帰りましたか?」

 そう尋ねて首を傾げる彼女に、自分はハッとして、慌てて頷いた。

 「あっ、はい。ついさっき」
 「すみません、わざわざ。呼んでもらっちゃって……」
 「いえ、自分でなく、いおく……依央利くんが」
 「そうだったんですか。でも、ありがとうございます」

 ニコニコとして見せる彼女。けれどもその目元に薄く差したクマに、自分はそのとき初めて気がついた。
 『えらく疲れとるように見える』。先生の話を思い出すけれど、なんと声をかけていいかわからず、言葉に詰まる。

 そういえば、時計の針はそろそろ正午を打ちそうだった。それだ、と思い、自分はまた口を開く。

 「……あの、お腹空いてませんか? そろそろお昼だから、よかったら、何か作ります。……その、自分なんかが作ったものでよければ、ですけど……」

 そう聞いてみると、彼女は、今度は心底済まなそうな顔をした。

 「……すみません。お世話おかけします」
 「っいえ、そんな。むしろこのくらいしかできなくて……でき上がったらまた、ここに持ってきます」

 そうして、自分はいそいそと部屋を出ようとした。あまり長く、話していないほうがいいように思えたから。
 けれどもそんな自分を、彼女の声がふいに追いかけて引き留めた。

 「あ、あの。大瀬さん」

 名前を呼ばれた瞬間、なぜか心臓が思い切り跳ねた。
 そのことにまたびっくりして、動悸は続けざまに打ち始める。何だこれ。
 戸惑いながらも、変に思われないよう努めて平静を装って自分は振り返った。装えていたかどうか、甚だ自信はなかったけど。
 自分が振り返ると、彼女は一瞬ひるんだように口を閉ざした。けれどもすぐ、今度は奮い立つように視線を上向ける。澄んだ瞳がまっすぐにこちらを捉えて、自分の心臓は落ち着く気配もしなかった。

 「その……こないだ、声をかけてくれたとき」
 「へっ? あ、はいっ」
 「カメラ、持ってましたよね」
 「カメラ……」

 言われて、自分は必死で、鳴り止まない鼓動から彼女の話の内容へと意識の矢印を移す。
 カメラ。うん、持っていた。あのときは、最初は、写真を撮りにいこうと思って外に出たから。
 そんな自分の思考を読んだように、彼女は続けた。

 「謝らなきゃって、思ってて……ほんとは、写真撮りにいくつもりだったんですよね? 私がいたせいで行けなくなっちゃって……ごめんなさい。せっかく雪、きれいに積もってたのに……」

 言ってから、彼女は少し目を伏せた。その視線がわずかにずれて、彼女の左手に面した窓のほうを指す。
 縦に長い方形に切り取られたそこには、澄んだ薄水色の空が見えていた。寒波とともに雪雲も過ぎ去り、昨日の午後からは穏やかな陽射しも降り注いでいる。
 言われてみれば、と自分は思う。先生を見送りに外へ出たとき、敷石の上に積もった雪は粗方とけて水たまりになっていた。土の地面や芝の上には、まだいくらかかたまりが残っていたようだけど。

 それよりも、君を見つけることができてよかった。

 「……気にしないでください。雪ならまた、見られますから」

 浮かんだ思いを寸でのところで飲み込み、自分は代わりの言葉を口にする。それを彼女に悟られやしないか、ひやひやしながら。
 彼女はそっと顔を上げ、数度まばたきした。こちらの様子を窺うようだったその表情が、やがて少しずつ晴れていく。

 「ありがとう、ございます……」

 控え目に覗かせてくれた笑顔は、雪の下から顔を出す小さな花のようだった。

 そうして自分は部屋を後にし、無人のキッチンに立ち、そこでまた思い出したように冷や汗を垂れ流した。

 ***

 翌日の午後。彼女をうちへ招き入れてから、既に五日が経過していた。
 三日前からどこかへ出かけていて、ちょうど帰宅したふみやさんに、自分は呼び止められた。

 「大瀬、ちょっといいか。話がある」

 その言葉に、いまだ寝込む彼女の部屋から下げた膳を取り落としそうになる。危うくも持ちこたえ、けれども震える両手のまま自分は返事した。

 「そうでしたか。すみません、死にます」
 「まだ何も言ってないし、そういう話じゃないよ」

 何が面白いのかふみやさんはほんのりと笑い、そして続けた。

 「あの子の話。調べがついたんだ」


 ダイニングテーブルで向かいに座ったふみやさんは、砂糖たっぷりのコーヒーに口をつけながら切り出した。

 「結論から言うと、何も出てこなかった」

 自分はぽかんとする。だらしなく開いた口から、「へ」と息が漏れた。

 「あの……調べがついたって」
 「うん。何もわからない、って結果で調べがついた」
 「はぁ……」

 そういうこと、と呆けたように頷く。そんなこちらの様子には頓着せず、ふみやさんは「面白いよ」と呟きマグカップをテーブルに置いた。

 自分の言えたことではないけれど、ふみやさんは表情の変化に乏しい。けれどもそのときの彼の微笑、そして自分へ向け語る声音には、普段あまり見ることのない愉悦の色がうかがえた。

 「調べたっていうのは、まあ、あの子が何者なのかってとこなんだけど」

 そう前置く。

 「俺も、大瀬も、誰だってそうだけど。生きてる限り、どこかに何等かの痕跡が残る。記録だったり記憶だったり、形やそれの有無はいろいろあるけど。本人がどんなに上手く隠したところで、見つかるところからは見つかるもんなんだ」

 その言葉に、自分はあいまいに頷く。なんだか計り知れない話だ。

 「そういうものなんですか……でも、すごいですね。そんなこといったい、どうやって……?」
 「ん? ああ。それは内緒」
 「え……」

 そう言って、すこし笑うふみやさん。自分はまたアホのように口を半開きにした。

 「まあ、いろいろなあれがあるんだよ」

 いろいろなあれがあるらしい。いろいろなあれ。
 自分は「へぇ……」と頷きながら、それ以上深く立ち入らないことに決めた。というか、立ち入れるところではないと判断した。
 ふみやさんは続ける。

 「素性を調べるだけなら、まる一日もあればだいたいのことはわかる。けど、あの子についてはそれだけじゃ何も出てこなかった。だからもうちょっと突っ込んで探ってみた。それでこんなに時間かかっちゃったんだけどさ」

 そうして、すこし肩をすくめて見せた。

 「けど、結局何もわからなかった。収穫ゼロ。まったくの白紙」
 「白紙……」
 「戸籍がないとか、その程度の話じゃなかった。あの子は、存在すらしていない。少なくともこの国には、どこにも。何もないところからいきなり現れて、それで今、うちに転がり込んでる」

 聞きながら、考えて、けれども自分は何と反応していいかわからなかった。想像がつかなかった。戸籍も何もなく、ふみやさんのいろいろなあれをもってしてもわからない子。無から突然、生まれ出たような子。

 それでは、と自分は思う。
 それでは、あの日。あの雪の降る日。

 凍えるような白に身を震わせながら、あの子はあの場所で、初めて息をしたとでも言うのだろうか。

 ふみやさんの唇が、またゆるく弧を描いた。

 「面白いの拾ったな。大瀬」

 その言葉の意味は、自分の頭には入ってこなかった。


 「……そういうわけだから。心配いらないよ」
 「えっ……心配って」
 「ほら、あれ。警察にどうこう言ってたの」
 「あ……」

 言われて、自分はまた思い出す。あの日のリビングでの会話を。
 いや、ここ数日、ふとした瞬間にフラッシュバックしてはぐるぐると自分のカスほどもない脳ミソをかき回していたものなのだけれど。

 「理解が言いたかったのってたぶん、捜索願出されてたらマズいって話だよな」
 「え……えっと……それもあると思いますが……」
 「存在しない人間の捜索願は出せないよ。実際、出されてなかった。調査と並行してそっちも見張ってたけど、出される気配もなかった」

 そんなことまで、と自分はまた驚く。けれども、もうそのことについては触れないでおいた。きっとそれもいろいろなあれであれした結果、わかったことなのだろう。

 「そういうわけだから。あの子が自分でどっか駆け込みでもしない限り、俺たちもどうこうなることはないと思う。よかったな」
 「よかった……と言っていいのでしょうか……」
 「いいだろ」

 今日の夜、皆にも同じ話をする。
 そう言って、ふみやさんは席を立った。いちばん心配しているであろう理解さんには、それより前に別個に話しておくと言い添えて。


 やはりどこか楽しげに映るふみやさんを見送り、自分はひとりリビングに残って考え込んだ。
 彼女の身の上について。

 いつ、どこから、どうしてこの家に来たのか、何もわからない少女。
 あれから数日経つけれど、そのことに関しては口を閉ざし、また、どうやら彼女自身からも記憶は一部抜け落ちたまま。
 そして、ふみやさんによって明らかにされた「何もない」彼女の来し方。

 何もない。存在しない。
 誰にも知られず、探されることのないこども。

 ふと、息が苦しくなった。

 「……いつか、聞かせてくれるのかな」

 吐息とともに呟いて、自分はむりやり、呼吸を継いだ。


 その日の夜、自分たち七人は改めて話し合いの場を設けた。
 言の通り、まず、ふみやさんからの報告があり、その内容を聞いた皆さんはそれぞれに驚いた表情を浮かべていた。
 ただ、理解さんと、それから天彦さんの反応は少し違った。
 もしかしたら天彦さんも、ふみやさんの調査に一役買って出てくれたのかもしれない。どこかつらそうに眉を顰める彼を見て、自分はなんとなく、そんなことを想像した。

 そして、行き場のない彼女を当面この家に受け入れることで、自分たちの意見は一致した。


 「主な保護者は、大瀬、お前でいいよな」

 ふみやさんがさらっと言った。
 自分はたっぷりの間を置いて、そして口を開く。

 「…………へっ?」
 「まあ〜オバケくんが連れてきたんだから、当然だよね」
 「なんと、大瀬さんが保護者に……セクシー記念日!」
 「代わってあげようか? って言いたいところだけど……こればっかりはしょうがないかぁ」
 「がんばれよー」
 「えっ、あのっ、えっ、えっ」

 当然のごとくうろたえる自分だったけど、

 「……大瀬くん」

 その声で名前を呼ばれた瞬間、背中にぴんと筋が通った。

 顔を向けると、皆が座ったダイニングテーブルのはす向かいから、理解さんがこちらをじっと見つめていた。

 「……」

 理解さんは口を開きかけ、一度閉じた。何か考えるように少しだけ目を伏せ、やがてまた、まっすぐ自分の目を見て言った。

 「……我々も、見守るから。よろしく頼みます」

 自分は息を飲んだ。
 と同時に、この数日張りつめていた何かの糸がふっとゆるみ、目頭に熱が込み上げてきた。まずい。そう思い、咄嗟に息を詰める。やがてなんとかそれをやり過ごした頃、自分は理解さん、それから皆さんにも向けて、しっかりと頷いた。

 「…………はぃ……」

 つもりだったのに、鼻から抜けたようなその返事の情けなさときたら。

 誰かが小さくついたため息が、静かで暖かな夜のリビングに、ふわりととけて消えていった。

2023.06.25 修正




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