voice
生茂る木々のひとつが頬を擦り、傷口から生温い液体が流れ出すのを気にもかけずソヌは仲間の背中をただひたすらに追いかけていた。深い霧が視界を覆い、雨上がりの地面は疲労した体をさらに重くする。
――怖い。
そう思えば思うほど、恐怖の感情は増幅していった。仲間の荒い息遣いと落ち葉を踏む音が聴覚を支配し、己の心臓は喉のあたりで鳴っているかのように大きく鼓動している。苦しさで顔が歪んでも、足を止めることは決して許されなかった。走れ、走れ、走り続けろ。脱走を決行する時に仲間と交わした会話に何度も出てきた言葉だ。けれども一番後ろを走るソヌは不安だった。誰かが捕まってしまう時、きっとそれは自分だという考えが頭に浮かんで消えてくれない。
「止まりなさい!」
施設の職員たちの声が背中に届いた。白い懐中電灯の光が7人の少年の背中を照らし、その光で初めてすぐ後ろを追われているという事実に気づく。作戦を話し合う場では、捕まってしまった時のことを話さなかった。みんな心の底では恐れていたはずだが、絶対にうまくいくという安心を得たくて誰も言及しようとしなかったのだ。
「止まりなさい。君たちの安全は保証する!」
その言葉が嘘まみれだと全員がわかっていた。戻れば待っているのは残酷な人体実験。7人の実験体は、私欲にまみれた大人たちによっておもちゃにされ、やがて捨てられてしまうことくらい10代の自分たちにも察しがついた。もっと未来が見たいという想いを諦めたくない。だからこそ少年たちは危険を冒し施設を脱走すると決めたのだった。施設を抜け出したら森を抜け、人間界に紛れて暮らしていこうなんて夢のような日々を何度も思い描いた。簡単なことではないとわかっているが、それでも少年たちは生きる道を選んだ。みんなで、7人で――。不安と戦いながらも、ソヌはその希望を捨てなかった……追手の一人に、その腕を掴まれるまでは……。
幼い頃から体の弱いソヌは、仲間の中では一番体力がなかった。濃い霧のせいで自分が仲間と離れてしまっていることに気づけたのも腕を掴まれてからのことだ。
「離してっ……!」
どんなにもがこうが、いくつもの腕が蛇のようにソヌの細い体を固定した。職員たちの怒号が鼓膜をつんざき、ソヌの助けを求める声をもかき消してしまう。恐怖が涙となって溢れ出し、頬の傷口に染み込んだ。
――ぼくは、だめだったみたい。
伸ばした手はただ何もない空間を彷徨うばかり。麻袋がかぶされ、ソヌは完全に光を失った。
* * *
どれくらい歩いただろうか。少なくとも山をひとつは越えている。もう自分が住み慣れた森の風景ではなかった。風が通るたび、焼けた背中に木の葉が擦れて痛みが走る。先ほどまで降っていた雨で濡れているからか余計に傷が疼いた。腕や脇腹にもまだ血が滲みでてくるような切り傷が浮き出てジリジリと体を蝕んでいく。全て、家族だと思っていた人々から受けた痛みだ。
ごく最近までは普通だった。それどころか身体能力の高さを頼られてよく狩りの助っ人に出ていた。俺みたいな若い年齢で狩りに出してもらえるのは珍しく、誰からも将来を期待され愛されている気がした。それがなんだ。俺が半分エルフで、もう半分は人間だからって。
最初はただ成長が遅いだけなのだと思っていた。しかし何年経っても、俺の見た目は人間だった。手足は長かったし視力だってよかった。身長も申し分ない。それどころか村の若い連中より幾分が恵まれた体格だったと自覚している。それでも奴らにはあって俺にはないものがあった。
青い瞳と、尖った耳――
種族の象徴ともいえるものが、俺だけにはなかったのだ。水面に映る深いグレーの瞳を何度も確認したり、丸みを帯びた耳を手で触って確認したりしてきた。よくしてくれた村のエルフたちも、時が経つにつれ疑いの目を向けるようになり、知らぬ間に行われた村の長たちの会議により俺は裁判にかけられることになった。単純な裁判だ。背中を火であぶり、エルフが持つ魔力で自分を治療できれば俺は同族として認められ、できなければ村から追放されるという原始的な方法だ。裁判というよりも、エルフだと証明させる儀式だと言ったほうがよほど正確だと思った。
手足を縄で固定され焚き火の前に座らされた俺の周りを村のエルフたちがが囲んだ。無数の視線が背中に刺さる中、村の長老の喉の奥から絞り出す掠れ声がこだまする。それが開廷の合図だった。松明を持った長老が焚き火から炎を移し、聖なる炎と謳われたそれを宿した松明が、己の背中にかざされる。瞬間、背骨に衝撃が走った。長老は松明を強く打ち付け、俺を殺そうとする勢いで押し付けてきたのだ。文字通り焼けるような痛みと怒りが俺を呑み込み、苦痛は悲鳴となって現れた。どうしてそんな。いつだって未完全なお互いを助け合って生きてきたじゃないか。俺は、半分だけだけど、それでもここで育ったエルフなのに――。俺は――
――俺は、だめだったみたいだ。
ただ木材を燃やしているときとは違う音がした。燃えていると同時に溶けていう音。暴れる俺を村人はどんな気持ちで見ているのだろう。思わず松明を落として俺を見下ろす長老の表情に、その答えは書いていた。対象に心の底から恐怖し、憎悪をむき出しにして隠さない。そんな表情を村の全員がしていた。その光景を目の当たりにしたとき、俺はもう家族の絆だとか今まで交わした約束だとかそんなもののすべてがどうでもよくなった。こんな奴らと俺はやはり同じじゃない。落ちた松明の炎で縄を焼き、解放された足で俺は森に向かって歩きだした。それを止める者は、誰一人としていなかった。
そうやって俺はあの村で生きるのを辞めた。追い出されたと言っても出ていったと言っても正しい。背中の焼け跡は二度と元に戻ることはないだろう。行く宛もないまま、俺はただ目の前の道なき道を歩むしかなかった。
太陽が沈んで月が夜を照らし始めてから数時間が経った。霧がたつ辺りは真っ暗で、森が一層深くなっているのを感じる。そんな中で、不自然に灯る人工的な光が薄く見えたような気がした。いや、確かに薄紅の光がゆらゆらとこちらを手招きしている。一歩、一歩、踏まれた落ち葉が足元で崩れて風に攫われていった。あそこなら寝床も食べ物もあるかもしれない。重い空気を纏う洋館へと足を進める。近くにつれ、館の姿がはっきりと映り始めたが、建物を囲む壁の背後についてしまったらしく、正面の入り口へと回らないといけないらしい。
「くそ! 暴れるな!」
「離し、て…痛い……っ!」
「静かにしろ!!」
突然、人間の声がした。声の違いからして3人。まさに今から向かおうとするこの壁の裏、入り口側の方だ。壁を背に覗いでみると、複数の懐中電灯がチラチラと目を刺激した。目を凝らし確認すると、正門の鍵を開ける男と、さらにもう一人の大男に羽交い締めにされた青年の姿があった。暴れ回って被された麻袋が半分脱げている。一体どういう状況なんだ。青年の顔はよく見えないが、たくさん涙を流しているからか目元が赤く腫れているのが見えた。
思考を巡らせる。平穏に済ませたければ、俺は今すぐここを立ち去るべきだ。どう考えてもこの状況は関わって得のある現場だとは思えない。俺は半分はエルフだ。もうしばらく食事なんか取らなくても生きてはいける。こんな館でなくても、どこかにもう使われていない山小屋くらいあるかもしれない。……やはり立ち去るべきだ。目を逸らそうとして、その瞬間に俺の体は固まった。
青年の前髪の隙間から覗いた眼光が、それをまっすぐ見つめる己の視線とはっきりと交わったのだ。青年は一瞬目を見開き、そして声にならない声で俺に訴えかけた。
――助けて。
確かにそう聞こえた。厳密には声が届いたわけではないが、あれは紛れもなく俺に向けた縋りの表情だ。そう感じさせるほどの迫力を帯びた強靭な糸が俺の体を縛り付けている。動けないでいる間にも青年は再び麻袋を被され、男たちに館の中へと引きずられてしまった。先ほどまで立ち去ることばかり考えていたはずが、もはや俺はその後を追うしか選択肢はなく、館の高い窓から漏れるわずかな光を頼りに入り口を目指しはじめていた。辿り着いたのは小さいが重い鉄製のドア。まるでここから出ることを想定していない、いや許されていないような厳重な作りだ。何か事情があるのか、幸いにも鍵はかかっていなかった。音を立てないようにゆっくりドアを押し、洋館へと繋がる足場の悪い道を進んでいく。雑な作りの外壁とは異なり、その中にそびえ立つ館は呼吸が苦しいと錯覚させるほどの威厳と、美しい造形が故の妙な恐怖を感じさせた。
中に入ると木造の床が少し軋み、天井のシャンデリアの灯りが不気味に揺れた。少し奥へと進んだ場所はひらけたホールへと繋がり、そこから三方向へと廊下が続いていく。自分以外にヒトの気配はない。あの青年はどこへ連れ去られたんだ。さらに俺を混乱させたのは、一度だけ降りたことがある人間の街で嗅いだ医薬品のような匂いだった。そしてそれに混ざる、錆びた鉄の匂い。俺は儀式の日の口の中に広がる血の味を思い出した。この匂いを辿れば、きっとそこに誰かがいるはずだ。
人間よりも多少利く臭覚を集中させ少しずつ廊下を進んでいくと、赤い絨毯の部屋へと辿り着いた。ただしその絨毯は捲れており、わずかな光が見える地下への階段が剥き出しになっている。そして館に入って初めて感じるヒトの気配。気づかれないよう慎重に階段を降りる。下はまたも暗い廊下に繋がっており、そこを進んだ突き当たりに小窓のついたドアがあった。少し開いている。身をかがめ、ドアの隙間からそっと中の様子を確認した。
いた。先程の青年と、男が二人。
「他の連中はどこへ行った? おとなしく吐けばすぐにその縄を解いてやろう」
「そもそもこの森は複雑で脱走なんて無駄だ。ここへ戻ってきたほうが住む場所も食べるものもあるんだぞ」
「…………」
「まだ黙るか!!」
男の怒号と鈍い平手打ちの音。太い縄で椅子に縛りつけられた青年の頬が赤く腫れ、目には涙が溜まって充血している。その目は信頼していた大人に裏切られた悲しみと怒りに支配されていた。
まるで数日前の自分を見ているようだった。
固く結ばれた唇から滲み出た赤の血が俺をここまで連れてきたのだ。なんとかして彼を助けたいという想いがさらに強くなっていく。
男たちが怒鳴る。その隙に侵入し、床に落ちていたおそらく拷問用の木の棍棒を拾い上げて力の限り振り下ろした。頭に打撃を受けた一人はそのまま倒れて動かなくなり、さらにもう一人が状況を正しく掴めずに俺を殴りかかろうとするのを避け、足を蹴り上げて床に叩きつける。そして頭に一撃。生々しい感触が手に伝わり、気色悪くなった俺は思わず棍棒を投げ捨てた。まだ生きているのか死んでしまったのかを確認することは俺にはできなかった。とにかく早くここから逃げなくては。
青年はぐったりしていた。手足を解放すると、やっと顔を上げて俺の顔を真っ直ぐ見つめてくる。初めて近くで見る青年は美しかった。黒い前髪から見える切れ長の目と高い鼻筋、透き通るような白い肌に浮かぶ赤い唇は思わず触りたくなるほど扇情的で、体内からふつふつと湧き上がる熱がやがて己の喉奥を締めて息を詰まらせた。
数秒間見つめ合う。その数秒の間に、彼はたくさんの涙を流した。
「大丈夫だ。一緒に行こう」
慌ててその頬に流れる涙を拭った。優しく触れないと壊れそうだった。俺の言葉に彼は大きく頷き、そして涙を流しながらも少し笑った。力が抜け、もうほとんど歩けない体を背中に預けるよう促す。破れた服から見える痛々しい火傷痕に少し動揺する青年だったが、俺が屈んだ姿勢のまま待っているとおとなしく首に腕が回ってきた。ここ数日何も食べていない俺自身も弱ってはいるが、それでも戸惑うほど軽い体だった。
地下の部屋を抜け、ヒトの気配のないうちに来た道を戻っていく。そういえば村を追い出されてからは下ばかりを見ていた。見上げれば夜空には美しい星たちが輝き、俺たち二人を優しく照らしている。美しい星たちに夢中になっていると、ふと耳元でか細い声が耳にかかった。
「ぼくはソヌ……あなたは?」
すぐ近くに感じる体温。俺は自分の名前を思い出すのに必死なった。
「……ユリだ」
「ユリ…。ありがとう、ユリ……」
小さいけど、優しくて繊細な声だ。初めて聞くその声を、俺は少しも聞き逃したくないとそう思った。
ソヌはそのまま俺の肩に顔を埋め、静かに眠りに落ちた。彼が眠ったのをいいことに、何度もその名前を声にしてみる。ソヌの体と触れ合っているはずの、背中にある火傷の痛みを忘れさてくれるような心地のいい響きだ。もしソヌが俺の新しい家族になってくれたらどんなにいいだろうか。まだ互いを全く知らぬ二人でも、一緒にいると心が暖かくなるような、幸せの予感がそこにはあった。
服
背中痛くない
科学と論理が僕の味方ですよ
村一番の弓使いだった父は狩りの際、森に迷い込んだ人間の母と恋に落ち、やがて俺はこの世に生を受けた。母は俺を生んでまもなく力つき、悲しみにくれる父はそれでも俺を懸命に育ててくれた。その父も数年前に若くして病に冒されて母の元へ逝った。父が狩りを教えてくれたおかげで俺は村でもそれなりの立場を築けていた。