truth



 日光が反射して煌く水面の上に浮かぶ小舟。風を感じながらゆっくり進む船にソヌは乗っていた。水平線の向こうにはまだ昇ったばかりの太陽が顔を出している。自分のほかにもう一人、その人物は両腕を大きく動かし船を漕いでいた。太陽の逆光でなかなか顔がはっきりしない。眩しくてよく見えなくとも、なんとなくその人物から温かな気持ちを感じとることを不思議に思った。この人は、誰だろう。それでぼくたちは、どこに向かっているのかな。どこに……。


* * *


 目を覚ましてまず見えたものは色褪せた木造の天井だった。まだあの淡い夢を見ている感覚から抜け出せず、頭を覚醒させるために数回瞬きをする。雲の上を歩くような、七色の虹を掴むような、幻想的で不思議な夢だった。

「あぁ、起きたか」

 低いテノールの声のする方向に顔を向けると、ぼくの寝ているベッドに腰掛けてその様子を伺っている人物がいた。

「あの、えっと……」

 自分より体格の大きい相手に、反射的に距離をとってしまう。途切れ途切れの記憶を整理しようと頭を回転させようにも、寝起きの朦朧とした意識のせいでうまくできない。それどころか、あの瞳……まじまじとこちらを見つめてくる深いグレーの瞳に支配されそうだ。

「きれい……」

 無意識のうちに溢れた自分の言葉に驚き、慌てて口を覆う。初対面の人にいきなりきれいだなんて言うのは距離が近すぎるってば。心の中であーだこーだと独り言を呟いていると、目の前の人物は困ったように笑ってみせた。その笑顔がなんだか優しくて、夢の中で感じた安心感を思い出す。

「何日か眠っていたからな……混乱しても無理もない。俺はユリだ……何か思い出せるか?」
「……ユリ……さ、ん」

 ……思い出した。ぼくはあの神秘的な瞳を一度近くで見たことがある。施設の地下部屋、たったひとつのぼんやりとした電球のもとで、この人はぼくを助けてくれたんだ。

「あの、助けてくれてありがとうございます。ほんとに……なんてお礼をしたらいいか」
「お礼なんていいさ。それに、そんなに硬くならなくても……俺たち、同じくらいの年齢なんじゃないか?」

 聞くとユリさんは18歳で、ぼくよりひとつ年上だった。敬語を使われることに慣れていなさそうな様子で、ぼくには気軽に”ユリ”と呼んでほしいと少し伸びた襟足を撫でている。

「そういえば、ここは……」
「あぁ、ここは昨日見つけた小屋だ。おそらく人間が使っていたけど、壁や天井の痛み具合からしてかなり前から放置されているものだと思う。それまでは何日かは適当な洞窟で凌いでいたけど、ごめんな……ちゃんとしたところに寝かせてあげられなくて」
「え? じゃあこの小屋を見つけるまでずっとぼくをおんぶしながら森の中を歩いてたってこと……?」

 途端に申し訳なさが募っていく。ぼくは命を助けてもらった上、この数日はずっとユリの背中で眠ったままだったって。施設の人たちに殴られたところも腫れが引いてて体がどこも痛くない。頬や手にできた傷には絆創膏が丁寧に貼ってあった。

「あ、ごめん。あの地下の部屋に君の荷物があって、必要なものは勝手に使ってしまったんだ。そのブランケットとか絆創膏とか、水筒に入っていた水も眠っている間に少し飲ませた。俺も少し飲んだよ、ありがとう」
「ありがとうを言うのはぼくの方だよ! 見ず知らずのぼくのために、本当にありがとう」

 ユリはまた襟足を撫でて伏し目がちに笑った。照れ隠しなのか、わかりやすい動作にぼくも思わず笑みが溢れ、今度は二人で笑い合った。でも半袖を着ているユリの腕には深い傷がたくさんあって、その半袖の服は背中が破れている。それで思い出す、あの火傷の痕。きっと最近できた新しい傷の数々に心が痛む。けれどその原因を聞くのはもしかするとユリに辛いことを思い出させるかもしれないと思って聞けなかった。

「すまない。これしか着るものがなくて」
「え?」
「俺の傷、ちょっと怖いよな。何か隠せるものを探してくるから」

 つい見すぎたのかユリに気を遣わせてしまったみたいだ。

「ご、ごめん! そんなつもりじゃないの……ただ、ユリも痛かったのにって思って」
「痛かった……そうだ、すごく痛かったな」

 ユリは弱々しく、無理に口角を上げてみせた。

「こんなことをソヌに話すのは変かもしれないけど、俺……実はハーフエルフなんだ。訳あって村を出ることになって、住む場所を探している時に偶然あの洋館を見つけたんだ」
「そう、だったの……」

 村を出たとだけユリは言ったけど、その辛そうな表情はもう二度とその村に戻ることはできないことを示していた。まだ踏み込んではいけない話なのかもしれない。ぼくは無理やり続きを聞くことはしなかった。

「そうだ、ぼくの服を使ってよ。予備のものがバッグに入ってるから」
「あのシャツ、俺が使ってもいいのか? 上等なやつなんじゃ……」
「いいからいいから、着てみてよ!」

 渋々立ち上がったユリはベッドのそばにあるバッグからぼくの白いシャツを取り出した。ぼくたちが毎日着ていた施設の制服のようなものだ。それを広げて少し眺めたあと、ユリはそのまま後ろ歩きで小屋の外へと出る。背中の火傷をぼくに見せないようにしてくれたのだと思うと、自分を犠牲にしてどこまでも優しい人なんだろうって胸の奥がきゅっと締め付けられた。

 それから数分するとユリが自信のなさそうな表情でドアから顔を覗かせてきた。

「どうしたの? 入ってきなよ」
「……笑わないでくれよ。こういうのは初めてなんだ」

 恐る恐るという足取りで入ってくるユリ。その風貌は貴族の息子といっても納得できるほど高貴に見えた。ファンタジー世界の妖精のような端正な顔立ちと恵まれた体格、横髪を耳にかける動作なんてとても様になっている。それなのに当の本人は視線を泳がせ、まったくぼくと目を合わせてくれないほど自信がないなんて。

「……ふふっ」
「俺、やっぱり着替えてくる」
「待って! 違うの。そんなに似合ってるのに自信なさげだから、つい……」
「…………」

 不満そうに眉をしかめるユリ。年齢の割に大人びているけど、意外と表情豊かなところ、ちょっとニキに似ているかもしれない。ニキ…みんな……。大丈夫、きっと無事に逃げられたはずだ。

「これ、ソヌの着てるのと一緒だな。あの施設みたいなとこの服か?」
「うん、そうだよ。ぼくたちは毎日これを着て生活してたんだ」
「ぼく、たち……?」
「えっと、その……」

 ユリに事情を話すべきだろうかと、ぼくはそこで言葉を詰まらせた。ぼくと関わってしまったことで、ユリも施設から狙われることになる。このまま何も知らせず、ぼくはユリと別れてみんなを探しに行ったほうがいいのかもしれない。ただでさえ危険を冒して僕を助けてくれたんだ。これ以上ユリを危険な目に遭ってほしくない。

「わかるさ。何か事情があるんだろ……いや、正直言うともう気づいているんだ」
「気づいてるって、なんのこと……?」

 灰色の瞳が、今度はぼくを真っ直ぐ見つめてくる。

「君は、ただの人間ではないんだろ」

 抑揚のないトーンが耳に伝わる。ユリの鋭い視線は全てを見透かすように光を反射させた。

「水を飲ませたときに見えたんだ。君の……」

 ―――ヴァンパイアの牙を。

 ぼくは無意識に舌でその箇所をなぞった。受け入れたくなくても存在する、未発達な牙。逃げられなくなったぼくは、もう全てを話してしまおうと決意した。ユリなら何も疑わずに信じてくれる確信がそこにはあった。

「そうだよ。ぼくはヴァンパイアなの。厳密には、まだ完全にそうだってわけじゃないけど」
「完全にって、どういうことだ?」
「ぼくは……ぼくたちはもともと人間なんだ」

 ヒス二ヒョン、ジェイヒョン、ソンフニヒョン、ジェイクヒョン、ぼく、ジョンウォン、それにニキ。ぼくたちは全員子供の頃から家族としてあの施設共に暮らしてきた。一緒にいると楽しい兄弟たちに優しい職員、美味しい食事に整った生活環境。その中で真実であったのは7人の絆だけだった。最初に外の世界の存在に気付いたのは一番年上のヒス二ヒョンだった。話によると15歳になったある日、地下に連れられて入らされた浴槽のある部屋の天井には見たこともない景色があったらしい。明るくて、眩しくて、少し熱を感じる、あれをヒョンは太陽だと言った。

 それから誰かが15歳の誕生日を迎えるたびに同じ景色を見た。ぼくも、あの眩い光を初めて浴びた日のことを覚えている。それからぼくたちは月に一回、決まって太陽が真上にある時間と満月の真夜中にあの部屋へと連れて行かれた。最初は全員が大人しく従っていたし、誰もその時間を疑問に思うことはなかった。ジョンウォンがシスターの話を偶然耳にするまでは。

「人体実験だって? ソヌと兄弟たちは、人間の子どもをヴァンパイアに変える実験体にされていたってことか。酷いことをする施設が存在するなんて」
「ぼくもジョンウォンから話を聞いたときは信じられなかった。だって大人の人たちはみんな優しかったし、毎日ぼくたちのことを気にかけてくれていたから……でもある日、ヒス二ヒョンに牙が生えてきたんだ」

 自分が自分でなくなる恐怖と戦うヒョンを見て、ぼくは信じたくない真実を受け入れるほかなかった。それからはずっと怯える毎日だった。このままでは全員がヴァンパイアにされてしまう。その後は? その後ぼくたちはどうされちゃうの? もし途中で失敗したら? いらなくなったら捨てられる? ぼくはずっとみんなと一緒にいたいのに。

 ―――逃げちゃおうよ、みんなでさ。

 最初にそう言ってくれたのは、一番年下のニキだった。

「でも、ぼくだけ捕まっちゃったんだ。ぼくはあまり体力がなくて……」
「それがあの夜だったのか」
「うん。だからユリは命の恩人なんだよ。ユリが現れなかったら、ぼくはもう諦めていたと思う」
「……もう大丈夫だ」

 初めて聞いたのも、その言葉だった。ユリの大きな手が優しく頬を包み、その指がぼくの目元を撫でた。話をしている間に泣いてしまっていたみたいだ。

「探そう」
「探すって……」
「口には出さないだけで、泣くほど心配だし会いたいんだろ……その兄弟たちにさ」

 ユリの言葉に、我慢していた涙がどんどん溢れ出していった。ぼくの唯一の家族で、唯一心から信頼できる兄弟たち。きっと無事に逃げられたと信じている。もしかしたら捕まってしまったぼくを助けに施設に戻っているかもしれない。そんなのはだめだ。なんとかしてぼくが大丈夫だってことを知らせないと。

「どうしても一人で探しに行きたいなら俺も止めはしないが、二人でいるほうが安全だろう」
「でも……ユリも狙われてるかも。ユリが傷ついたら、ぼくは自分を許せない」
「生憎俺の体はもう傷だらけだが」

 呆れたように笑うユリはもう一度ぼくの頬を優しく撫でた。温かい体温を感じ、ぼくはあの夢で船を漕いでくれたのはユリだったのだと気づく。ぼくたちはどこへ向かっているのか。その答えを見つけるには、二人でなくちゃいけないみたいだ。
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