邯鄲の夢/ピオぐだ

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じろり。白皙の美青年から氷の刃のごとき凍てついた視線が注がれる。哀れみひとつ掛ける気のない棘のある雰囲気に、しれず背筋が汗ばんだ。
彼がこのノウム・カルデアに現界してくれたのはもちろん嬉しいと思っている。本当だ。けれど怪我をするたびにこのような対応を受けるのはいささかハードというか、ぶっちゃけ恐ろしいというか。自分に非があると理解していても反射的に怖じ気づいてしまう。
この冷え冷えとした眼差しは某アグレッシヴ婦長を彷彿とさせるのだ。さすがに彼女みたいに問答無用で殴りかかってきたりはしないけれど、むしろ傷の程度によっては目の色を変えて真剣に診てくれたりもするけど。似たり寄ったりな|症例《ケース》が二度三度と続くと「そうか。そんなに病褥に磔にされたいのか。ハハッ上等だ、お望みどおりにしてやる」と物騒な顔つきで凄まれて、挙げ句の果てに本気で磔にしようと実力行使してくるので、そんな彼に「|また《圏》怪我をしました」と報告するのはなかなか……少なくとも胸が躍るような行為ではなく。というか自殺行為にも等しく。だから後々こっぴどく叱られると分かっていても二の足を踏んでしまうのは致し方ないといいますか。心を定める時間が、執行猶予が、情けが欲しいといいますか。
尤も。自己申告する前に血の臭いで勘付かれて、毎回こうして医務室まで強制連行されるのだけれど。
居た堪れない空気にそっと視線を逸らすと、しかしこちらの動作を見逃さなかった相手は目を眇めて顎をしゃくった。まるで『気に食わない』とでもおっしゃるかのようだ。ますます険しくなった眼光に寒々しさがより身近に迫った気がして、つと肩を縮めた。
重々しい嘆息が耳に届く。程なくして沈黙を破ったのは、まるきり反論の余地もない正論の頽瀾。
「お前は莫迦か? 莫迦なのか? 生憎と莫迦に付ける薬はないぞ。頭蓋を|切開《ひら》けばあるいは|不具合解消《リカバリ−》できる見込みもあるかもしれんが」
「はは……耳が痛いです」
「――何? どのように痛むんだ。差し込むような刺激か。疼くような疼痛か。頭や喉の痛みは伴っているか。他に違和感を覚えるような部位はあるか。もっと具体的に症状を述べろ。ああ、言わずもがな、お前は僕が訊いたことにだけ答えればいい。いいか、トチ狂っても誤魔化そうとするなよ。医者の問診には嘘偽りなく応えるのが患者の義務であり望ましい姿だ」
「!? 水を差すようですみませんが、アスクレピオス先生! 今のはただの比喩表現であって、実際に耳が痛むわけではなく!! 決して隠し事をしているとか体調不良を訴えているとかそういう話でもないので! 着席してもらえませんか!!」
新しい症例かと早口で捲し立てられた矢先に違う! と喝破するのは非常に心苦しいのだが、誤解と言わないまま話が進むと望まない展開になりそうなので先に弁明しておく。思ったとおり彼は面白くなさそうに露骨に眉を顰めたものの、こちらの言葉に従っていったん上げた腰を元の椅子に戻してくれた。
そのさい妙なプレッシャーが放散したような変化を感じたのは思い違いだろうか。前後で変わりのない佇まいに小首を傾げる。
訝しげな私の姿に一瞥をくれた彼――アスクレピオスは本日二度目の嘆息を落とすと、長い袖をたくし上げてアームバンドで固定した。露わになった腕は温度すら感じさせない抜けるような白さだけれど、浮き出た筋なんかが彼も|生きている《圏》ことを証明している。
「……もういい。処置の続きを行うから上を脱げ」
「う……やっぱり脱がないと駄目?」
「いくらマスターといえどもその抗弁だけは聞き入れられん。患者という立場でありながら医師の指示に難色を示す愚か者だと、お前にそういった特別なレッテルは貼りたくない。……が。如何してもと渋るなら、看護師長をこの場に呼ぶのも吝かでないな」
「今すぐ脱ぎます」
遠回しに愚患者は滅すると脅迫されていた。本能的に身の危険を察知して立ち上がった。そして早急に腰のポーチと胸のベルトを取り外した。レッドアラームが流れたときの召集前にも劣らぬ行動の速さだ。我ながらフレキシブルな対応に磨きが掛かったと思う。
だが脇に置いてあった籠に装備品を入れる間際、バッチリとこちらを見ていた彼と視線が交わる。どうやら最初から最後まで監視する気満々のようだ。医者である彼は患者の着替えごとき些事なことと一蹴するだろうけど……。こちらは見られてると意識してしまうと脱ぎづらいことこの上ないので黙って背を向けた。年頃の女子ならではの葛藤だ。これくらいの抵抗心には目を瞑ってほしい。
と、ささやかな願いを胸の内で唱えていたものの。
「おい、なぜ背を向ける。まさか|無断外出《エスケープ》するつもりじゃないだろうな」
「ひっ、逃げません! 逃げませんから!」
思い虚しく。せっかちな医術の神様は、背後から腕を回して有ろうことかシャツのボタンに手を掛けてきた。端から見れば後ろから抱きしめられているような格好だ。加えてシャツのボタンも外されそうになっている。さながら恋人同士がやるような一連の所業に恐慌をきたした私は挙措を失い、兎にも角にも守りを固めるようにシャツの前をぎゅっと引っ掴んでガードした。ひく、アスクレピオスの食指が苛立ちを表すように一寸引き攣る。
「マスター……僕の嫌いなものは知っているな?」
「……い、医者の言うことを聞かない患者」
「ほう。知っていながら、敢えて背くような振る舞いをするのか。見上げた根性だ。感心するよ」
賛美するような言葉を並べられているのに、おかしいな、私には毒をたっぷり含んだ皮肉にしか聞こえない。否、状況が状況だ。私の勘は当たっているだろうと確信を得て、恐る恐る口を開く。
「脱がされなくても、自分で脱ぐので……こちらから声をかけるまで、できれば後ろを向いててもらえると有り難いんですけど……」
「僕がお前に肉欲を抱くとでも?」
「直球。いや、そうは思ってないですけど! こう、なんというか、視線を感じるとやりづらいので……」
まことに申し訳ないんですけど……と口を濁すと、アスクレピオスは依然と呆れ混じりの眼を向けながら「難儀だな、お前は」と呟いた。けれど私は何を言われても前言を撤回するつもりはさらさら無く、シャツを掴んだまま黙り込む。そうすると彼は頑ななこちらの言い分を受け入れてくれたのか、やがて溜め息を吐きながら腕を退けて後ろを向いてくれた。
「急げよ。僕も暇じゃない」
まだまだ目を通すべき医学書や参考資料が山とあるんだ。と、淡々と告げた彼に首肯いて、ようやく自らの手でボタンを外す。絡みつく視線がなくなったぶん、ほんの少しの安らぎを得られたけれど、衣擦れだけが聞こえる空間は奇妙な緊張感を漂わせる。ここは速めに診察を終わらせて早々に立ち去ったほうが良さそうだと、未だ尾を引く羞恥心を押し殺してシャツを脱いだ。続いてアンダーウェアも脱ぎ捨てて、上半身は下着だけの姿となる。
覚悟を決めて待たせているアスクレピオスに声を掛けようと息を吸うと、しかし振り返る寸前に背中を指でじかになぞられて吸った息が逃げてった。
「ちょ、先生!?」
「うるさい、喚くな。耳に障る」
狼狽える私をにべもない文句で切り捨てては、構わず指を皮膚に滑らせる。つう、と何かに沿うようにして滑るその指先は、否。|何か《圏》には、よく考えるまでもなく心当たりがあった。
「…………痛みはないか?」
「……うん、大丈夫。もう痛くないよ」
今も残る、痛々しい裂傷の痕。彼はその存在を気にしているのだろう。静かな問いかけに、こちらも落ち着いて事実を話した。
「疵の状態からして、幾分か前の出来事のようだな。カルテには2018年と記されていたが」
「そう……かな、そうかも。あんまり覚えてないや」
「? 自分のことだろう、なぜそんな不明確なんだ。もしや本当に長期の記憶を司る連合野に不具合が起き」
再び淀みなく話し始めた相手を慌てて止めて、そうじゃないの、とかぶりを振る。考察を途中で遮られた彼は不服そうに眦を細めたが、いちおうこちらの主張に耳を傾けてくれる様子ではあった。現界して間もなくは驚くほどの塩対応だっただけに、こうして傾聴の姿勢を取ってくれるようになったのはとても喜ばしい進歩だ。……でも。
「怪我なんて日常茶飯事だったから。どの傷はいつ負って、とか、この傷はどこで負って、とか。自分でも断定できなくなっちゃったんだよね」
こんなふうに言ってしまったら、傷病の類いに敏感なアスクレピオスは軽蔑するだろうか。それとも信じられない、と憤懣遣る方ない侮蔑を帯びた眼差しで私を射貫くだろうか。そうぼやっと考えながらも、されど隠すほどのことでもないと思い切って打ち明けた。カルテを見たと言うのなら、きっとこれまでの記録も全て詳らかになっているだろうから。負傷の頻度の高さは無論、彼も把握しているだろうと想定していた。
アスクレピオスの指がスッと離れる。私は彼の顔を直視することができないまま、しばしの静寂を噛み締めた。現実の時間としては一分にも満たない経過だったかもしれない。だけれど体感的には五分にも十分にも感じられて。そろそろ肌寒さを感じてきた頃合いに、ちょうどアスクレピオスのほうから着席を促された。
「当初の目的どおり診察を行う。まずはこの前の治療の経過と新しくできた疵の確認だ。目下必要な処置もしておくぞ」
「……え? あ、はい」
思ったよりも通常運転な相手の語り口にやや呆気にとられる。てっきりドン引きされるか、あるいは頬を抓られながら「注意力が散漫している証だ、手を焼かせるな莫迦め」と詰られるかのリアクションを予想していたんだけれど。
踵を翻すとアスクレピオスは特に言及することなく、粛々と診察の準備に取り掛かっていた。その様子になおも戸惑いながらスツールに腰掛ける。……さっきのは笑って話すようなことじゃなかったかな、うん、絶対そう。普通は、悲しむところだよね。でも私が暗い顔をしたら、あの子が、マシュが、余計に背負い込んでしまうから。ダ・ヴィンチちゃんたちにも変に心配掛けちゃうし。それに。
(――胸を張れ、って。負けるな、って言われたんだ。あのひとに)きゅ、とスカートの裾を握る。俯きがちになっている私の姿を捉えた彼が一瞬だけ心胆寒からしめるような表情を浮かべていたことにも気付かず。私はおもむろに伸びてきた腕を、ただ他人事のように眺めるだけだった。
「マスター、顔を上げろ。前を向け。僕を見ろ」
「……うん?」
「お前が忘れてしまうと言うのなら、僕が覚えておいてやる」
きょとり。目を瞬かせる。なんのことを指しているのか。要領を得られなくて固まっていると、アスクレピオスはそんな私を他所に薄汚れた腕のガーゼを優しく剥がした。
「これまでの疵も、これからも増えるであろう疵も。隈なく僕が調べて、ひとつひとつ疵の跡を数えてやる。そして治してやる。お前がその疵を見て涙することのないように。孤独の夜、胸が苛まれることがないように」
「アスクレピオス」
「物怪の幸い、|以前ここにいた《圏》医者はマスターの情報について事細かに記録している。日時、場所、負傷時のバイタルサイン。その他諸々。――この記録の続きは、人物の意志は、僕が受け継ごう」
治療の合間に渡されてぴら、と捲った紙の束。カルテらしき書類には――見覚えのある字でビッシリと文が綴られていて。ふいに目頭が熱くなった。
「……ドクターの、字……久しぶりに見たや……」
図らずも笑みがこぼれた私の頭に、大きな手のひらが乗せられる。その弾みで瞳から熱いものが滴り落ちた。……ぽつ、ぽつ。白い紙が黒くなるほど文字が並んでいるそれに、水玉模様が彩られていく。
「お前はこのカルデアでは人類の希望だの最後の要だの散々期待を寄せられアテにされているが。それらの肩書きはおおよそ脆い|人間《マスター》ひとりに背負える代物じゃない。だから」
「…………っく」
「仕方ないから、僕も共に背負ってやる。お前の望みを、お前が一番最善とする形で帰結できるように、力を尽くしてやる。当然、この僕がいるかぎり誰一人として死なせはしない。全員須く治療して種の保存を守ってやる。マスター。この言葉の中には、例外なくお前も含まれているからな」
濡れた目尻をそうっと指先が伝う。温度がないようにも見える彼の手は、しかし想像よりも遥かにぬくもりを持った手だった。
『――――立香ちゃん』
今もまだ心を巣くう声が鼓膜の裏側で蘇る。今だけは泣いてもいい。そう、許されたような気がして、私の瞳からはひっきりなしに涙が溢れた。その涙を、熱を持った指先が拾ってくれる。受け止めてくれる。それがとてつもなく嬉しくて、切なくて、また一層に胸を締め付けた。
「……会わせたかったな。あなたと、ドクターを」
「ああ。僕も、会って話がしてみたかった」
閉じた瞼の裏、夢を見る。彼と彼が並んで話し、議論を白熱させる夢を。そしてふたりがこちらを見て、ふと微笑んで、私の名を呼ぶ。
そんな儚くも愚かしい夢を、浅はかな私は繰り返し見てしまうのだ。
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