カタカタと絶えずキーボードをタッピングする音がしんと静まり返っている部屋に木霊する。そろそろ直に日付も変わってしまう。闘員達も大半が部屋に引っ込んで寝支度を整えている頃だろうし、自分も暫し休憩を挟むかとデータと小難しい顔で向き合っていた平門は凝り固まった眉間をほぐして溜め息を落とした。

(……このままではいずれ厳しい顔付きになりそうだな)

無意識とはいえシワは寄せっぱなしにするものではないと実感する。考える問題点が多すぎてつい眉間やら雰囲気に険しさを滲ませてしまっていたが、この前名前に「……老けました?」と躊躇いもなく率直に問われたことが意外と身に堪えていた。まったく歳は取るものじゃないなと内心苦い思いに駆られながら、気を取り直してグルリといっぺん首を回す。

さて再開するかと平門が再び居住まいを正した時、艇の空調以外聞こえなくなっていた部屋に突如としてノックされる音が響く。こんな時間に来客なんて珍しいと思いながら平門が入室を促せば妙に畏まった態度の名前が窺うように扉の隙間から顔を覗かせていて、今良いですか?とどことなく尻込みして訊ねてきた。

「晩御飯をお持ちしました。あなただけ仕事が一段落着くまでは良いと仰ったでしょう? もう夜分も遅いから刺激物は避けて、胃に優しいものを拵えたので食べてください」

「……ああ、そういえば食事なんてすっかり頭から抜けていたよ。思い出したら確かに腹が空いてきたな」

「仕事に没頭されるのは構いませんが少しは息抜きしないと体調を崩しますよ。ほら、こっちへ来て」

「今しがた休憩はしてたんだが……まあ、そうだな。有り難く頂こうか」

ふと強張っていた表情筋を綻ばせて平門が席を立てば、名前が小さな配膳台に乗せてきた食事を応接用のテーブルの上にてきぱきと並べて用意する。箸にスプーン、必要な食器をあらかた揃えて平門が腰掛けたソファーの前に差し出せば、彼はいただきますと一言告げて丁寧な所作で箸を取った。

黙々とおかずを口に運び、あっさりとした卵スープを啜る男の姿を見て向かい側に腰掛けた名前が眉を潜める。彼の目の下には疲弊が色濃く陣取る隈。
どうせ休憩といっても殆ど無いに等しいものでしょう?と目敏く見抜いて指摘すれば、平門は耳が痛いよと苦笑してはぐらかした。否定はしない、あまつさえ肯定するような濁した物言いからやっぱりと名前は肩を竦めて立ち上がり、空腹を満たしていく平門の背後に素早く回る。
意図が読めない突拍子な行動に平門は訝しげに首を捻り、名前?と振り向きざま彼女の名を呼んだ。しかし前向いててくださいと注意されて言われた通り体勢を元に戻せば、肩に名前の両手が触れる。やわやわと絶妙な力加減で揉まれ、心地よさに平門の口からは吐息が溢れた。

「……明日は雪でも降りそうだ」

「失礼な。折角人が気を使って差し上げればその言い草ですか」

「珍しいものでつい口が滑った」

気にするな、と後ろで不貞腐れたように膨れっ面をする名前の気配を察して平門は微かに微笑んだ。
つい、なんて言っておきながらこの男がわざと自分の癪のツボをつつくような軽口を叩いているのは百も承知だ。けれど一々こんなことで目くじらを立てるほど名前も若くない。
いらっとはしたものの嘆息を吐くことでやり場のない苛立ちをうやむやに発散して、名前は上体を屈めて石のように固くなっている平門の肩に顔を埋めた。

「お願いだから無理はしないで。根を詰める前に私を呼んで。あなたがぶっ倒れたら元も子も無いでしょう」

「……ふ、雪が降るというのもあながち冗談じゃなくなるかもな」

「またそうやって茶化さないで。真面目に言ってるのよ私は」

「ああ、分かってる」

────けどそれは、お前にだって言えることだぞ名前。

そう言って平門は身体を捻り名前の両脇に手を差し込んで、驚く彼女を他所に器用に軽い体躯を持ち上げて己の膝の上に引きずり込んだ。っ埃が立つでしょう!と窘める名前の声など何のその。彼もまた名前の目の下を彩る隈を指先でなぞって、気遣わしげに眉根を寄せる。俺だけじゃない、身をすり減らしているのはお前もだろうと平門が鋭く言及すれば、名前はきまりが悪そうに顔を逸らした。

(…それでも私は、あなたより負担も責任も遥かに少ない)背負う荷物の重圧が違うことがこれほどにも歯痒い。
だから今夜も平門を労るつもりで食事を運んで自分が出来ることを手伝おうと意気込んで部屋に訪れたのに、まるでこんな、自分が寄り掛かって甘えてしまっているような不格好。不可抗力とはいえ情けない、と内心忸怩たる想いに苛まれながら、名前は腹回りに回った逞しい腕に自分の手をそっと添えた。

「……こんなつもりじゃ無かったのに」

「残念だったな、見込みが外れて」

「全くです。どこぞの頑固者のせいで」

「お前はそうやって俺に甘えていれば良いんだ。ただ今日は俺もお前にこうして寄り掛かるから、暫くこうさせてくれ。……名前の匂いは落ち着くからな」

「……やだ、変態くさい」

「……だとしても安心しろ、俺がこんなこと言う相手は後にも先にもお前だけだ」

それもどうなの、と呆れ返った声色で辛口な突っ込みが入った。歯に衣着せず遠慮のない物言いに男が苦笑する。先程名前の尻込みした態度は平門の気分を窺っていた故に恐る恐る、という感じだったのだろう。疲労はあっても思ったより精神的にも余裕がありそうな平門の様相に安心したのか、緊張気味だった彼女の肩肘からは力が抜けて今は言われるがまま平門の身体に体重を預けていた。

重くありません?と投げ掛ければナメるな、と強気な発言が返ってくる。これくらいどうってことない、そう言って名前の頭にコツンと同じく頭をもたげた平門は気だるそうな動作で瞳を綴じた。
このまま危うく眠りそうだ。ふとした拍子に気を抜けば夢の淵へと落ちてしまいそうになる意識をこの場に繋ぎ止めながら、襲い来る眠気を紛わせるために平門は目の前にある柔らかい質感の髪を撫でた。だがそんな些細な行動にさえ疲労感が表れていたのだろうか、浮かない顔をした名前が身体を離し、やはり今日はもう休んだ方が……と提言してきた。

すかさず間合いが空いた距離を埋め、遠慮して離れた彼女を自分に引き寄せる。このままで、と言っただろう?と億劫そうな口調で平門がそう釘を差すと、何を言おうが徒労に終わるだけだと悟った名前はまた平門に寄り掛かった。

「……ご飯、冷めますよ……?」

「名前の料理は冷めても美味いから大丈夫だよ」

「……このままの体勢は、余計疲れると思います」

「俺は癒される」

「早く食べて寝た方が賢明で、」

「名前」

「──……、もう、仕方のない人ね」

頑として譲る気は無い、といった平門の構えに根負けした名前は深々と嘆息を吐いて肩を落とした。やっと折れたか、と観念した様子の名前に平門が笑う。こんなに優しく髪を撫でられ、あまつさえ幼子をあやすような声で諭されたら折れる他無い。
分かってるクセに、と名前が毒づけば頭の上で男が微笑んだ。

自分の頭を撫でる片手とは違い、手持ち無沙汰となっている平門のもう片手を掴み、手のひらをグニグニと揉みほぐす。剣を握って豆だらけの硬い手は名前が指圧してもビクともせず、むしろ名前の指の方にダメージが募った。私だって前線に出るのは稀だけれど常に鍛練は怠っていないのに、とやや不満げに平門の手のひらを凝視する。まるで拗ねた子供のような面持ちを見せる女の姿に、男の尖った神経は穏やかに凪いでいった。

「今の面倒な案件が一区切り着いたら二人でどこか出掛けるか。温泉にでも」

「温泉って……どこの熟年夫婦ですか」

「事実もうそんな感じだろう?」

「違うわよ馬鹿」

「ああ、新婚のが相応しいか」

「るっさいわハゲ」

「ハゲてない」

ヤメロ、と即座に反応してきた平門に名前が鼻で笑った。ああ言えばこう言う、一見可愛くない女にも見えるが、名前は憎まれ口を叩いても一向に平門から離れようとはしない。
頭と頭は触れ合わせたまま、手を重ねて指でじゃれて遊び続ける。

……こういったところが堪らない。男心をくすぐるツボをことごとく突いてくる。
まさか朔や燭さんにもこんなことしてないよな?とさりげなく探りを入れれば、キョトンとした目で見上げられた。

「……してないわ。あなた以外には」

「……そうか」

なら、良い。

柔軟剤の香りがする彼女を抱き締め、平門は誘われるように目蓋を綴じる。静かな部屋、腕の中には確かな温もり。
今度こそ、彼が眠気の荒波に抗うことは敵わず。そのまま混濁した意識は闇へと沈んでいった。

「……おやすみ、平門。いつもお疲れ様」

額に触れた柔い唇の感触に、男が目を覚ますことは無かった。



@「料理長に甘える平門さん」、「平門さんに甘える料理長」とのことでしたので一気に纏めました。…ら、甘える平門さんの方が強くなってしまいましたすみません。
ALICE+