熱に浮かされ、脳そのものを鷲掴まれてしつこく揺さぶられているような気色悪い感覚。胸焼けはするわ頭痛はするわ目眩でろくに立てやしない。ここ最近は好む酒も控えていたのに散々な有り様だなコレは、と二日酔いとは似て非なる症状に辟易とした朔は憂鬱な嘆息を一つ落とした。

常なら側にいて手厚く介抱してくれただろう兎達は現在タイミングの悪いことにメンテナンス中。艇の防衛以外に関する雑務はこの時ばかりは休んでいて、つまりは風邪を引こうと何をしようと闘員達は皆自分のことは自分でやらねばならないのだ。我ながら運が無いと小さく自嘲する。
暫くは仕事で缶詰め状態だったんだから骨を休める良い機会になったんじゃないですか?とわざわざ調合して薬を持ってきてくれた喰がそう言っていたのを思い出す。苦い薬の味諸とも思い浮かべながら、こんな吐き気やら怠さやらで苦悶を伴う骨休めなんてたまったモンじゃない、と朔は内心毒づいた。

少し眠りたくとも何故か眠れない、妙に冴えた思考を持て余しつつ寝返りを打つ。いちいち身体を動かすのさえ億劫だった。
だから扉がノックされても返事を返すのさえ反応が遅れてしまって、朔が「誰だ?」と問い掛ける前に扉を叩いた人物が失礼しますと丁寧な所作で部屋に足を踏み入れた。聞き覚えのある凛とした声と現れた姿に瞳を見開く。

「朔、お加減はいかがです?」

「……名前? おま、なんで此処に……っげほ」

「ああ、無理して起き上がらないで。喰君から連絡が入ったんです、あなた一人だけじゃ心許ないから私に看病をしてほしいと」

「……はは、成る程。そりゃ確かに申し分ない頼もしい人選だわ」

悪い、と普段の飄々とした振る舞いは形を潜め、しおらしく謝罪を口にした朔に名前は緩くかぶりを振った。どんなに強い人間でも身体が弱ると心も弱る。彼もまた例に漏れず、一人で身体を焦がす焦熱と戦っていたのだろう。名前の姿を一目捉えると微かに強張っていた表情は綻んだようにも見えた。

「食事まだですよね?」と名前が首を傾げれば力なく頷かれる。悪戦苦闘していた喰と代わってお粥を作って持ってきたことを告げれば、ぶつくさ文句垂れながら鍋と奮闘する部下の様相が目に浮かんだのか朔も苦笑い。
サンキュ、と全身にのし掛かる倦怠感を堪えながら重たそうに男が上体を起こせば、すかさず名前が粥と水を乗せたお盆を脇に置いて背中を支えた。本当に願ってもない心強い人材が来てくれたと胸を撫で下ろす。

「けど、貳號艇での仕事は大丈夫なのか? 平門とかすげー渋ったんじゃねえの?」

「あの頑固者なら言いくるめてきたのでお気になさらず。朔の風邪が悪化して長引けば溜まった分の仕事を肩代わりするのはあなたですよって釘を差したら一発でした」

「さっすが。……ま、よっぽどの事じゃない限り肩代わりすんのは平門じゃなくキイチとか壱組のヤツらになっちまうけどな」

どっちみち御免だわ、と苦虫を噛み潰した面持ちで朔が肩を竦めた。体調を崩してても部下や周りのことを思いやる彼にクスリと微笑して食事の支度を整える。吐き気や胸焼けがしている、とあらかじめ喰から訊いていたから粥は臭いもキツくなく栄養価も豊富なあっさりと飲み込めるたまご粥にしてきた。卵は無論半熟で、隠し味に生姜をちょこっと。
芯から暖めて汗をかけば多少なりとも熱も下がるだろう。後は身体を拭いて着替えもさせて……と名前が順を立てて指を折りながら独り言で呟けば、耳ざとく聞き逃さなかった朔が粥を口に入れる前にピタリと停止した。

「……スケベって言ったら怒るか?」

「間違いなく放置して帰りますね」

「よし、気にすんな忘れろ」

朔もこの時ばかりは地獄耳なのも損だなとしみじみ実感した。名前も冗談が全く通じないワケでは無いが、事実無根なえもいわれぬ汚名を被せられるのは腹立たしい。
ましてや此方は朔の身体を真剣に考えて配慮しているのにそう思われるのは心外だと女がにっこりと脅し紛いの笑顔を浮かべれば、頬を引き攣らせた男も取り繕うように冷静にかわす。 

着替えの手伝いは喰君に頼むから安心してください。ぎこちない素振りで咀嚼する朔に名前がしょうがないと言わんばかりな顔付きで溜め息すれば、野郎に身体拭かれても嬉しくねえなー、と粥を食べながら極々軽いノリで返ってきた。
名前がやったらやったでスケベとかふざけた事を吐かすクセに……じろりと胡散臭さを双眸にたっぷりと滲ませてさっぱり読めない心情を推し量るように一瞥すれば、あっという間に食を進めた朔は呑気にもごちそーさんと何食わぬ顔でのたまった。

空になった茶碗を見て、食欲はあることを察する。聞けば朝から何も食べずに薬だけ先に飲んだようだ、粉末状のものだからまだ負担は軽いとはいえ何とも胃に悪い。こんなことなら遠慮なんて水臭いことはせずに直ぐ自分に連絡入れてくれれば良かったのに、と食器を片しながら名前は落胆した。

「たっぷり水分を摂ってから休んでくださいね。汗をかいたら脱水症状を引き起こす可能性もありますから」

「分かってるって。何から何まで悪いな」

「……病人は細かいこと気にしないで甘えてれば良いの。朔も此所のところ仕事詰めだったんでしょう? ならちょうど良い休息を与えられたとでも思って、誰に気兼ねするでもなくゆっくり休みなさいな」

「あー……喰にも似たようなこと言われた」

「皆あなたのこと心配なのよ。あなたは疲れてても滅多に表には出さないから」

あ、でも会議中の居眠りとかはとても褒められたことでは無いですけどね。と抜かりなく駄目出しを食らった。ちぇ、と名前から手渡された水を一気に飲んで喉の乾きを潤す。
寝台に腰掛けた名前はされど注意を意にも介さないような朔に苦笑し、もう一杯と返されたコップに新たに水を注いで再び渡した。

「……朔は疲れてる時ほど気丈を貫こうとするから、心配」

「……そうかぁ? そんなつもりねーけどな」

「平門もおんなじ。あの人はいつも以上に口が達者になるわ」

「ああ、それは分かるわ。んで機嫌がわりーとイヤミったらしく棘も含まれんの」

「そうそう、めんどくさいの」

平門が耳にしたらそれこそ心外だと目を瞬かせるだろう。な。ね。と二人して此処には居ない同僚の意地の悪さをからかった。

すると今までは落ち着いていた咳がまた出始めて、激しく噎せる朔の些か丸まった背中を名前が撫でる。そろそろお喋りは止めにしてひとまず休ませた方が良いと判断を下した名前は立ち上がり、しんどそうな朔を横にさせて幾重にも布団を被せた。そんな重ねられたらあちぃよ、と朔は苦笑いしたが、寒さに凍えて身体冷やすよりはずっとマシでしょうとごもっともなお言葉に口を噤んだ。

熱を吸ってすっかり温くなったタオルを側に置いてあった洗面器の水に浸し、しっかり水分を絞ってから朔の額に乗せる。「気持ちー」と目尻を窄めた彼の様子に名前も頬を緩め朔の脇に腰を下ろして、断続的なリズムでぽん、ぽん、と胸の辺りを優しく叩いた。

「……、お前、ホントに貳組の母として板についてきたよなー…」

「あら、今日一日だけはそう思って甘えてくださっても構わないですよ? ただし借し一つだけど」

「結局そこかよ。無理無理、こんなおっかない母親子供も裸足で逃げてくって」

「失礼な。普段こそ物腰柔らかな皆の理想の母ですよ私は」

「自分で言ったら台無しだろそれ」

指摘すれば名前はクスクスと笑う。当然お互いに軽口の応酬だ。

軽口ついでに面白半分で布団の中から朔が手を出せば、彼の唐突な行動の意図が読めない名前は不思議そうに目を丸くする。

「んじゃま、甘えさせてくれんなら手ぇ握っててくれないかオカーサン?」

「…まあ可愛くない。やっぱりこんな大きな子供願い下げだわ」

「要るって言われても困っけどな……それだったら俺は綵祢の子供じゃなくて旦那に立候補するし。どうだ? 良物件だぜ?」

「三食昼寝つきでお小遣いたっぷり貢いでくれるなら考えますね」

「おお恐っ。名前に金なんかやったら鬼に金棒じゃねえか。後は包丁か?」

「そしたら向かうとこ敵なしですようふふ」

さあ、じゃれ合いもお仕舞い。
真面目に大人しく休んでくださいと名前に窘められ、実のところ腹も満たして眠気もピークだった朔はわり、と一言断ってから促されるまま瞳を綴じた。
二人の手は希望通りに繋がれ、素肌を伝わって体温が交わる。汗ばんでいて申し訳ないとは思っても、朔はその手を離すことは敵わなかった。風邪の時は人肌が恋しくなる、というのはあながち過言でも無いかもしれない。

傍で感じる気配と温もりに、心は今までになく安らいで。


「……名前、暫くはここにいんだよな……?」

「……ええ。あなたが起きるまでこうして傍に居ますから」


安心して、おやすみなさい。

ぎゅっと強くなった手の力。まるで本当の母親のような偉大なる名前の包容力に恐れ戦きながら、朔はふっと微笑んで闇に落ちた。

──今日は、このまま良い夢が見れそうだ。


(……まったく。平門も朔も、なんで男ってこうも頑固者が多いのかしらね)



@「風邪引いた朔さんを甲斐甲斐しく看病する料理長」、ということで。甘える平門さんと大差無い…だと……
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