突拍子に予期もせずとんだ頭痛の種が舞い込んできたと困り果てる。思いがけない燭先生からの大胆な宣告に度肝を抜かれつつ、私は尋常でない疲労感を持て余しながら帰艇した。

結局あれよこれよと流されて、ディナーだけでなく色々と街を見て回り、お土産までご馳走してもらった為、こんな夜分も深まった時刻の帰宅になってしまった。
幸い替えの服は持って来ていたから何としてでも証拠隠滅してから艇に帰ろうとしていたのだが、私の思惑は案の定、燭先生に見抜かれてしまい「着替えるくらいなら私が脱がせるぞ」と脅迫まがいの言葉を口にされ、渋々頂いたドレス姿のまま。この格好を見られたら間違いなく問い質されることだろう。
ましてや艇の皆には研案塔に行く、帰りは少し遅くなるけど心配しないでとしか伝えてませんし。今の私は明らかに研案塔だけじゃなく他の所にも行ったんだと匂わせる洒落た身なりだ。
煌びやかとまではいかないけれど滅多にこのような格好はしないから闘員もびっくりするだろう。……最悪、平門にタレコミされる可能性もある。燭先生の算段通りに事が進むのだけは回避したい。面倒事はこれ以上御免だ。

よって、私は今までに無いくらい神経を張り詰めさせて自室へと向かった。怪訝そうな羊達の視線を全身で受け止めながら、周りに入念な警戒を配り不審者極まりない挙動で素早く動く。
部屋に戻ったらさっさとシャワーを浴びて、肌の手入れも済まして布団に潜ろう。そしたら懸念も憂鬱も吹っ飛んでいくだろうから。また平常心を保って過ごせるだろうから。

……そう、意気込んで無理に自分を奮い立たせていたのに。難に難は重なるもので。

「ずいぶん遅い帰りだったな。さぞかし燭さんとのデートも満喫出来たんだろう?」

私に安寧は訪れないものかと、自分の不運さをつくづく嘆いたものだった。

我が物顔で私のベッドの上に居座り、憮然とした表情かと思いきや、いっそ気味悪いくらいの笑顔を浮かべていらっしゃる。けれど上機嫌なんてワケは無く、むしろ虫の居所は底辺にすらあるだろう。言葉の節々に帯びた棘、背後から醸し出される剣呑とした禍々しいオーラが何よりの証明。矛盾した言動に寒気がする。
何でここにいるんですか、と一応訊ねてみれば、珍しく燭さんからメールが入っていたとやはり想定内の返答が。どうやらあの方は本気らしい。単純に私が掌の上で転がされてるだけだと信じたかったが、ここまで手の込んだ悪ふざけをよもや燭先生がする筈も無い。どことなく苛々している様子の平門を前に、私はとうとう腹を括って信じざるを得なくなった。

「…で、何故あなたは此処にいるんです? 燭先生からメールが来たと言えど、それが私の部屋に来る理由にはならないでしょう」

冷やかしにでも来たのか、或いは連絡も無しに帰りが遅くなったことについて咎めに来たのか。深々と溜め息を吐きながら私はもう半ば投げ遣りになっていた。出来るならば言及するのは明日に後回しにしてもらいたい。今日は兎に角くたびれたんだと何とも身勝手な言い分だが、ロクに平門を気遣える余裕も無いほど疲れていた。

髪を掻き上げてネックレスを外そうとすると、しかし留め具が髪と絡まっていて中々外れない。暫し手間取っているといつの間にか後ろに回っていた平門の協力を得てようやく外すことが出来て、相変わらず不穏な空気に居心地の悪さを感じながらも礼を言う。
すると彼は無言のままおもむろに身を屈めて、驚くべきことに私の頚椎に吸い付いた。チリッとした痛みに眉を寄せて、慌てて私は平門の側から飛び退く。
痺れるように焼き付いた感触は、ジワリと融けて私の脳髄までも侵して行った。

「……本当に、この時ばかりはお前のことが心底憎たらしいよ」
「……は……?」
「知らないフリをしているのか、もしくは真面目に気付いていないだけか。どちらにしてもタチが悪い。俺はこんなに分かりやすくアピールしていると言うのに、お前はのうのうと何食わぬ顔で他の男と二人で出掛けて──こんな服まで貰って着飾って」

ネックレスは返されることなく、くしゃりと平門の手のひらに握り締められたあと粗末に床に投げ捨てられた。一気に間合いを詰められて髪飾りさえ強引に奪われる。文句を言おうとふいに見上げた平門の顔は、もはや表情が無く能面のようで。息を飲んで足を竦ませた束の間の隙、腕を引かれてベッドの上に文字通り放り投げられた。衝撃に耐えて反射的に目を瞑れば、軋むスプリングと近付く気配に平門がのし掛かって来たんだと状況を察する。
これは流石にマズイだろう。そもそも私たちはそういう関係では無いのだし、燭先生とのことで平門にどうこう口を挟まれる筋合いは無い。なのに、私は直接平門に物申すことは出来なかった。それより先に彼は私の唇をなぞって、一瞬端正な顔立ちを歪めたと思うと私の首元に顔を埋めたから。

また口付けられるかと身構えれば、されど一向にそれきり動こうとはしない。首筋に掠める吐息がくすぐったくて身体をよじれば腰に両腕を回されて、まるで駄々を捏ねる子供のような体勢に呆れ混じりの息を零した。
仕方ないと諦めながら後頭部を撫でれば鎖骨に歯を立てられたからペシンと叩いて制したが。まったく油断も隙も無い。

「…酷いな。燭さんにはそんなことしない癖に俺には素っ気ない」
「あなた先生にこんなこと出来ます?」
「まあ先ず無理だな」
「でしょうね」
「────だが、面白くない」

怒気を孕んだ低い声に思わずビクリと肩が震えた。私の腕をシーツに縫い付ける手の力は徐々に加減を無くしていって、圧迫される苦しみと痛みに顔を顰めても解放はされず。平門とてとうに気付いているだろうに、どうしてこんな手荒な真似を。
だが意味がわからない、と抵抗すれば軽々とねじ伏せられる。ハナから彼に勝てるとは毛ほども思っちゃいないが、こうも赤子の手を捻るように物ともせず押さえ付けられると歴然とした力量差にウンザリした。あまつさえ平門が不機嫌な理由でさえ教えられていないのだ、理不尽な待遇に私もいい加減痺れを切らしてきて。

常に相手と意思疎通が交わせるワケじゃない。いくら付き合いが長いからと云えど口にされなければ分からない事だってあるのだと、そうハッキリ告げれば好きだ、と間髪入れずに返ってきた言葉。
……は?と頭が真っ白になった。

「……その様子だと全然気付きもしなかったんだな。ただの家族愛のようなものだと思い込んでいたか」
「……いや、だっててっきり、いつもの軽口かリップサービスかと……」
「……日頃の行いが祟ったか。ああ念のため言っておくが、俺も冗談なんかでは無いからな。不本意ながら燭さんには先を越されてしまったが、俺だって更々譲る気は無いんだ。この期に及んで今更他の男に横取りされるなんてまっぴら御免でね」

考えただけで腸が煮えくり返りそうだ、と私の首筋から頭部を上げて顰めっ面を晒した平門の姿に、意外と彼にも余裕が無いことを表情から悟った。眼鏡越しに視線がかち合う暗い紫の双眸は、底知れなくて。
自然と拘束されていた手首が離され、髪から頬、頬から頸動脈へと手のひらが降りていく。
仕事は終えたからか普段装着されている白手袋は外されていて、直に感じる平門の体温に顔を逸らした。だけど、

「逸らすことは許さない」

直ぐに強制的に平門と目線を合わせられ、弱い耳元で息諸とも囁きこまれた。

「燭さんの思う壺に嵌まってしまうのも癪に障るが、それでも名前が掻っ攫われるよりはマシだ」
「今日燭さんをその目に映した分、それ以上にたくさん俺を見てもらおうか。独占されるのはつまらない、それは元々お前の心臓を所有する俺だけの特権だろう?」
「こんな服、出来るものなら今すぐにでも破いて脱がしてやりたいが今日は流石に止めておくよ……だが、今度時間が空いた時は俺と街に買出しに行くぞ。そしたら俺が名前に似合うドレスを見立ててやるから」

「燭さんにも誰にも渡さない──絶対に」

「〜〜〜ッもう、良いからとっとと私の部屋から出てってこのスケコマシっ!!」

渾身の力を振り絞って、私は思いっきり平門の体を蹴っ飛ばし廊下に居た数体の羊にコレを部屋まで送還するよう急遽命じた。

小っ恥ずかしい台詞の数々に私の顔は大変他所様にお見せできるほどの物じゃない有り様となっているだろう。それもこれも、唐変木で偏屈な先生とひねくれ者の大きい子供が紛れもない原因だ。
なんだ、今日は厄日か。災難が度重なる凶日か。冗談はあの二人だけにしてくれ。と切実に懇願しても、今まで起きた出来事が夢のように覚める訳でもなく。

「………勘弁してよ………」

ぽつりと私の嘆きは静かになった部屋に虚しく響いた。
もう恋愛沙汰は懲り懲りなのに、燭先生と平門は我関せずとして私の心に入ってこようとする。既に私の中は、二度と会えない彼でいっぱいいっぱいだと云うのに。

彼らは、忘れろと言うんだ。

「………どうしましょ」

ふー、とぐしゃぐしゃになった布団に横たわって入り乱れた感情に苛々した。

ヤケに身体が重い。平門を突き飛ばしたので恐らく最後のエネルギーを使い果たした私は、眠気に誘われるがまま目蓋を閉ざした。
……こうなりゃ自暴自棄だ。
明日にでもなったら二人にはこうメールを送ってやろう、「私が欲しくば振り向かせてみせなさい」と。

宣戦布告には、宣戦布告で。
見事私の関心を寄せることが出来たら、その時は私も潔く腹を括りましょうかね。



@「燭さんに口説き負かされる料理長」、「平門さんに恋愛的な意味で口説かれる」→料理長たじたじ、というリクエスト内容でしたので、いっそ三つ巴展開にしてしまえ!ということでこうなりました
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