……最近、どうも燭先生がおかしい。

「名前、一つ訊ねておくが今週中のどこかに休みはあるか?」
「……んーと……明々後日、午後からなら」
「……分かった、なら空けておけ。新しいレシピを開発したは良いものの、塩分調整に栄養管理士が手こずっているらしくてな……良ければ相談に乗ってやってほしい」
「分かりました」
「折角の休日なのにすまない。詫びと言っては何だが、終わった後はディナーにでも連れて行ってやる」
「え? でも私……」
「なんだ、私が相手では不服か」
「……そうでは無いですが」
「なら良いだろう。念のために替えの衣服なども用意しておけ」

ここまでの会話ならいつもと何ら変わりない通常の燭先生だとお思いだろう。有無を言わせない高圧的な口調に居丈高な態度。あくまで一応私の意思を確認してはいるが私が何か言おうとしても拒否はさせないとばかりに途中で挫き、半ば強引に約束を結び付ける。流石に燭先生にご馳走されるのは……と遠慮して腰が引けてもそんな風に問い掛けられたらノーとは言えず、結局押しに負けてしまった私も私だが。
本当にこれまでの流れは、良くある事で。最近新たに変化が齎された事といえば、

「当分仕事ばかりに根を詰めてロクにお前と話す機会も無かったからな。たまには誰にも邪魔されずゆっくり二人で話したい」

こんな、返答に困る科白をサラッと吐くようになったこと。

ここ最近ずっとそうだ。心機一転、物腰を柔らかくしたのかと様子見をしても他に対する人当たりが良くなったとはお世辞にも言えない。高飛車な姿勢は相変わらず、看護師の方々から上がる不評も決して消えた訳では無いから、どうやら私にだけこのような言葉を投げるようになったらしい。
今までは特別誇張して言うほど反応はしなかったのに、この頃髪型を変えたり身嗜みを僅か工夫したりすると小まめに声を掛けてくれる。似合っているとか居ないとか、服装なんて動きやすければ何でも良いというような驚きの関心の薄さだったのに。それに以前よりも遥かにスキンシップを図る回数が増した。時折頭を撫でられることはあったけれど、無闇に手とか髪を弄ったりとかそんな行動は取らなかったというに、不可解な言動に疑念は募っていくばかり。

もちろん私と先生が恋仲とかそういう関係になったわけじゃない。あり得ない。私達の間に色恋沙汰なんて以ての外で、所詮は仕事上での繋がり、もっと言うなら学生時代からの腐れ縁のようなものなのだから。あまつさえ私は先生にはしょっちゅう子供扱いされているし、好みのタイプに当てはまっている訳でもない。
間違いなく恋愛対象云々からは除外されているだろう。だからあり得ないと胸を張って断言出来る。

…………出来る、筈だった。

「足元段差がある。気を付けなさい」
「……は、い」

階段に差し掛かる前の段差に躓いてしまわないようさり気なく腰に回された腕に戸惑いながらも、大人しくエスコートされて洒落た店内へ足を踏み入れる。
店の照明は控えめな明るさ、店員も懇切丁寧な持て成しをしてくれて、全体的に上品な雰囲気を漂わせているが萎縮するような居心地の悪さは不思議と感じない。しかし自惚れかもしれないがあの燭先生に女性として扱われている、という事態がどうしようもなくむず痒くて落ち着かなくて。
席に着いてもソワソワと挙動不審気味な私を見兼ねたのか、先生はメニューから目を離しどうした、と眉を顰めた。

「出来る限りお前も馴染めるような店を選んだつもりだったが。やはり畏まるか?」
「そう……ですね。仕事の接待でも滅多にこのような所には来ませんし」
「自然でいい。気兼ねせず好きな物頼め」
「………なんだかすみません」

慣れているのか余裕の身のこなしである彼とは違って強張っていることしか出来ない私は場違いのような気がしてならない。自然で居ろと言われてもリラックスなんて到底無理だ。
正直今すぐ帰りたい。いやタダより安いモノは無いから頂くものはちゃっかりきちんと頂きますけども。燭先生の厚意を無碍にするのも居た堪れないし……というのは建前だが。そこんところ我ながら揺らぎない。ある意味頭の中は冷静だった。

ひとまず二人ワインを注文して、窓辺の席から夜景を眺めながら運ばれてくるのを待つ。未だ緊張感は拭えないけれど美味しい飲み物に食事を摂れば少しは力も抜けるだろう、そう一心に平静を繕う私を何故か先生はジッと見ていた。物言いたげな視線に気付いては居るけど敢えて素知らぬフリしてやり過ごす。腹の底を探るような綺麗な鴇色の瞳が、今は妙に気まずかった。

それから程なくして待望のワインがテーブルに届いて、注がれたグラスを傾け二人静かに乾杯する。嚥下すればアルコールの熱さが喉を通して空っぽな胃に浸透して、けれどこれまた上質な味と香りにふと私の頬からは笑みがこぼれ落ちた。

「……やっと笑ったな」
「あ、」
「私以外見ている者は居ないからマナーとか細かい事は気にしなくて良い。……もっとも取り立てて言うほどでは無いが」
「料理人としては大事な事ですからある程度学んでは居たんです。まあ、実践する場は少なかったんですけれど」
「平門とこういう所に来たことは?」
「無いですね。お互い休暇はあってもあまり時間が合わないので」
「ほう……なら、まだ私にも希望の活路は残されているということだな」
「はい?」

思わず私の間の抜けた声がホールに反響した。幸い人は少なく、居たとしてもそれぞれの話題に花を咲かせていてこちらを怪訝に思った人は居ないよう。その事に少なからずホッと胸を撫で下ろしつつも、唖然として燭先生を見やれば彼はニィ、と口角を上げて意地の悪い笑みを浮かべる。正しく平門のようだ、本人に言ったら確実に機嫌を損ねて嫌がるだろうが。

「私は少し前までお前のことをお節介な上物好きな小娘としか思っていなかった。あの平門に好き好んで自らついて行くなど、余程酔狂か奇特な人間だと」
「残念ながら好き好んで……って訳では無いですけどね。止むを得ず……いやそれでも最終的には自分で選んだことだからそう言われても仕方ないのか……」
「だがしかし、不覚にもそんな人間に共に居るうちに情が湧いてしまったらしい」
「………………え?」
「酒に弱いお前をいっそ自我を失くすくらいまで泥酔させて持ち帰りしてやろうと謀るくらいには、な」

衝撃のカミングアウトの連続だった。
生憎とここまで言われて言外に含まれた意味に気付かないほど私は鈍感では無い。とぼけることは容易いけれど、きっと燭先生には拙い逃げ口上など看破されてあっさり切り捨てられることだろう。
ならこの八方塞がりな状況をどう打開するべきか。まさか、とは疑っていたけれどもいざとなると対応が出来ない。何かを口にすることも儘ならず、考えあぐねながら燭先生の顔を見つめていれば彼はおもむろに手を伸ばしてきて私の髪を一房取った。

「男が女に服を贈る意図は知っているな」
「……、いや、燭先生がそんな……」
「やましい事は考えないとでも? 私だって男だということを忘れていないか」

今着ているドレスもディナーに出掛ける前、燭先生があらかじめ周到に用意してくれていた物だった。
よもやそんな魂胆があって強制されたとは思いもせず、まんまと乗せられて着用してしまったが。もっとも今更後悔しても後先に立たず。後ろには一歩も引けなかった。

目まぐるしく混乱しているところに容赦無く畳み掛けられる真意。怒涛の攻めに狼狽えることしか出来ず、ただ固まって好きにされる私を先生はいつしか真剣な表情で見ていて、心なしか熱の籠った眼差しに芯から身体が震えた。さながら捕食者のように獲物を狙う鋭い目付きはどことなく昔から恋い焦がれていた『彼』に似ているようで────息をこらして、固唾を飲んだ。

髪の合間を梳いて滑る無骨な指先は壊れ物を愛撫するような、そんな慈しみが込められているような感じさえした。

「本当は帰すつもりは無かったが……やはり今日はそのまま艇に帰れ。平門にその服装を問い質されたら私からプレゼントされたと率直に言ってやれば良い」
「、なにを……」
「宣戦布告、とでも言っておこうか」
「……燭先生。ひょっとしなくても、もの凄く楽しんで居られませんか……?」

ちっとも私の話を訊いてはくれない先生に辟易としながら、かろうじてそう問いかければ相手は何のことやらと白々しい素振りを見せる。私がこんなに悩んでいるのは紛れもなくあなたの発言のせいなのに、ジロリと睨みつけても返ってくるのは悠然とした余裕の笑み。もしかしてからかわれてるだけじゃ無かろうか。私が動揺して本気にしたところをネタバラしして冗談だ、なんて。可能性はゼロで無い。むしろそっちのが信じられる。

けれどなぁんだ、燭先生の悪ふざけか。私も随分ナメられたものだ全くもう。……なんて、自己解決も許されず。
ワイングラスに添えていた手を取られて、指先にそっと口付けられた。唇の柔い感触に、瞬く間に顔面に熱が集中する。

「負けるつもりは毛頭無い。平門にも、お前の心を巣食う男の影にも」
「……!」
「せいぜい、今の内に腹を固めておくんだな。私に愛される覚悟とやらを」
「……な、な」

確実にオとす、と自信たっぷりに告げられた言葉に絶句して呆気に取られる私を他所に、燭先生はでんと構えた佇まいで再びワインを口に運んだ。私の中にいるリヴァイの存在に気付かれていただけでも仰天したのに、仕舞いにはそんな恥ずかしい事を言われて今にも卒倒してしまいそうだ。
この人は誰だ。本当にあの先生なのか。頭が堅くて融通も利かなくて恋だの愛だのくだらない、なんて鼻であしらって世のカップルを見下しているような。

そんな人が、私を?
……これこそタチの悪い夢じゃないのか。

燭先生にキスされた方の手をテーブルの下に隠して抓ってみても痛覚はあり、ましてや先ほどの生々しい感触が消える訳でもない。正真正銘世知辛い現実だった。
無論、その後も気まずさは残して。いつになく饒舌な燭先生の攻め手に耐えながら、まともな味も感じられない心地のまま肩身の狭いディナーを終えたのだった。
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