※花礫と无が艇に来る前のお話



「……名前? どうしたんだ、俺の部屋の前で。用があるなら先に入って待っていれば良かったのに」
「……入っても、いいの?」
「なに今さら遠慮してる? ……ほら、そんな薄着で廊下に居たんじゃ身体も冷えるだろう。おいで」
「ん」

葬送任務から帰ってきて目にしたのは、俺の自室の扉の前で蹲る珍しい来客だった。いや、さほど珍しくも無いがこんな夜分も深まった時刻に訪れることは滅多に無い意外な人物だった。小さな影──名前に手を差し伸べると名前はこくんと頷いたあと俺の手を取って立ち上がる。
そのまま部屋に招き入れれば自然と手は離されて、どうやら俺がジャケットを脱ぐためにも両手が使えなければ不便だとさりげなく気を使ってくれたらしい。早く、と心なしか催促するような眼差しに微笑をこぼして、脱いだジャケットを羊に渡せばまた即座に掴まれる俺の右手。自由な左手で名前の柔い頭を撫でた。

「ツクモと一緒に寝てたんじゃないのか?」
「ねてた。……でも、夢、見て……」
「夢?」
「……ヨタカお兄ちゃんと、ツバメお姉ちゃんにおこられる夢」

「心配かけて!」って、ふたりに抱き締められながら怒られる夢。
長く繊細な睫毛を伏せながら、ポツポツと話し出す名前はどことなく寂しそうだった。……無理もない、と思う。いくら血の繋がりが無いとはいえ、本当の兄妹同然のように育ってきたんだ。それをこちらの勝手な言い分で引き剥がして、挙げ句知らない人間ばかりに囲まれて家族とは別の場所でひとり生活している。まだ幼いこの子にとって制限のある今の環境はとてつもなく息苦しいだろうし、心細くもあるだろうな。與儀やツクモを世話係としてカバーさせては居るものの、子供へひょんな時に襲い掛かる寂寥感までも払拭出来るほど與儀達も完璧では無い。如何なる時でもこの子の傍から離れない、というのは仕事の関係上厳しいのだ。故に例え甘えたくても、名前は誰にも甘えることが出来ないのが現状で、こちらの落ち度を反省する。

「お兄ちゃん……」続けざま名前が呟いた名は、奇しくもヨタカという少年を指してはいないようだった。兄がふたり居る、と艇で預かる前に名前本人が言っていたから、おそらくそちらが血を分けた兄なのだろうと項垂れた少女の背を宥めながら冷静に思考を廻らせる。しかしその兄もだいぶ前から行方知らずだと言っていたか。血の繋がった名前でさえ双子のもとへ置いてたったひとりどこかに消息を絶ってしまったらしい。自分の意思か、もしくは面倒な事件に巻き込まれたか。名前が住んでいたのはあのカラスナだ、何が起こっても何らおかしくは無い。もっともそれをこの子の前で口にするほど俺は浅はかでは無いから、苦い笑みを携えながら「……故郷が恋しくなったか?」と敢えて兄の話題には触れなかった。名前はしばし考え込んだあと、言うか言うまいか逡巡するような素振りを見せる。「正直に言って良いんだよ」と迷う姿勢をそっと促してやれば、名前はおずおずと俺の顔色を窺いながら躊躇いがちに肯定した。

「……でも、與儀たちともはなれたくない……わたし、どうすればいい?」
「どうすれば、か……それは名前、お前が決めることだ」
「わたしが?」
「そう。……とはいえ、すまない。お前を家族のもとへ帰してあげることは当分難しそうだ。まだあの恐い生き物達は名前を狙って外を彷徨いているようだからね」
「……やだ。それじゃあ、お家帰ってもツバメお姉ちゃんたちにめーわく、かける……」
「…………そうだな」

ぎゅっと俺の服の裾を握って憂いげに眉を寄せた名前に良心が痛みつつも、落ちそうになっていた身体をもう一度ちゃんと膝の上に抱え直して後頭部を胸に引き寄せた。

俺達大人が企てる裏の思惑なんてまったく知らない、穢れすら知らない純真無垢な子供。悪く言えば利用、良く言えば保護。俺達は名前の身体を調べれば能力者の情報の手懸かりを得られるかもしれない貴重な端緒を拾うことができ、名前は俺達と居れば能力者に襲われる危険性もなく身の安全も保証されている。これ以上無いくらい利は一致していた。
騙すような形で半ば強引にこの艇に連れて来てしまったことは申し訳ないと思っている。しかし事態は困窮していた。こんな幼い子供の力を借りなければならない程に。

やがて限界が訪れたのか、俺にもたれ掛かる名前はうつらうつらと微睡んでいた。ツクモも目が覚めたとき、隣で寝ていた筈の名前が居なくなってると分かったら驚くだろう。本来ならこのまま部屋まで送り届けるのが最善なのだろうが、名前が俺の服を手放す気配は見せず。致し方ないと察した俺は羊にツクモが起きた場合のことを想定して伝言を頼んだ。胸に顔を埋めた名前の頭を撫でて、あやすように背を叩く。

「……ひらと……ねむ……」
「このまま寝ても良いぞ、俺はまだ少し仕事が残っているから」
「んう……ひらともねるの」
「……やれやれ。しょうがない子だ」

……なんて、素直に甘えられて満更でもない俺も俺だが。利用するなんて言っておきながら必要以上この子を傷付けたくはない。
ただ護りたいのだと俺の中には確かに親心のようなものが芽生えていた。無論、そんな綺麗事だけで能力者からも上層部の連中からも名前を守りきれるとは到底思っちゃいないが。

「ひらと……ねよ?」
「ああ、……一緒に寝ようか」

小さな手のひら、つり目がちの瞳。奪ってばかり来た俺達にとって徐々にかけがえのない存在となりつつある儚くか弱い命。

安らぎを齎してくれる幼い少女の額に、守護者としての口付けを。
ALICE+